繊維専門商社「田村駒」を創業した初代・田村駒治郎(たむらこまじろう)の生涯を描く立志伝です。
初代・田村駒治郎は、丁稚から身を起こして洋反物商「田村駒」を創業し、デザインと数々のアイデアいで田村駒を大阪船場で三本の指に入るまでに成長させた。さらには、政界へと進んで貴族院議員としても活躍し、政界・財界で立志伝を成し遂げた。
生年月日 | 慶応2年(1866年)6月18日 |
生まれ | 摂津国池田村槻木(大阪府池田市) |
死没 | 昭和6年(1931年)3月31日 |
没年齢 | 享年66 |
父 | 笹部九兵衛 |
母 | 笹部ムメ |
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田村駒治郎(旧姓:笹部駒治郎)は、慶応2年(1866年)6月18日に、摂津国池田村槻木(大阪府池田市)で笹部九兵衛の次男として生まれた。母は笹部ムメである。
実家・笹部家は酒造業を営み、摂津国神田村で庄屋組頭などを務める地元の名家であったが、田村駒治郎(笹部駒治郎)が生まれた頃には、既に家業は傾いていた。さらに、田村駒治郎が9歳の時に父・笹部九兵衛が死去する。
父・笹部九兵衛の死後、家督を相続した兄が白米商を始めたが、上手くいかなかった。
田村駒治郎は母・笹部ムメを助けるため、明治11年(1878年)に大阪へ出て関東呉服店に奉公するが、関東呉服店の没落により帰郷する。
次いで、田村駒治郎は明治12年(1879年)、摂津国池田村(大阪府池田市)で酒造業を営んでいる西田與兵衛の西田商店へ奉公に出た。
田村駒治郎は勤勉でアイデアに溢れていたため、奉公先の西田商店で頭角を現し、西田商店で「西與の知恵駒」という異名をとるようになった。
また、この時代は家督継承者は徴兵を免除されていたので、次男だった田村駒治郎(笹部駒治郎)は徴兵から逃れるため、明治16年(1883年)に親戚・田村キクの養子に入って田村姓を名乗り、明治19年(1886年)7月に田村家の家督を相続する。
明治時代に入ると、洋反物のモスリン友禅が普及し始めており、大阪府北区中之島の岡島千代造商店の岡島千代造は、明治14年に「岡島式緋友禅写し染法」を考案し、日本では不可能と言われていたモスリン友禅の染色に成功した国産モスリン友禅の先駆者である。
しかし、岡島千代造が発明した「岡島式緋友禅写し染法」は、費用が高額で、均一に染まらないという決定があり、実用の域には達しておらず、実用に向けて改良中であった。
酒造業「西田商店」に奉公していた田村駒治郎(笹部駒治郎)は、主・西田與兵衛に知恵と将来性を買われ、モスリン友禅を製造業「岡島千代造商店」で働くことを勧められた。
田村駒治郎は西田與兵衛の勧めを受けて、明治17年(1884年)に見習いとして岡島千代造商店に入り、岡島千代造商店で働く一方で、副食代を倹約して本を買い、毎晩11時まで夜学に通って勉強し、努力を積み重ねて英語を身につけていった。
こうした努力は直ぐに認められ、田村駒治郎は営業員へと昇格し、岡島千代造の信頼を得て、末弟・笹部栄吉も岡島千代造商店で働くようになった。
明治20年(1887年)、染法の改良を続けていた岡島千代造が、モスリン友禅の画期的な染法「板揚糊写し染法」を開発した。
子供の頃から絵が得意だった田村駒治郎は、次々と斬新な意匠を考案。岡島千代造の染法と田村駒治郎の意匠によって、岡島千代造商店に注文が殺到するようになった。
やがて、岡島千代造商店は、京都の堀川新三郎商店と並んで、「西の岡島」と呼ばれるほどの存在となった。
岡島千代造商店は染色加工だけを手がけていたが、田村駒治郎が生産・販売まで手がけるように提言した。
提言を受けた岡島千代造は、明治24年(1891年)に岡島千代造商店を岡島合名会社へと改組し、工場部門と販売部門を設けた。田村駒治郎は3の1を出資して岡島合名会社の共同出資者となり、工場長に就任した。
