山口県出身で内閣総理大臣を務めた田中義一(たなか・ぎいち)と、山口県知事や自民党の要職を務めた田中龍夫(たなか・たつお)の家系図の紹介です。
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紀州国(和歌山県)の根来寺の大伝法院で僧兵を組織して豊臣秀吉に抵抗した坊主・根来寺勢伝が居り、根来寺勢伝の甥・根来寺勢祐が天正13年(1585年)に豊臣秀吉に敗れたため、130余名を率いて山口県の萩へと逃れた。
この130余名のなかに田中氏が居り、この田中氏が田中家の祖と言われる。
田中義一の父・田中信祐は、杉山音松の子として生まれ、幼名を「杉山七五朗」と言った。
田中信祐の母・お虎には実弟・田中勇蔵が居り、実弟・田中勇蔵は独身で跡取りがいなかった。
このため、田中信祐は父・杉山音松の死後、田中勇蔵の養子となり、田中家を継いだ。このとき、父・田中信祐は、名前を「七五朗」から「信祐」へと改めた。
田中信祐は、六尺二寸(186cm)という大男で、長州藩主・毛利忠正の陸尺(籠かき)を勤め、士分(下級藩主)に取り立てられ、足軽頭を務めた。
田中信祐は色白の美男子で、東海道五十三次の間で、田中信祐を知らない者は居ないと言うほど有名で、女性のファンも大勢居たという。
しかし、明治維新を迎えて職を失ったため、山口県萩市平安古町へと移り住み、傘作りの内職を始めた。田中信祐は「仏の七五朗」と呼ばれたほど、性格が非常に温和で、仕事が丁寧だったことから、仕事は繁盛したという。
田中義一は、田中信祐の三男として生まれて13歳の時には萩の乱に加る。明治25年(1892年)に分家し、小学校の教員などを経て軍隊に入り、日清戦争にも従軍した。
田中義一は、軍隊で頭角を現し、将来は元帥と目されていたが、政界へと転じ、内務大臣や外務大臣などを歴任し、昭和2年(1927年)に内閣総理大臣に就任した。
内閣総理大臣に就任した田中義一は、若いころから、山口県出身の実業家・久原房之助の支援を受けていたので、鶴の一声で反対を押し切り、久原財閥の久原房之助を逓信大臣に迎えたため、田中義一内閣は「田中商店」とも呼ばれた。
しかし、昭和3年(1928年)6月4日に中国の奉天で、奉天軍閥の指導者・張作霖が乗る列車が爆破され、張作霖が死亡した「張作霖爆殺事件」の処分を巡り、天皇が「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再び聞くことは自分は嫌だ」と漏らしたことから、天皇崇拝者だった田中義一は、心労が重なって死去した。自殺だったという説も残っている。
さて、田中義一は、陸軍中将・大築尚志の六女・大築寿天(すて)と結婚していたが、妻・大築寿天(すて)は病弱だったこともあり、妻・大築寿天(すて)との間に生まれたのは長女・橋本政子と長男・田中龍夫だけである。
このため、田中義一は妾(第二夫人)として出口ふみ子を囲っており、妾(第二夫人)出口ふみ子との間に、寿美子・登米子・於菟女(おとめ)・義昭・康子の1男4女を儲けた。
田中義一は1男4女を認知し、三女となる登米子が実母・出口ふみ子の養子に入るという形になっている。
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田中龍夫は、明治43年(1910年)9月20日に山口県萩市平安古町で、田中義一の長男として生まれた。母親は正妻の「田中寿天(すて)」である。
田中龍夫が生まれたとき、父・田中義一は麻生3連隊の隊長で、田中龍夫が数え15歳(中学生)の時に政界へと進出して、昭和2年(1927年)4月に第26代・内閣総理大臣に就任したが、2年後の2ヶ月後の昭和4年9月28日に死去してしまう。
中学生にして家督を相続することになった田中龍夫は、親族会議で働いて家計を指させるように言われるが、1度だけという条件で高校を受験し、浦和高校へ入学。その後、東京帝国大学へと進学した。
正妻の「田中寿天(すて)」が病弱だったことから、父・田中義一が妾を囲っていたため、戸主である田中龍夫は、実母と妾と義理の妹3人、義理の弟1人の面倒を見なければならなかった。
このため、田中龍夫は結婚を決意し、東京帝国大学に在学中の昭和9年(1934年)5月30日に、高橋勇の娘・高橋節子と見合い結婚した。
田中家は実母と妾が同居しているという事情から、結婚相手には厳しい条件を求めたが、結婚相手の高橋節子が田中龍夫のタイプだったようで、田中龍夫は結婚後、母と妾を別々の家に住まわせ、妻・高橋節子と2人暮らしを始めた。
そして、田中龍夫と高橋節子の間に、長男・田中素夫、次男・田中卓治、長女・鷹崎由美子という3人の子供が生まれた。
戦後、田中龍夫は、後に日清食品を創業する在日台湾人・安藤百福(呉百福)の支援を受けて山口県知事に当選し、山口県知事として活躍した。
その後は国政へと進出して衆議院議員となり、自由民主党の総務会長まで務めたが、ドクターストップがかかってしまう。田中龍夫は出馬すれば当選確実だったが、妻・田中節子を安心させるため、引退を決意した。
田中龍夫には息子が居たが、我田引水を嫌うような政治家だったので、世襲は考えず、河村建夫を後継者に指名して、平成2年(1990年)1月に政界から引退した。
なお、田中龍夫の生涯については、「田中龍夫の立志伝」をご覧ください。
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