ブラキチ・田中龍夫の立志伝

移住問題に尽力して「ブラキチ」と呼ばれた山口県出身の政治家・田中龍夫(たなか・たつお)の政界立志伝の後半です。

このページは「田中龍夫の立志伝」からの続きです。

昭和天皇の巡幸とふぐ事件

昭和21年(1946年)から昭和天皇の全国巡幸が始まり、山口県は昭和22年(1947年)12月に昭和天皇を迎えることになった。

山口県は朝鮮半島に近いことから、山口県には大勢の在日朝鮮人が居り、在日朝鮮人がテロを起こして昭和天皇を暗殺するという情報がもたらされていた。

そこで、山口県知事の田中龍夫は、山口県を担当していた連合国軍のロバートソン中将の元を訪れ、昭和天皇の警護を依頼する。

ロバートソン中将は広島県広島市の指令本部に居り、山口県から県知事自ら依頼に来たことを喜び、昭和天皇の引き受けてくれた。

それを聞いた広島県知事・楠瀬常猪も、ロバートソン中将に昭和天皇の警護を依頼したのだが、広島県知事・楠瀬常猪は顔も見せなかったことから、ロバートソン中将は激怒し、昭和天皇の警備から手を引いてしまった。

そこで、田中龍夫は、宮内庁に昭和天皇暗殺の噂があることを報告し、山口巡業を中止するように要請したが、昭和天皇は「自分の身はどうなってもかまわない」と決意しているので、中止は出来ないという回答だった。

困った田中龍夫は、父親代わりの久原房之助に相談すると、久原房之助がGHQに昭和天皇の警備を要請してくれ、米軍のMPが昭和天皇の警護を担当してくれることになった。

それでも、群衆が殺到するとMPだけでは手に負えないと考えた田中龍夫は、青年団に協力を要請し、昭和天皇にもしものことがあれば、切腹しようと考え、昭和天皇を迎えたのである。

さて、田中龍夫は、山口県の名産である「フグ」を昭和天皇にお目にかけるため、昭和天皇が宿泊する毛利邸に陳列しており、フグは美味しいと聞いていた昭和天皇は「フグを食べてみたい」と仰った。

しかし、毛利家は万が一のことがあってはいけないと考えたのか、昭和天皇の夕食にフグを出すようなことがあれば、宿泊は断ると言ってフグの提供については断固とし反対した。

そこで、昭和天皇の侍医6人が話し合ったが、賛成3人、反対3人で延々と決着が付かず、話し合いは3時間に及んだので、終いに昭和天皇がしびれを切らせて「フグは食べなくてもよい」と仰ったため、関係者は胸をなで下ろした。

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朝鮮戦争の勃発を予見

山口県は朝鮮半島に近いことから、戦後の山口県は大勢の在日朝鮮人を抱えていた。朝鮮半島の南北問題の影響で在日朝鮮人内でも激しい対立が起きており、朝鮮半島や在日朝鮮人の動向は山口県にとって大きな問題だった。

そこで、田中龍夫は、朝鮮情報室を設置し、朝鮮半島に諜報員(スパイ)を送り込んで朝鮮半島の情勢を探っていた。

この諜報員は朝鮮総督府時代の日本人官吏や、山口県警察警察部の担当者らだった。日本統治時代の朝鮮半島では朝鮮語が禁止されていたこともあり、日本人諜報員は朝鮮人よりも朝鮮語が堪能だった。

昭和25年(1950年)6月、田中龍夫は、諜報部員から、北朝鮮が38度線を超えて韓国に侵攻する可能性があるという報告を受けたため、上京して内閣総理大臣・吉田茂の元を訪れ、朝鮮半島の不穏を報告し、朝鮮半島への対応を求めた。

しかし、吉田茂は、3日前に朝鮮半島の38度線を視察したジョン・フォスター・ダレス特使から、朝鮮半島の情勢について、問題無いという報告を受けていたので、「君はこっちが頼みもしないのに、勝手に情報をでっち上げて不届き千万だ」と激怒した。

ところが、それから4日後の昭和25年6月25日に、田中龍夫の予見通り、北朝鮮軍は38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発したのである。

すると、吉田茂は田中龍夫に上京を要請し、改めて朝鮮半島の情勢を聞くと、「お前は朝鮮問題のエキスパートだ」と上機嫌になり、田中龍夫に閣僚懇談会で朝鮮戦争が勃発した経緯や今度の見通しなどを話させた。