工場長就任から2年後の明治26年(1893年)、田村駒治郎は無地染の鮮明な染色法を完成させた。それは輸入品に劣らない品質だった。この頃から、問屋を設立してモスリン友禅を大阪中に販売する事を夢見るようになった。
そして、田村駒治郎は夢を実現させるべく、岡島千代造の賛同を得て、明治27年(1894年)3月15には岡島合名会社が製造するモスリン友禅を販売する洋反物問屋「神田屋田村駒商店」(後の「田村駒」)を創業する。
創業時の資本金は100円だった。岡島合名会社からの報奨金と長年の積立金を合わせると500円になり、100円を資本金、400円を運転資金にした。全財産を投じての創業だった。
田村駒治郎は、岡島合名会社に在籍したまま、神田屋田村駒商店を創業しており、神田屋田村駒商店の経営は、弟・平松徳三郎に任せた。
創業当初の経営は経営は非常に厳しかったが、創業から5ヶ月後に日清戦争が勃発した。
神田屋田村駒商店は日清戦争後の好景気の波に乗って業績を伸ばし、明治29年(1896年)には伏見町へ移転し、明治30年(1897年)には大阪府大阪市安土町4丁目心斎橋筋南西角に移転し、念願の目抜き通りに進出する。
伏見町から心斎橋への移転は、店舗の広さはさほど変わらないが、ステータスが格段に上がった。ただし、家賃も上がった。
心斎橋へと進出した田村駒治郎は、意匠を強化するため、明治31(1898年)年には業界に先駆けて意匠室を設置し、西村直仙・繁仙親子・松村景春ら図案家を招いて、意匠の研究に取り組んだ。
子供の頃から絵が得意だった田村駒治郎は、モスリン友禅に重要なのはデザインだと気づいており、創業当時より、「友禅は意匠図案が生命」として意匠に力を入れ、この意匠室は外部に秘匿された。
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明治31年(1898年)、外国から輸入した更紗(さらさ)が注目を集めていたが、更紗は外国製に頼っていたため、デザインが日本向きではなかった。
そこで、田村駒治郎は、輸入する更紗を日本人向けにデザインして販売する事を思いついた。
田村駒治郎は何の伝も無かったが、神戸の英国商館に飛び込んで交渉し、デザインをイギリスやドイツに送って現地で加工させ、明治33年(1900年)7月に友禅柄の更紗を初輸入することに成功。友禅柄の更紗は大好評だった。
神田屋田村駒商店は洋反物商としては後発組であったが、田村駒治郎は出張販売や意匠によって売り上げを増加していった。
そして、明治36年(1903年)には、大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地に2階建ての大きな自社店舗を建設し、名実ともに伊東萬商店・山口商店と並ぶ洋反物商のトップ3へと飛躍して、「意匠の田村駒」と呼ばれるようになった。
また、私生活においては、明治29年(1896年)、京都に住む高田市兵衛の長女・高田フク(田村フク)と結婚。明治37年(1904年)2月には長男・田村駒太郎が誕生。明治40年(1907年)1月には長女・田村光子が生まれ、公私ともに充実していた。
大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地に建設した2階建ての自社店舗は、長男・田村駒太郎が生まれたのを機に3階を増築し、意匠室も強化した。さらに、日露戦争の特需によって業績を倍増させていた。
そのようななか、明治41年(1908年)に岡島千代造の岡島合名会社が解散することになったため、田村駒治郎は岡島合名会社を退社して、神田屋田村駒商店の経営に専念するようになる。
元々、神田屋田村駒商店は、岡島合名会社が製造するモスリン友禅を販売するために設立した洋反物問屋なので、自前の製造部門が無かった。
そこで、岡島合名会社から完全に独立する形となった神田屋田村駒商店は、自前の製造部門を作るため、田村駒友禅工場を設立し、モスリン友禅の自社生産を開始する。
