初代・田村駒治郎が創業した繊維商社「田村駒」の企業立志伝です。
繊維商社「田村駒」は、初代・田村駒治郎(笹部駒治朗)が明治27年(1894年)3月15日に大阪府大阪市東区横堀2丁目32番地で、岡島合名会が製造するモスリン友禅を販売する洋反物問屋「神田屋田村駒商店」として創業した。
創業当時の店名は「神田屋田村駒商店」とされているが、創業当時の決算台帳には「田村商店」と記されていることから、創業当時から明治末頃までの正式名称は「田村商店」と考えられる。
しかし、近所にメリヤス商「田村商店」があったため、初代・田村駒治郎の「田村商店」は「田村駒商店」もしくは「神田屋田村駒商店」のように呼ばれており、それが店名として定着したものと推測されている。
また、開業日についても、一般的には明治27年(1894年)3月27日とされているが、決算台帳によると開業日は明治27年(1894年)3月15日と記されていることが判明している。
明治27年(1894年)3月15日が帳簿上の開業日で、明治27年(1894年)3月27日は実際にオープンした日とも考えられているが、それを裏付ける資料は無い。
さて、創業者の初代・田村駒治郎は、設立当時、モスリン友禅を製造する岡島合名会社の共同出資者で、岡島合名会社の工場長を務めており、神田屋田村駒商店は岡島合名会社が製造するモスリン友禅を販売する目的で設立された。
初代・田村駒治郎は、岡島合名会社に在籍したまま神田屋田村駒商店を設立しており、神田屋田村駒商店の経営は実弟・平松徳三郎(笹部徳三郎)に任せた。
なお、設立当初の社員は、初代・田村駒治郎、実弟・平松徳三郎、母・笹部ムメ、従業員1名の計4人であった。
創業時の資本金は100円。岡島合名会社からの報奨金と長年の積立金を合わせると500円になり、100円を資本金、400円を運転資金にした。全財産を投じての創業だった。
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創業当初の経営は経営は非常に厳しかったが、創業から5ヶ月後に日清戦争が勃発した。
神田屋田村駒商店は日清戦争後の好景気の波に乗って業績を伸ばし、明治29年(1896年)には大阪府大阪市東区伏見町5丁目へ移転し、明治30年(1897年)には大阪府大阪市安土町4丁目心斎橋筋南西角に移転し、念願の目抜き通りに進出する。
さらに、初代・田村駒治郎は、「友禅は意匠図案が生命」として意匠に力を入れており、明治31(1898年)年には業界に先駆けて意匠室を設置した。
明治33年(1900年)、初代・田村駒治郎は輸入に頼っていた更紗(サラサ)を日本向けにデザインすることを思いつき、何の伝も無かったが、神戸の英国商館に飛び込んで交渉して、イギリスへデザインを送って現地で加工させた。
そして、明治33年(1900年)7月に友禅柄の更紗(サラサ)を初輸入することに成功した。この友禅柄の更紗は大好評で飛ぶように売れた。
田村駒は洋反物問屋としては後発組であったが、斬新なデザインのモスリン友禅と友禅柄の更紗(サラサ)で売り下を伸ばし、伊東萬商店・山口商店と並ぶ洋反物問屋のトップ3へと飛躍して、「意匠の田村駒」と呼ばれるようになった。
そして、明治36年(1903年)には、大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地に2階建ての大きな自社店舗を建設し、名実ともに洋反物業界で確固たる地位を築いた。
明治37年(1904年)2月には長男・田村駒太郎が生まれた事を切っ掛けに、初代・田村駒治郎は2階建て社屋に3階を増築し、意匠室も強化した。
田村駒は、日露戦争による特需で売り上げを倍増させていく。また、明治40年(1907年)には、国産の綿ネルに着目し、友禅柄の斬新な意匠と配色を応用した両面捺染ネル「宝船」を商品化。これが大ヒット商品となる。
そのようななか、岡島合名会社が解散することになり、初代・田村駒治郎は明治41年(1908年)に岡島合名会社を退社し、神田屋田村駒商店の経営に専念するようになる。
岡島合名会社から完全に独立した神田屋田村駒商店は、自前の生産工場がなかったので、田村駒友禅工場を設立し、モスリン友禅の製造を開始する。
明治43年(1968年)には輸入の更紗に劣らない国産更紗の製造に成功し、輸入品に独占されていた更紗市場の輸入独占を阻止し、日本の繊維業かいに貢献する。
