田中義一の長男で、山口県知事や衆議院議員として活躍した政治家・田中龍夫の政界立志伝です。
田中龍夫は、明治43年(1910年)9月20日に山口県萩市平安古町で、田中義一の長男として生まれた。母は「田中寿天(すて)」である。
父・田中義一は、このとき、麻生3連隊の隊長で、後に政界へと転身して外務大臣などを歴任し、昭和2年(1927年)には第26代・内閣総理大臣を務める人物である。
祖父・田中信祐は180cmを超える大男で、長州藩主・毛利忠正の籠かきを勤め、士分に取り立てられ、足軽頭まで出世したが、明治維新を迎えて職を失ったため、山口県萩市平安町に移り住んで、傘貼りの内職をしていた。
田中家は長州藩の下級藩士という家系だったが、父・田中義一は自出を隠すこと無く、反対に自分の力で出世していくことを自慢擦るような人だった。
さて、田中龍夫は幼少の頃か病気がちで、生後10ヶ月で脱腸を患って手術し、5歳の時にはウナギの蒲焼きをたくさん食べ、サイダーをがぶ飲みしたことが原因で赤痢と診断され、死ぬ思いをした。
6歳のときに東京の父・田中義一に引き取られて上京し、7歳の時に丹毒菌に感染して1年半の入院生活を送り、退院後は神奈川県小田原の旅館で療養したが、そこが海軍指定の軍人療養所だったため、軍人にかわいがられて結核に感染した。
その後、田中龍夫は回復して暁星小学校に入学するのだが、入学したときには既に2学期が始まっていた。
これ以降も田中龍夫は病気で頻繁に入院し、毎学年、1学期か2学期は入院しており、3学期を通して学校に通ったことはなく、本人も「20歳までいきられるのだろうか」と子供心に不安になっていた。
しかし、暁星小学校を卒業して暁星中学校に進学すると、これまでの病弱生活が嘘のように一転し、健康になったのだった。
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田中龍夫は暁星中学校の1年生の時に、軍人の父・田中義一から「教経」の素読を命じられた。
さらに、田中龍夫が数え15歳のとき、父・田中義一が政界に進出することになったので、父・田中義一から家政の一切を任され、義理の弟・妹の面倒を見ることを命じられた。
このころ、母「田中すて」と祖母は病弱で寝たきりになっており、父・田中義一は、母「田中すて」の他に、第2夫人(妾)・出口ふみ子を作り、第2夫人・出口ふみ子との間に2人の子をなしていた。
こうして家政を任された田中龍夫は、父・田中義一に呼ばれれば、夜中でも駆けつけねばならず、勉強どころではなかった。
そもようななかでも、田中龍夫は、フランス語の勉強に励んでいた。漢文にはフランス語の文法に通じるところがあり、田中龍夫は漢文を素読していたおかげで、フランス語がメキメキと上達した。
しかし、田中龍夫は、家政を任されて受験勉強に専念できなかったこともあり、一高の受験に失敗してしまい、暁星中学校を卒業すると、浪人することにした。
父・田中義一は進路については何も口を出さなかったが、さすがに浪人生に家政を任せるのは酷だと思ったのか、家政を執事に任せ、田中龍夫を英文学者・岡倉由三郎宅に預け、勉強に専念させた。
父・田中義一は、数々の大臣を歴任し、昭和2年(1927年)4月に第26代・内閣総理大臣に就任した。
そのようななか、昭和3年6月4日に中国の奉天で、奉天軍閥の指導者・張作霖が乗る列車が爆破され、張作霖が死亡するという事件が発生した。世に言う「張作霖爆殺事件」である。
犯人は関東軍の河本大作だとされ、父・田中義一は昭和天皇に法律に則って処分することを報告した。
しかし、鉄道大臣・小川平吉を筆頭に各大臣が事件の隠蔽を主張した。反対したのは内閣総理大臣・田中義一と海軍大臣・岡田啓介だけで、当時の内閣総理大臣に大きな権限はなかったことから、関係者に対する行政処分に留まることになった。
そして、父・田中義一は昭和天皇に行政処分にするこを報告すると、昭和天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と言い、父・田中義一を叱責した。
その後、昭和天皇は、侍従長・鈴木貫太郎に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は嫌だ」と漏らした。
そして、侍従長・鈴木貫太郎が父・田中義一に昭和天皇の言葉を伝えると、父・田中義一は責任を取って昭和4年7月に内閣総辞職をした。
それから、2ヶ月後の昭和4年9月28日に父・田中義一は心不全で急死してしまった。
父・田中義一は張作霖爆殺事件に関する心労で死期を早めたと言われ、昭和天皇は責任を感じ、上奏された案件に意見があっても、以降は自分の意見を言うことを止めた。