ところで、神田屋田村駒商店は、友禅柄の更紗を輸入して大ヒットさせており、友禅柄の更紗の輸入を続けていた。
しかし、田村駒治郎は日本で消費する更紗を海外からの輸入にたよっていては日本の工業の発展に繋がらないと考えており、輸入に並行して国産更紗の研究・開発を続けていた。
そして、明治43年(1910年)に、舶来の更紗に劣らない国産更紗の製造に成功。更紗市場は舶来品に独占されていたが、田村駒治郎は舶来品による更紗市場の独占を防ぎ、日本の繊維業界に大きな功績を残した。
その後も、田村駒治郎はデザインに力を入れたほか、出張販売など、数々のアイデアによって関東進出を果たし、全国へと販路を広げ、さらには中国への輸出を開始した。
日露戦争後の好景気と第一次政界大戦の影響で業績は倍増し、もはや個人商店で営業していくには限界を迎え、大正7年(1918)4月30日に株式会社田村駒商店を設立した。
こうして、田村駒治郎は、大阪・船場で有数の洋反物商を築きあげたほか、数社の要職を歴任し、一代にして巨万の富を築き上げ、財界立志伝を成し遂げた。
そして、大正10年(1921年)に大阪商業会議所議員に選出されて大阪財界に貢献し、同年、東区から選出されて大阪市会議員となり、大阪の発展に尽くした。
さらに、国税9800円を納め、大正14年(1925年)には多額納税者による互選によって多額納税者議員に選ばれて貴族院議員となり、政界立志伝を成し遂げた。
所属 | 貴族院 |
会派 | 研究会 |
選出 | 多額納税者議員 |
在任期間 | 大正14年(1925年)9月29日から死去する昭和6年(1931年)3月31日まで |
関東大震災後の経済混乱や第1次大戦終結による好景気の反動により、日本の経済は悪化していた。
そのようななか、昭和2年(1927年)3月14日、大蔵大臣・片岡直温が「東京渡辺銀行が、ただいま休業しました」と発言した。
実際は東京渡辺銀行は破綻を回避していたが、片岡直温の発言に端を発し、銀行の取り付け騒ぎが起き、東京では1週間で6つの銀行が潰れた。
さらに、三井・三菱と並ぶ大商社「鈴木商店」も破産し、日本は未曾有の大不況を迎えた。世に言う「昭和恐慌」である。
昭和恐慌の影響でモスリンの相場が史上最安値まで下落。田村駒商店の取り扱い金額の80%はモスリンだったので、田村駒商店は大打撃を受け、在庫の山が積みあがった。
しかし、田村駒次郎は専属工場の縮小を避けるため、京都染色工場を吸収合併するなどして工場の建て直しを図った。
そして、田村駒治郎はこうした苦境を打開するため、得意分野である意匠部門の強化を図り、小売店参加の七彩会、外部図案家も招いた久津和会という意匠研究会を相次いで結成し、新しいデザインの開発に取り組んだ。
また、主要輸出先の中国で日貨排斥運動が激化していたので、田村駒治郎は中国から満州・台湾・東南アジア諸国へと積極的に進出し、海外への販路を拡大していった。
こうして田村駒商店は倒産を免れ、昭和恐慌を乗り切っていくことになる。
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昭和4年(1929年)11月、田村駒治郎は、永年実業界に尽くした功が認められ、緑綬褒賞を受賞する。
田村駒治郎は昭和4年ごろから体調不良を訴えていたが、田村駒商店を立て直すために奔走していたうえ、貴族院議員をいていたこともあり、激務が続いていた。
このようななか、田村駒治郎は貴族院に出席するため、上京していたとき、持病の神経痛が悪化し、東京・聖路加病院に入院。昭和6年(1931年)3月31日に聖路加病院で死去した。死因は呼吸困難だった。享年66。
葬儀は四天王寺本坊で盛大に行われた。法名は「大全院殿廣譽忠節居士」。死後、数々の功績に対して、従六位に叙された。