さて、中国は綿の大消費国であり、ヨーロッパからも大量に輸入していたが、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパからの輸入が途絶えたため、日本からの輸入を拡大した。
これを切っ掛けに、日本の繊維業界は中国への輸出を拡大していく。田村駒も大正4年(1929年)に輸出部を創設し、中国へと積極的に輸出を開始した。
神田屋田村駒商店の業績は拡大する一方で、個人商店のままでは資金繰りに支障が出てきたため、大正7年(1918年)4月30日に「株式会社田村駒商店」を設立した。
そして、初代・田村駒治郎が社長に就任し、弟・平松徳三郎が代表取締役専務に就任した。
また、大阪・船場の商家は、店と自宅が一体で、田村家は田村駒商店に付属していたが、大正9年(1920年)4月に田村家の自宅部分が田村駒商店から独立し、大阪府大阪市東区和泉町へと移転する。
第一次世界大戦は大正7年(1918年)11月に終結。ヨーロッパの立ち直りの遅れから、大正8年も好景気に恵まれたが、大正9年に好景気の反動で大不況が訪れた。世に言う「大正の大恐慌」である。
大正の大恐慌によって、繊維相場は半値から4分の1程度まで下落して、繊維業界は大ダメージを受けた。
しかし、田村駒商店は、思惑で投資をしておらず、堅実な経営を続けていたので、損害は比較的に軽微ですんだ。
大正10年(1921年)には、長男・田村駒太郎が入社したほか、初代・田村駒治郎が大阪商工会議所議員に当選。また、大阪市議会議員にも当選した。
さらに、田村駒商店はモスリンの機械捺染を開始し、モスリン生地の輸出も開始した。
そして、初代・田村駒治郎は大正12年に通信販売部門を設置し、「村駒商報」を創刊して通信販売に着手。商標を登録した幸福の神様「ビリケンさん」をイメージキャラクターに起用し、大好評を得た。
大正14年(1925年)には初代・田村駒治郎は多額納税者議員として貴族院議員に当選。昭和元年(1926年)には長男・田村駒太郎が欧米への視察旅行に出た。
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第一次政界大戦の終結に伴う反動不況と、関東大震災後に起きた金融混乱の影響で、日本は長引く不況に苦しんでいた。
そのようななか、昭和2年(1927年)3月14日、大蔵大臣・片岡直温が「東京渡辺銀行が、ただいま休業しました」と発言した。
実際は東京渡辺銀行は破綻を回避していたが、片岡直温の発言に端を発し、銀行の取り付け騒ぎが起き、東京では1週間で6つの銀行が潰れた。
さらに、三井・三菱と並ぶ大商社「鈴木商店」も破産し、日本は未曾有の大不況を迎えた。世に言う「昭和恐慌」である。
昭和恐慌の影響でモスリンの相場が史上最安値まで下落。田村駒商店の取り扱い金額の80%はモスリンだったので、田村駒商店は大打撃を受け、在庫の山が積みあがった。
しかし、初代・田村駒次郎は専属工場の縮小を避けるため、京都染色工場を吸収合併するなどして工場の建て直しを図った。
そして、田村駒治郎はこうした苦境を打開するため、得意分野である意匠部門の強化を図り、小売店参加の「七彩会」、外部図案家も招いた「久津和会」という意匠研究会を相次いで結成し、新しいデザインの開発に取り組んだ。
また、主要輸出先の中国で日貨排斥運動が激化していたので、田村駒治郎は中国から満州・台湾・東南アジア諸国へと積極的に進出し、海外への販路を拡大していった。
こうして田村駒商店は海外に活路を開き、昭和恐慌を乗り切っていくことになる。
しかし、業績回復や貴族院議員として多忙な日々を送っていた初代・田村駒治郎が昭和6年(1931年)3月31日に死去してしまう。
初代・田村駒治郎の死後、長男・田村駒太郎が父の名前を襲名して、2代目・田村駒治郎となり、昭和6年(1931年)5月13日に田村駒商店の社長に就任した。
その直後、昭和6年9月に満州事変が勃発。同年12月には時の大蔵大臣・高橋是清が金輸出再禁止と管理貨幣制への復帰を宣言するとともに、軍事費拡張路線を取り、日本は軍需要拡大によって昭和恐慌を脱出していく。
2代目・田村駒治郎は、若手の一族の平松健一郎を代表取締役に抜擢し、2代目・田村駒治郎、平松徳三郎、平松健一郎の3人代表取締役体制をとった。
そして、景気回復を背景に、繊維問屋から商社への転換を図るべく、世界各地に販路を形成し、積極的に輸出を行った。
