昭和初期にデザイナー・教育者・執筆者として活躍し、皇后陛下(昭和天皇の皇后/香淳皇后)の衣装相談役を務めた田中千代の生涯を描く「皇后様のデザイナー・田中千代の生涯」です。
田中千代は昭和初期のデザイナーで、昭和初期からデザイナー・教育家・執筆者として活躍し、文化服装学院の並木伊三郎、ドレスメーカー女学院の杉野芳子や伊東洋裁研究所の伊東茂平らとともに、洋裁界の基礎を築いた。
また、日本人として戦後初のファッションショーや、日本初のプロモデルによるファッションショーを開催したほか、皇后陛下(昭和天皇の皇后/香淳皇后)の衣装の相談役を務め、「皇后様のデザイナー」と呼ばれた。
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田中千代(松井千代)は、明治39年(1906年)8月9日に東京府芝区田町7丁目の母の実家・今村家で、松井慶四郎の長女として生まれた。
父・松井慶四郎は外交官で、田中千代(松井千代)が生まれた時フランスに滞在しており、フランスに居た父・松井慶四郎が、以前、東京の千代田城(皇居)の近くに住んでいた事を懐かしく思い、生まれた長女に「千代」と名付けた。
母・松井照子は出産のために日本に残っており、田中千代(松井千代)を生んだ半年後に、父・松井慶四郎の居るパリへと向かったため、田中千代(松井千代)は母方の実家・今村家で育てられた。
母・松井照子は、今村清之助の娘である。今村清之助は、製紙会社から身を起こして今村銀行を設立し、日本初の証券所「角丸証券」を設立した人物で、今村家は東京でも相当な富豪であった。
田中千代(松井千代)は母方の実家・今村家で幼少期を過ごし、祖母・今村家寿の影響を受けた。
父・松井慶四郎はフランスで勤務した後、アメリカへと渡り、明治44年(1911年)6月に帰国する。5歳になった田中千代は、父親と初対面を果たす。
また、両親がフランス滞在中に弟・松井明が、アメリカ滞在中に妹・松井貞子が生まれており、田中千代は弟・松井明と妹・松井貞子と初対面する。
そして、田中千代(松井千代)は、両親と暮らすようになり、日本で弟・松井正二が生まれる。
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やがて、父・松井慶四郎がフランス全権大使となり、松井一家はフランスへと渡ることになるが、田中千代(松井千代)は日本に残る事を選んだ。
弟・松井明はフランスで生まれ、妹・松井貞子もアメリカで生まれていたので、フランスの方が生活しやすいため、父・松井慶四郎と共にフランスに渡る。
しかし、田中千代(松井千代)と日本で生まれた弟・松井正二は、フランス語ができないため、日本に残り、母方の実家・今村家で暮らした。
田中千代(松井千代)は父親が外交官だったので、腰の落ち着かない幼少期を過ごしたが、祖母・今村家寿に育てられ、祖母・今村家寿から大きな影響を受けた。
やがて、再び父が帰国し、田中千代は再び、父・松井慶四郎と暮らすようになる。
父・松井慶四郎が外務大臣になると、連日のように外国人が来て、外務次官官舎の1階でパーティー開いていた。まるで映画のワンシーンであり、非常にきらびやかであった。
母・松井照子も外交官の妻としてパーティーに出席するため、高級なブランド物の洋服を数多く所有していた。
2階で勉強している田中千代は、こっそりと1階で行われているパーティーを覗いて、華やかな衣装に憧れと劣等感を抱きながら、知らず知らずのうちにファッションセンスを磨いていった。
田中千代は双葉高等女学校の在学中から、外交官から結婚の申し込みが多くあったが、語学力に自信が無かったので、外交官との結婚は全て断った。
そのようななか、家族ぐるみで親しくしていた東京帝国大学の総長・小野塚喜平次が、田中薫との縁談を持ち込んだ。
田中薫は東京帝国大学の出身の地理学者で、父は地理学の権威・田中阿歌麿、祖父は岩倉使節団にも参加した政治家・田中不二麿である。
ある日、田中千代は母らとバレエを観に行ったのだが、実は両親らに仕組まれた見合いだった。