田村駒治郎の遺言により、生誕地である摂津国池田村(大阪府池田市)に多額の寄付がされ、当時の金額で8万円という巨費を投じて池田公会堂が建設された。
初代・田村駒治郎の死後、長男・田村駒太郎が家督を相続し、父の名前を襲名して2代目・田村駒治郎を名乗り、田村駒商店を引き継ぎ、プロ野球団にも進出した。
やがて、日本が真珠湾攻撃を行って第二次政界大戦に参戦して軍事態勢になると、横文字は敵性語となって禁止されたうえ、一部の日本語も使用を禁止され、多くの企業は社名の変更を余儀なくされた。
「商店」「営業」なども金儲けを連想させるとして使用を禁止され、佐々木営業部は「佐々木実業」へと社名を変更し、岩井商店も「岩井産業」へと社名を変更した。
このようななか、田村駒商店も「商店」を削除し、昭和18年(1943年)3月に「(株)田村駒」へと改称した。
非常に温厚だが、任侠的な側面があり、事業に関する事にはどこまでも努力主義であったという。
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長女・田村光子によると、父・田村駒治郎は暇さえあれば意匠室に籠もり、図案家に囲まれ、常に図案を考えていた。好みの服装をした女性がいると、どこまでも後を付けていった。
田村家は古い仕来りの残る商家で、田村駒治郎は正月の行事など、妻に厳しく言いつけていた。妻・田村フクは古い仕来りに苦労し、長女・田村光子が梅田女学校に入学した年の正月に、流行性感昌に感染し、わずか4~5日の横臥でで死去した。
長女・田村光子は母・田村フクの苦労を見ていたため、サラリーマンとの結婚を望み、安田信託に勤務していた飯田陽(田村陽)と結婚した。
通天閣の名物となっている「ビリケンさん」は、1908年に芸術家フローレンス・プレッツが夢の中で見た人物を具現化したもので、「幸福の神様」とて世界中で流行した。
ビリケンさんは明治42年(1909年)に日本にも伝わり、初代・田村駒治郎は当時流行していた幸運の神様「ビリケン」を福の神として祭った。
そして、初代・田村駒治郎は商売繁盛などを祈願して、明治44年(1911年)に神田屋田村商店の代表商標として取得して、販売促進などに利用したので、ビリケンさんは日本でも大流行していった。
初代・ビリケン像は、大阪の遊園地「ルナパーク」に設置されたが、大正11年(1922年)にルナパークが閉鎖され、行方不明となった。
大阪・通天閣にある「2代目・ビリケンさん」は、初代・ビリケン像が行方不明になったため、田村駒のビリケンさんをモデルにして作られた。
笹部九兵衛 | 父 |
田村駒太郎 | 長男、明治37年(1904年)2月21日生まれ。 父の死後、父の名前を襲名して二代目・田村駒治郎として田村駒の近代化させ、プロ野球球団「ライオン軍(松竹ロビンス)」に資本参加してプロ野球界でも活躍した。 |
田村光子 | 長女、明治40年(1907年)1月生まれ。 高島屋を創業した飯田家の田村陽(飯田陽)と結婚。戦後、坂野惇子(佐々木惇子)・田村江つ子(榎並江つ子)と共に皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」を創業した。 |
田村照子 | 娘、明治42年(1909年)11月生まれ。 |
田村房子 | 娘、明治44年(1911年)11月生まれ。 |
田村寛次郎 | 次男、大正3年(1914年)2月生まれ。 バンドー化学を創業した榎並充造の次女・田村江つ子(榎並江つ子)と結婚。妻の田村江つ子(榎並江つ子)は前後、坂野惇子・田村光子とともに子供服ブランド「ファミリア」を創業した。 |
田村和子 | 五女、大正7年(1918年)7月生まれ |
備考:長女から四女のうち1人が夭折しているようで、順序は不確定。五女・田村和子は確定。娘・田村光子は長女だと証言しているので、長女と確定。
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