さらに、国内自主生産が可能である人絹の将来性に着目して昭和9年(1934年)1月に太陽レーヨンを設立。翌年の昭和10年(1935年)に岡山県児玉に工場を建設し、人絹糸・スフ綿の生産を開始した。
ところで、田村駒は株式会社となっていたが、大阪・船場の古い風習を色濃く残す商家で、従業員は家族共々、田村駒に住み込んでいた。
田村駒は業務拡大に伴って隣接地を購入して店舗を拡大していたが、店舗は手狭になる一方で、昭和8年(1933年)には本社の向かいの店舗を借りて、田村駒商店北店を開設していた。
しかし、それでも社屋は手狭になる一方で、住み込んでいた従業員は隙間を見つけて寝るという劣悪な環境にあった。
ところで、田村駒は、伊藤萬(イトマン)・丸紅の3社で社会人野球の三店リーグを作って激しく争っており、商売だけではなく、野球部でもライバルだった。
野球好きの2代目・田村駒治郎は、伊藤萬(イトマン)・丸紅をかなりライバル視しており、伊藤萬(イトマン)が御堂筋沿いへ出店するのに対抗して、田村駒も御堂筋沿いに本社を移転しようとした。
しかし、「先代が田村駒を築いた地を離れるべきではない」という古参幹部の反対に遭い、堂筋沿いへ進出は断念を余儀なくされた。
そこで、2代目・田村駒治郎は昭和11年(1936年)11月に新社屋として6階建てのビルを建設。新社屋の完成に伴い、丁稚や番頭制を廃止して部長・課長などの役職を定め、服装も着物から洋服へと変えた。
また、2代目・田村駒治郎は新社屋の完成に先だって、社員寮「三国寮」を完成させており、船場の風習となっている住み込み制を廃止。三国寮には野球場やテニスコートがあり、レクレーションとして運動会が開かれるようになる。
さて、2代目・田村駒治郎は野球部にかなり力を入れており、野球経験者を社員として採用しており、野球部はプロ野球団とも交流があった。
さらに、三国寮の野球場で存分に練習が出来たので、メキメキとチームは強くなり、昭和14年の都市対抗野球大会では全国大会へと出場し、準々決勝で優勝候補で関連会社の太陽レーヨンを撃破。決勝で藤倉電気に負けたものの、堂々の準優勝を手にし、全国に田村駒の名前を示した。
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さて、野球が好きな2代目・田村駒治郎は、反対する幹部の意見を押し切り、昭和11年(1936年)にプロ野球団「大東京軍」を取得してプロ野球団のオーナーとなった。
こうした、新社屋移転問題や大東京軍取得問題によって幹部との軋轢が生じており、幹部の平松徳三郎が昭和13年(1938年)3月に退社。平松徳三郎に続いて平松系の幹部も退社してしまう。
平松徳三郎は初代・田村駒治郎の実弟で、田村駒の創業当時から、田村駒の参謀として活躍していただけに、田村駒にとっては大きな損失であった。
戦時体制の影響でモスリンの製造が禁止されて田村駒は主力製品を失い、7・7禁止令(贅沢禁止令)によって柄物も禁止され、田村駒の意匠室も解散に追い込まれた。
やがて、繊維は完全に配給制になったため、田村駒は配給会社の代理商社として化粧品でも文具でも、扱える物は何でも扱った。
そして、戦況の悪化に連れ、次々と社員を戦争へ送り出すこととなり、社員も減少してしていった。
戦時下の影響で、金儲けを連想させるような言葉は非推奨となり、田村駒商店も「商店」を削除して「田村駒」へと改称した。
田村駒が設立した太陽レーヨンは帝国制麻と合併して帝国繊維となり、2代目・田村駒治郎は帝国繊維の副社長に就任した。
そして、昭和20年(1945年)3月には大阪がB-29に爆撃され、田村駒の本社ビルは外壁を残して全焼し、在庫を全て失った。昭和20年5月に焼け残ったビルの1階を補修して、ここを拠点して活動を続けた。
田村駒は、昭和18年に(1943年)は、陸海軍に50万円を寄付したほか、海軍に艦上戦闘機「田村号」4機を寄贈して国に貢献していたが、田村駒の努力は報われず、敗戦を迎える。
田村駒は日本の敗戦により、海外資産を全て接収された。東京店、本社ともに全焼して、在庫も全て失っており、戦後は裸一貫からのスタートとなる。
とにかく扱える物は何でも扱い、復興を目指した。このころ、よく売れたのは化粧品と帆布製のカバンだった。
そのようななか、昭和21年(1946年)2月9日、MPが田村駒に突入してきた。
田村駒の本社4階に綿布が1万5000反と進駐軍の缶ビールの空き缶が山のように積まれており、これに隠退蔵物資(物資隠匿)の嫌疑がかけられたのである。