父・田中義一が死ぬと、父・田中義一の強力な支援者だった逓信大臣・久原房之助が来て、田中龍夫の立ち会いの下、部屋の奥にあった金庫の金16万円(現在の価値で4億8000万円)を引き上げた。
証文も何も無かったが、田中龍夫は久原房之助を信用していたので、証文などを求めなかった。
田中龍夫は、一高を目指して浪人している時に、父・田中義一が急死したため、田中龍夫の進路を巡り、関係者を含めた親族会議が開かれる。
親族は、進学を諦めて家族の面倒を見るのが戸主としての役目だと言い、久原房之助の義理の兄・鮎川義介に田中龍夫を預けるという案が出た。
鮎川義介は、久原房之助から経営の悪化した久原鉱業所を引き継いで、持ち株会社「日本鉱業」とへと移行し、日産自動車などを含む日産グループ(鮎川財閥)を築いた人である。
しかし、田中龍夫は進学を希望し、1度だけ受験したいと言い張って1歩も引かなかったので、田中家の残務整理に専念することを条件に受験が許された。
父・田中義一は三井財閥などに数万円の借金が残っていたが、青山邸を売却すると、借金を返済して、中古の家を買い求めても、数万円が手元に残った。
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田中龍夫は、受験は1度だけという約束だったため、一高は諦めて、浦和高校・学習院高等科・成城学園の3校を受験した。
どれかに引っかかればいいと思っていたが、見事に3校全てに合格し、第1希望の浦和高校へ入学した。
田中龍夫は、浦和高校に入学すると乗馬部に入り、1年から主将を務め、父・田中義一のコネを使って、オリンピックの金メダリスト西竹一中尉が所属する騎兵13連隊の指導を仰ぎ、インターハイで2度の準優勝に導き、浦和高校を乗馬の強豪校へと成長させた。
さらに、フランス語が得意だったことが功を奏し、東京帝国大学の法学部に現役合格すると、東京帝国大学でも乗馬部に入り、3年の時に主将を務めた。
また、満州国開発学徒調査団が編成されることになると、これに応募し、東大からは田中龍夫と塚原俊郎が選ばれ、満州国へ派遣された。
田中龍夫は、学生だったが、2人の母親と義理の妹3人、義理の弟1人の面倒を見なければならないことから、結婚を決意する。
複雑な家庭の事情もあり、結婚相手に求める条件は厳しいため、自分の好き嫌いは考えずに結婚相手を探すと、条件をクリアーしたのは高橋勇の娘・高橋節子だけで、しかも高橋節子は田中龍夫のタイプの女性だった。
こうして、田中龍夫は東京帝国大学に在学中の昭和9年(1934年)5月30日に高橋節子と結婚した。
結婚前は実母と義理の母家族の面倒を見てもらうという条件で結婚相手を探していたが、よほど高橋節子のことが好きだったのか、実母と義理の母家族をそれぞれに別の家に住まわせ、妻・高橋節子と2人で暮らした。
田中龍夫は、昭和12年(1937年)4月に東京帝国大学法学部を卒業すると、「南満州鉄道(通称「満鉄」)」に入社した。
当初は妻・節子も連れて行く予定だったが、妻・節子が病弱だったため、妻・節子は日本に残して中国大陸の満州へと渡った。そして、満州国次長の岸信介と出会う。
田中龍夫は南満州鉄道の総裁室人事課人事係に配属され、その後、調査部に移り、昭和11年に中国の綏遠省(モンゴル)東部で起きた内モンゴル軍と国民政府軍との武力衝突事件「綏遠事件(すいえんじけん)」後の調査に当たった。
日本人だと知られれば殺されるという危険な任務で、田中龍夫は危うく日本人だと知られそうになったが、運転手の機転により命が助かった。
その後、綏遠省(モンゴル)よりも危険なビルマへの潜伏が命じられ、ビルマ潜伏を決意していたが、南満州鉄道の本社から東京支社調査室への転勤が下り、3年ぶりに東京へと戻った。
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昭和15年(1940年)4月に企画院が創設されると、田中龍夫は南満州鉄道の職員から高等官7等8級として、企画院に入った。企画院は、各方面から優秀な人材が集められたと言われる。
田中龍夫は企画院で鉄・石炭の調査をしており、大陸の情報を得るため、古巣の南満州鉄道東京支社の調査室を時々、訪れており、調査室時代の先輩・尾崎秀実と再会し、夜遅くまで酒を飲んだ。
ところが、その後、尾崎秀実がスパイ事件「ゾルゲ事件」で逮捕されると、田中龍夫も警視庁から参考人として出頭を命じられ、警視総監・安倍源基から取り調べを受けることになった。
警視総監が自ら取り調べを行うというのは異例中の異例で、田中龍夫は厳しく取り調べられたが、昔の同僚と酒を飲んだだけなので、何も出るはずが無く、夕方になって無罪放免で釈放された。
昭和17年(1942年)8月27日に周防灘台風が上陸し、山口県は死傷者1300人以上という大きな被害を出したため、企画院で民需物資の統制管理に当たっていた田中龍夫が派遣された。