田中千代は何も知らされておらず、バレエを見ながら、友達とはしゃいでいたのだが、後から見合いだったと知って驚き、不公平だと言って両親にもう抗議して、正式な見合いをした。
そして、これまでは外交官との結婚は全て断ってきたが、学者の家なら勉強も出来るだろうということで、結婚を承諾し、田中薫と婚約する。
田中千代は、大正12年(1923年)に双葉高等女学校を卒業。大正13年(1924年)10月に地理学者・田中薫と結婚し、翌年の大正14年(1925年)9月16日に長男・田中久を出産する。
夫の田中家は学者一家なので、外交官の家庭に育った田中千代にとって、田中家の暮しは驚きの連続であった。
やがて、田中千代は、学者一家という環境や、夫・田中薫から大きな影響を受け、学びたいと思うようになり、東京女子大学へ入学しようとしたが、東京女子大学は既婚者は入学できなかった。
しかし、お茶の水の文化学院は、既婚者でも何でもOKで、帰りたいときに帰って良いという極めて自由な校風だったため、お茶の水の文化学院へ入学した。
こうして、田中千代は、子育てをしながらお茶の水の文化学院へ通ったが、病気により、1年で学業の断念を余儀なくされた。
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昭和3年(1928年)、夫・田中薫が神戸商業大学(現在の神戸大学)の助教授になる条件として、イギリス・フランス留学することになった。
すると、義祖母・田中須磨(すま)が田中千代にヨーロッパ行きを勧めた。
義祖母・田中須磨(すま)は、夫・田中不二麿に付いて海外へと渡り、日本で初めて公使婦人として海外駐在した女性で、自分が海外駐在した経験から、積極的にヨーロッパ行きを勧めたのである。
こうして、た田中千代は、義祖母・田中須磨に長男・田中久を預けて渡欧し、夫・田中薫に伴ってイギリスのケンブリッジ→ロンドン→オックスフォードと移りながら、語学を学んだ。
そして、オックスフォードに滞在していたとき、下宿先の娘がシェークスピア専門の劇団で劇団員をしていたので、田中千代は荷物持ちを引き受け、毎晩、タダでシェークスピアを見ながら、英語を覚えた。
これがきっかけで、シェークスピアの衣装に興味をもつようになり、近くに服飾学校があったので衣装史の講義を聴きに行くようになった。
やがて、夫婦でフランスのパリへと渡る。その後、夫・田中薫はフランス語を嫌ってドイツのベルリンへ渡るが、田中千代はドイツ語を嫌ってパリへ戻り、下宿をしながら学校へ通い、フランス語を学び、音楽・芸術などに影響を受けた。
そして、田中千代はフランスで、バレエやファッション誌を見て衣装に惹かれていき、衣装の作者オットー・フォン・ハスハイエを尊敬するようになった。
オットー・フォン・ハスハイエは、20世紀の美術に大きな影響を与えたドイツの美術学校「バウハウス」の元教授で、ナチスの弾圧により、スイスへ亡命し、スイスのチューリッヒでデザイン学校を開いていた。
田中千代がオットー・フォン・ハスハイエに手紙を書くと、オットー・フォン・ハスハイエから誘いの電話があったので、二つ返事でスイス行きを決め、ハスハイエのデザイン学校に入学し、デザインについて学んだ。
やがて、ドイツのベルリンに居た夫・田中薫がアメリカへ行くというので、田中千代は1年間、通ったハスハイエのデザイン学校を辞めて、夫と共にアメリカへ行くため、ドイツへと渡った。
このとき、田中千代は、オットー・フォン・ハスハイエの助言により、アメリカへ行くまでのあいだ、ベルリンにあるヨハネス・イッテンの学校で学んだ。
ヨハネス・イッテンは、色彩の専門家で、ドイツの美術学校「バウハウス」の元教授であった。
田中千代はドイツ語が苦手だったので途中で退学すると、オットー・フォン・ハスハイエの助言により、ボディーの学校へ通い、そして、アメリカへと渡った。
アメリカ・ニューヨークへ渡った田中千代は、オットー・フォン・ハスハイエの紹介で、エセル・トラペーゲンのデザイン学校に通った。