これは法的に問題の無い物だったが、MPは社内で銃を乱射し、2代目・田村駒治郎と幹部は弁解する時間も与えられず、そのままGHQが入る天王寺美術館へと連行された。
この事件は最終的に無罪となるが、一審で有罪となってしまう。配給制で物資の無い時代だったので、隠退蔵物資(物資隠匿)は非常にイメージが悪く、田村駒は信用が失墜し、社内にも動揺が広まった。
このため、2代目・田村駒治郎は事件の責任を取る形で昭和21年(1946年)8月10日に社長を辞任し、弟・田村寛次郎が田村駒の社長代行に就任した。
また、GHQによる公職追放は当初、政治家が対象だったが、財界の要人にまで及んだ。
2代目・田村駒治郎は田村駒の社長を辞任後も帝国繊維の会長を務めていたため、公職追放となり、昭和22年1月に帝国繊維の会長も辞任した。2代目・田村駒治郎には、プロ野球チームのオーナーとしての地位だけが残った。
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戦後、2代目・田村駒治郎を失った田村駒は、難しい局面を迎えたが、社長代行の田村寛次郎が手腕を発揮し、こうした難しい局面を乗りきっていく。
日本政府は昭和21年(1946年)8月に企業に対する戦時補償を売り切り、特別経理会社を指定する。
田村駒はこの特別経理会社となったため、戦争での損失額を明らかにし、再建準備計画を立てて財務局に提出した。この再建準備計画は昭和24年4月に認可された。
一方、海外の営業所や戦地からも続々と社員が引揚げてきたが、田村駒には引揚げてきた社員を受け入れるだけの余裕はなく、社長代行の田村寛次郎は、引揚げてきた社員に、故郷へ戻って田村駒の名前で支店や出張所を開設して商売をするように指示した。
このため、北は新潟から南は福岡まで、全国15カ所に田村駒の支店や出張所が開設されたほか、連絡所3カ所、荷扱所4カ所が開設された。
昭和24年(1949年)に入ると、田村駒は繊維の取り扱いが増えてきたので、主要な支店だけを残し、各地に散らばった社員を本社に復帰させた。
この間に、隠退蔵物資(物資隠匿)が無罪となり、公職追放も解除されたたため、2代目・田村駒治郎が昭和24年(1949年)9月19日に田村駒の社長に復帰したたので、田村寛次郎は社長代行の役目を終えた。
さらに、昭和24年(1949年)10月に田村駒は再建準備計画を完了し、特別経理会社を解除された。
昭和25年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争による特需により、繊維業界は空前の好景気を迎えた。世に言う「ガチャマン景気」「糸へん景気」である。
こうした繊維業界の好景気を背景に、2代目・田村駒治郎は昭和26年(1951年)3月11日にアメリカへと渡り、毛糸の原料となる毛屑を大量に買い付けた。
ところが、昭和26年(1951年)7月に朝鮮戦争は停戦交渉に入り、ガチャマン景気が終演を迎え、ガチャマン景気の反動で、繊維相場が急落してしまう。
2代目・田村駒治郎がアメリカで買い付けた大量の毛屑は、日本に届いた時には相場が半値まで下落していた。
さて、田村駒は昭和25年(1950年)に大日産業を引き継いで田村駒東京店を設立しており、田村駒東京店から毛屑を購入して紡毛糸を製造する和泉毛糸という会社があった。
和泉毛糸は田村駒の子会社的な存在であり、2代目・田村駒治郎はアメリカで買い付けた毛屑の損失を和泉毛糸に押しつけた。
このため、損失を押しつけられた和泉毛糸は倒産し、田村駒も3億3800万円の不良債権を抱えることになった。
田村駒東京店は和泉毛糸の倒産によって資金繰りに行き詰まり、手形を乱発して糸を買い、現金で売りさばいて資金繰りを付けていたが、相手を見ずに売っていたので、倒産に遭い、損失を雪だるま式に膨らませていた。
やがて、田村駒東京店の損失は、田村駒本社の経営を圧迫するようになり、本社の田村寛二郎が田村駒東京店へ乗り込んで財務内容を調査し、事業の失敗や危険な手形の乱発が明らかとなった。
2代目・田村駒治郎は昭和27年(1952年)3月に田村駒東京店を本店直轄の東京支店へと変更し、事業の整理を行ったが、時は既に遅く、巨額の損失を計上することになってしまう。
こうした田村駒の経営危機を受け、2代目・田村駒治郎は、昭和28年(1953年)にプロ野球団の経営からも完全に撤退した。