さて、韓国へと侵攻した北朝鮮軍は快進撃を続けて、瞬く間に韓国の大半を占領して韓国軍と国連軍は南へと追いやられ、北朝鮮軍は釜山の目前まで迫った。

すると、山口県から、韓国政府が山口県に亡命することを希望しているので、韓国人6万人を受け入れる準備をするゆるように通達してきた。

このころ、山口県は復員や引き上げ者で人口が増大しており、米の配給も半月以上も欠配が続いているという状況で、6万人分の食糧を確保するのは到底無理だったため、久原房之助を通じてGHQに山口県の実情を伝えた。

そして、田中龍夫は、どうにかしなければならないと困っていたのだが、昭和25年(1950年)9月15日にアメリカ軍による仁川上陸作戦が成功したことを切っ掛けに調整半島でも形勢が逆転し、国連軍の反撃が始まったので、朝鮮政府が山口県に亡命する話は無くなった。

キジア台風

アメリカン軍が朝鮮半島で仁川上陸作戦を決行する直前の昭和25年9月13日に山口県に上陸し、大きな被害を出した。

田中龍夫は朝鮮問題のエキスパートとして東京に滞在して居たが、知らせを受けると、汽車に飛び乗って山口県へと戻って被害状況を確かめ、復旧に向けての陣頭指揮を執った。

また、田中龍夫は、当時珍しかったファックスを導入しており、集まってきた災害情報を集約してファックスで東京事務所へ送り、そのファックスを山口県出身の自由党幹事長・佐藤栄作に届けた。

ファックスを使うことにより、言い間違いや聞き間違いが無く、迅速かつ正確に情報を伝達出来た。山口県から届く情報は驚くほど迅速かつ正確だったので、政府も素早く対応できた。

広島県もキジア台風で被害を受けたのだが、広島からの被害状況が一向に届かないので、佐藤栄作のライバルで広島県出身の大蔵大臣・池田勇人は、佐藤栄作が発表する山口県の被害報告を苦虫をかみつぶしたような顔で聞いており、後で広島県の担当者を叱ったという。

なお、田中龍夫がキジア台風の時に日本で初めて自衛隊に災害支援を要請しており、田中龍夫の要請が切っ掛けで、自衛隊が災害支援に出動するようなった。

李ライン問題

昭和27年(1952年)1月18日に韓国の初代大統領・李承晩が、韓国に隣接する海洋に対する主権を主張し、「李ライン」を宣言した。

GHQが「マッカーサー・ライン」を制定していたが、サンフランシスコ平和条約が発行されると、マッカーサー・ラインが消滅するため、海洋資源を確保する目的で、韓国は李ラインを制定したのである。

李ラインはマッカーサー・ラインよりも日本よりだったので、アメリカも日本も抗議したが、韓国は無視し、李ラインを超えた漁船を次々と拿捕した。

地理的な関係から拿捕された漁船の半数以上は山口県の漁船で、田中龍夫は李ラインに対して怒ったが、県知事には外交権が無い。

そこで、田中龍夫はGHQに発言力を持つ久原房之助に依頼し、対日理事会のWシーボルト議長に働きかけ、韓国に拿捕された漁船を何度か釈放させることに成功した。

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国政への進出

山口県知事の2期目を務めていた田中龍夫は、東京都知事の安井誠一郎が「知事は2期以上やるもんじゃない」と常々、口にしていたことを痛感していた。

そのようななか、昭和28年(1953年)3月に吉田茂首相の「馬鹿野郎」という一言で衆議院が解散する。世に言う「バカヤロー解散」である。

田中龍夫は、衆議院解散の知らせを聞くと、天の啓示だと思い、衆議院議員選挙の出馬を決意し、山口1区から無所属で出馬して初当選を果たした。

このとき、岸信介も山口1区から自民党公認で出馬して当選しており、田中龍夫は岸信介の愛国心に共鳴して、当選後は自由党に所属した。

しかし、岸信介が吉田茂総理を批判して自由党から除名されると、田中龍夫も岸信介に追随して自由党を離党し、日本民主党の結成に奔走して、昭和29年11月に結成した日本民主党に所属した。

その結果、吉田茂は衆議院の解散を断念して辞職し、日本民主党の鳩山一郎が内閣総理大臣に就任した。

その後、日本民主党と自由党が合同して昭和30年11月に自由民主党が結成された。

昭和32年に岸信介が内閣総理大臣に就任すると、田中龍夫は内閣官房副長官として岸信介の右腕として活躍し、第2次岸内閣では自民党副幹事長、国対副委員長として岸内閣を支えた。