田中龍夫は山口県の出身だが、6歳の時から東京で暮らしているので、実質的に山口県と関わりが出来るのはこれは初めてである。
さて、既に物資統制が始まっており、物資が不足する中で復興支援は難渋を極めた。特にセメント工場が台風で被害を受けていたこともあり、復興に重要なセメントが手に入らなかった。セメントは軍需物資でもあり、支援も得られなかった。
そこで、田中龍夫は山口県が朝鮮半島に近いことに目を付け、朝鮮半島でセメントを調達することを思いつき、政府の特使として朝鮮半島へと渡り、セメントの提供を求めた。
朝鮮半島で権力を持つ朝鮮総督・小磯国昭は、父・田中義一の後輩という強力なコネがあったが、セメントは軍需物資だったので、朝鮮総督・小磯国昭は関東軍の要請に応えるだけで精一杯だと言い、セメントの提供を拒否した。
すると、田中龍夫は態度を一転させ、自分の命令は政府の命令であると言い、現地調査を行い、多少の無理をすれば、山口県の復興に必要なセメントが捻出できることを指摘し、国家総動員法に基づいてセメントの供出を求めた。
すると、朝鮮総督・小磯国昭は観念してセメントを供出したが、今度は日本へ運ぶ船が無い。
そこで、田中龍夫は山口県から漁船を呼び寄せてセメントを運んだのだが、山口県光市の陸軍にかなりの量のセメントを徴収されてしまった。
こうして、田中龍夫はセメントを調達したことが切っ掛けで、山口県の企業・宇部興産の創業者・渡辺裕策と親しくなった。
田中龍夫は東京帝国大学に入学した直後に、宮内省に願い出て爵位・男爵を世襲しており、終戦の翌年に行われた互選により、貴族院議員となる。また、その一方で米原内閣の商工大臣・小笠原三九郎の秘書を兼任した。
そして、田中龍夫は貴族院議員として日本国憲法の制定に関わった。田中龍夫は生涯、日本国憲法について、「私にとっては銃剣を突きつけられてできた憲法としか思えない」と言い続けた。
さて、昭和22年(1947年)5月に貴族院議員が解散することになり、それに先だって衆議院議員選挙が行われることになった。
しかし、36歳の田中龍夫はGHQに牛耳られている国会よりも、GHQの目の届かない知事になってGHQに抵抗することを選び、昭和22年(1947年)4月25日に行われた山口県知事選へ出馬した。
このとき、父親代わりの久原房之助は、第二次戦争犯罪者に指定されており、政治活動が出来なかったので、大阪の在日台湾人・安藤百福(呉百福)に田中龍夫の支援を依頼した。
呉百福(安藤百福)の大叔父と父・田中義一が親しかったという関係で、田中龍夫と呉百福(安藤百福)も知り合い、同い年だったこともあり、意気投合していたようだ。
在日台湾人・呉百福(安藤百福)は後にチキンラーメンを開発して日清食品を創業するのだが、このときは「日本一の大金持ち」と呼ばれる実業家だった。
田中龍夫は呉百福(安藤百福)などの支援を得て山口県知事選挙に当選するが、GHQの認可がなかなか下りなかった。GHQは田中龍夫が企画院で働いていた経歴などを問題にしたのだという。
しかし、父親代わりの久原房之助が内閣総理大臣・吉田茂を通じて、GHQに「新しい社会を担う人材を追放するべきではない」と進言してくれたため、19日目になってGHQの認可が下り、正式に山口県知事となった。
しかし、副知事になってくれる人が居らず、国政に打って出ようとしていた前知事・青柳一郎に、衆議院議員選挙でのバックアップを約束し、なんとか頼み込んで副知事になってもらった。
このころ、山口県は周防灘台風の被害が回復していないうえ、朝鮮半島からの復員や引き揚げ者で人口が一気に増加しており、食糧不足で米の配給が17日間も欠配するという有様だった。
そこで、田中龍夫は農村部を回って農家に米の提出を頼むのだが、農家も苦しいのに知事に頭を下げられては断ることが出来ず、半ば強制だった。
このため、農家は激怒して共同農民党の議員・重富卓を先頭にして田中龍夫を取り囲み、トラックの中に連れ込むという事件も起きた。
さて、GHQは財閥解体の一環として「過度経済力集中排除法」を制定させ、企業分割する325社を指定した。山口県の最大企業・宇部興産も解体指定を受け、4分割を命じられたが、田中龍夫は宇部興産の解体に反対した。
しかし、アメリカとソ連の関係が悪化し始めたことから、アメリカは日本の統治方針を一転させ、企業分割する325社を見直してほとんどの企業が指定から解除され、宇部興産も解除を免れた。実際に分割されたのは東京芝浦電気・三菱重工業・三井鉱山など18社に留まった。
そうした一方で、田中龍夫は女性問題対策審議会を設置して男女同権にも力を入れ、戦没遺族の擁護にも尽力した。
「田中龍夫の立志伝の後半」へ続く。
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