田村駒は粉飾決算で赤字を隠し、銀行から融資を受けていたが、不況の影響で10億円の赤字は数倍に膨れあがっていき、昭和29年(1954年)9月には進退窮まり、三和銀行に粉飾決算の実態を告白し、援助を願い出た。
田村駒が粉飾決算をしていたこともあり、三和銀行は支援に対して慎重で、田村駒に対して再建策の提示と実行を求めた。
これに対して、2代目・田村駒治郎は昭和29年(1954年)10月1日に希望退職者を募る。その影響で同年10月11日に田村駒に労働組合が発足した。
さらに、2代目・田村駒治郎は私財を投じて田村駒の存続に動いたこもあり、三和銀行は田村駒の救済に動き、昭和31年(1956年)3月に田村駒に特別融資を実行した。
三和銀行の動き早く、田村駒は昭和31年(1956年)に第一物産(三井物産)を業務提携し、昭和32年(1957年)1月26日には常盤鋼材の金属部門の営業権を譲り受け、社名を「田村駒常盤株式会社」へと変更した。
第一物産(三井物産)との業務提携によって田村駒の信用は回復。常盤鋼材から譲り受けた営業部門は大きな利益を上げ、田村駒の立ち直りに寄与した。
これに伴い、常盤鋼材の黒田宗次郎が田村駒常盤の代表取締役に就任。さらに、三和銀行の直原一雄、第一物産(三井物産)の斎藤静夫も田村駒常盤の代表取締役に就任した。
2代目・田村駒治郎は田村駒常盤の社長に留まったが、支援企業の黒田宗次郎・直原一雄・斎藤静夫を代表取締役として受け入れたことにより、名目上社長となった。
2代目・田村駒治郎は、その後も田村駒再建に向けて奔走。昭和34年(1959年)頃から、呼吸困難を伴う心臓発作を繰り返しながら激務を続けていたが、昭和36年(1961年)1月21日早朝に心臓発作で死去した。戒名は龍光院達誉浄雲居士。享年58。
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田村駒常盤は、2代目・田村駒治郎の死後、社長は置かず、支援企業から送り込まれた黒田宗次郎・直原一雄・斎藤静夫の代表取締役3人が経営方針を決定する「田村駒トロイカ体制」により、田村駒の再建が勧められた。
こうした田村駒トロイカ体制のなか、昭和37年6月に取締役の一色大二郎が辞任する。
次いで、昭和37年7がには、田村家の監査・田村寛次郎と監査・田村陽(飯田陽)が辞任する。
2代目・田村駒治郎の長男・田村忠嗣は、3代目・田村駒治郎を襲名して、昭和37年7月に田村駒常盤の取締役に就任したが、田村寛次郎らの辞任もあり、田村駒常盤と田村家は薄くなった。
ところで、田村家の田村光子・田村江つ子(榎並江つ子)が、レナウンの創始者・佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)とともに子供服メーカー「ファミリア」を創業しいた。
ファミリアは戦後に創業された若い会社だったが、関西から東京進出を果たし、皇室御用達ブランドとなっており、業績を拡大していた。
田村駒常盤を辞任した一色大二郎がファミリアに招かれてファミリアに入社。次いで、田村駒常盤を辞任した田村寛二郎がファミリアの取締役に、田村陽(飯田陽)もファミリアの監査に就任した。
2代目・田村駒治郎は伊藤萬(イトマン)・丸紅をライバル視して総合商社を目指していたが、田村駒トロイカ体制によって繊維専門商社へと転換された。
そして、田村駒トロイカ体制の元で再建が進み、昭和38年(1963年)には累積赤字を一掃した。
2代目・田村駒治郎の死後、長らく社長は空白だったが、死後から8年後の昭和44年(1969年)に三和銀行出身の直原一雄が田村駒常盤の3代目社長に就任。翌年の昭和45年に第一物産(三井物産)出身の斎藤静夫が副社長に就任し、田村駒トロイカ体制が終わった。
昭和48年(1973年)に過去最高益を記録し、社員に11.2ヶ月分の賞与を支給する。
昭和51年(1976年)2月に直原一雄が会長へと退き、三和銀行の江藤善七郎が田村駒常盤の4代目社長に就任した。
昭和52年(1977年)3月1日に社名を「田村駒常盤」から「田村駒」へと変更した。
平成3年(1991年)に江藤善七郎が会長へ退き、石井宏が田村駒の5代目社長に就任した。取締を務めていた3代目・田村駒治郎は平成4年に監査に就任した。
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