移住の父-ブラキチ

田中龍夫は、衆議院議員になった翌年の昭和29年(1954年)に欧米と中南米を訪問した。

このとき、戦争の影響でヨーロッパでは日本の評判が悪く、田中龍夫はヨーロッパでは嫌な思いをしたが、中南米では敗戦した日本が高く評価されていた。

田中龍夫は、中南米で日本の評判が高いのは戦前に移住してきた日本人の賜だと知り、日本国内の深刻な食糧不足ということもあって、中南米への移住再開に尽力した。

そして、昭和37年(1962年)7月に日本海外移住家族会連合会が結成されると、田中龍夫は会長に就任した。

その後も、田中龍夫は、移民の渡航費返済打ち切り、移民の結婚問題、移民への勲章授与など移民のために尽力した。特にブラジルへの思い入れが強く、田中龍夫は「ブラキチ」と呼ばれた。

総理府総務長官として活躍

田中龍夫は、昭和42年(1967年)11月の第2次佐藤栄作内閣の第1次改造内閣で、国務大臣と総理府総務長官に就任して初入閣を果たし、佐藤内閣で最大の問題だった沖縄返還問題に奔走して沖縄返還に尽力した。

また、田中龍夫は、小笠原諸島の返還を実現し、北方領土問題にも取り組んだ。

そうした一方で、山口県知事時代の経験を生かして災害対応にも活躍し、みんなの反対を押し切って、都道府県単位に提供する激甚災害法を地区単位で適用した。

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要職を歴任

昭和51年(1976年)12月に福田赳夫内閣が誕生すると、田中龍夫は通商産業大臣に就任して新エネルギー問題に取り組んだ。

さらに、昭和55年(1980年)7月に鈴木善幸内閣が誕生すると、田中龍夫は文部大臣に就任し、核融合反応などの新エネルギーの研究を推進した。

昭和56年(1981年)11月には、党三役の1つである自由民主党の総務会長という要職に就任。昭和61年7月の衆議院議員選挙で13期目の当選を果たし、次の衆議院議員議長と目された。

晩年と死去

田中龍夫が平成元年(1989年)11月に不調を訴えたので、妻・田中節子と長女・田中由美子は、医者嫌いの田中龍夫を無理矢理、朝日生命成人病研究所へ入れて検査を受けさせると、脳内の血管に豆粒ほどの出血が見つかった。

担当医の梶沼宏は、妻・田中節子に「次の選挙はいつになるのか、素人の私には分かりませんが、12月に解散ということになった場合は、ちょっと出馬は無理です。ドクターストップということになります。このままできるだけ静養していただければ、来年2月の解散なら選挙も戦えると思います」と話した。

妻・田中節子はそれを事実上の引退勧告と受け取り、田中龍夫に話した。

田中龍夫は、次の選挙も出れば当選確実で、当選すれば、自由民主党の幹事長は確実だったが、妻・田中節子を心配させないため、政治家からの引退を決意した。

そして、田中龍夫は2人の息子が居たが世襲はせず、河村建夫を後継者に指名した。

河村建夫の父・河村定一は、山口県議会議員として田中龍夫の右腕として活躍した人で、河村建夫は父・河村定一の後を継いで山口県議会で実績を積んでいた。

そして、早めに引退を表明すると対立候補が現れて票が割れるため、引退のことは秘匿し、選挙を翌月に控えた平成2年(1990年)1月に正式に引退を表明し、後継者として河村建夫を指名して、山口1区の地盤を譲って河村建夫を当選させた。

平成2年(1990年)4月29日に勲一等旭日大綬章を受章し、7月に行われた祝賀会には約800人が駆けつけた。

政界から引退後も、生涯福祉財団や退職公務員連盟などの会長を頼まれるままに引き受ける一方で、妻孝行として妻・田中節子と旅行を楽しんだ。妻・田中節子は、田中龍夫と一緒に知らない土地に行くと少女のようにはしゃいだという。

しかし、妻・田中節子は平成6年(1994年)2月に癌が見つかり、同年9月15日に死去した。享年80だった。

田中龍夫は、妻の死から2年後の平成8年(1996年)5月13日に足がもつれて転倒。しゃべり方に違和があったので、大事を取って朝日生命成人病研究所に入院して精密検査を受けると、硬膜下血腫と診断された。

手術は成功して一時は退院するまでに回復したが、平成8年9月に再入院し、平成10年(1998年)3月30日の午前7時6分に死去した。87歳。死因は急性心不全だった。平成10年4月1日に東京・築地本願寺で葬儀が営まれた。

その後、自民党葬と県民葬をやりたいという申し出があった。田中龍夫は派手なことを嫌い、目立たないようにしていたので、遺族は困ったが、行為をむげに断ることも出来ないので、自民党葬と県民葬の合同葬という形で開催することになり、平成10年5月14日に合同葬が営まれ、2200人が参列した。

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