エセル・トラペーゲンのデザイン学校は、既製服会社街のまっただ中にあり、既製服会社で役立つ商業的なデザインを教えていた。田中千代は、このエセル・トラペーゲンのデザイン学校で、商業としての衣装デザインを学んだ。
また、エセル・トラペーゲンのデザイン学校には民族衣装のコレクションがあり、田中千代は民族衣装にも惹かれていった。
そして、昭和6年(1934年)、夫・田中薫が神戸商業大学(現在の神戸大学)の助教授に就任することが正式に決定したため、田中千代は1年間、通ったエセル・トラペーゲンのデザイン学校を辞め、帰国することになる。
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3年間の海外生活を終えて日本へ帰る事になったが、日本で着る服が無かった。
そこで、田中千代は、なけなしの金で生地を買い、日本へ帰る船の中で服を縫っていると、心配して声を掛けてくれる人が何人か居た。
そのうちの1人が武藤千世子であった。武藤千世子は、鐘淵紡績(カネボウ)を再建した社長・武藤山治の妻である。
武藤千世子が心配して田中千代に声を掛けた事で2人は出会い、色々な事を話して、船の中で仲良くなり、何でも相談するように言ってくれた。
そこで、神戸に身寄りの無い田中千代は、武藤千世子に神戸での生活を相談すると、武藤千世子が兵庫県武庫郡住吉村(兵庫県神戸市東灘区)の土地を紹介してくれ、色々と手配してくれた。
こうして、帰国した武藤千世子は、神戸という新天地で、「デザイナー」「教育者」「執筆」という活動で活躍していくことになる。
神戸に着いた田中千代は一度、借家に入り、武藤千世子が紹介してくれた兵庫県武庫郡住吉村(兵庫県神戸市東灘区)に自宅を建てて移り住んだ。
田中千代が帰国した翌年の昭和7年(1932年)、鐘淵紡績(カネボウ)が大阪にサービスステーションを開設した。
田中千代は武藤千世子の依頼で、昭和7年(1932年)3月から、鐘淵紡績(カネボウ)のサービスステーションで働き始める。
デザイナーと言っても、現在のような華やかな仕事では無く、生地を買ってくれた客の無料裁断したり、注文服の採寸や仮縫いという仕事だった。
ところが、当時は着物が主流の時代だったので、生地を買っても洋服の縫い方が分からないという人が多く、田中千代は客から「洋服の縫い方を教えて欲しい」と頼まれる。
そこで、田中千代は鐘淵紡績(カネボウ)のサービスステーションで働き始めてから2ヶ月後の昭和7年(1932年)5月、兵庫県武庫郡住吉村(兵庫県神戸市東灘区)の自宅で洋裁教室「皐会(さつき会)」を開いた。6人だけの小さな教室だった。
5月を古い言い方で言うと「皐(さつき)」で、5月に開いたので「皐会」と名付けた。洋裁教室と言っても無料なので、洋裁サークルという方が近い。
一方、鐘淵紡績(カネボウ)のサービスステーションの方は、ショーウインドーの飾り付けを任されるようになる。
田中千代は精力的にショーウインドーの飾り付けに取り組んだが、使用できる生地が鐘淵紡績(カネボウ)の生地だけに限定されるので、デザインに変化が付けられなくなってしまう。
そこで、田中千代が鐘淵紡績(カネボウ)の社長・津田信吾に相談したが、鐘淵紡績(カネボウ)から「工夫が足りない。デザインは工夫だ」と叱られてしまう。
そこで、田中千代はショーウインドーを飾るために、様々な創意工夫で衣装を作るようになり、一世を風靡する「ニューキモノ」を確立していった。
鐘淵紡績(カネボウ)のサービスステーションは松竹に近い影響で、田中千代が飾ったディスプレイは女優の間で評判となっていき、ニューキモノは大きな反響を呼んだ。
そのようななか、田中千代は、鐘淵紡績(カネボウ)の社長・津田信吾から正式な社員にならないかと誘われる。
田中千代は妻として、母として家庭を守るという気持ちと、仕事をしたいという気持ちで葛藤したが、夫・田中薫が応援してくれたため、正式に鐘淵紡績(カネボウ)で働くことを決めた。
さらに、昭和8年(1933年)には、阪急百貨店の社長・小林一三社長の要請で、阪急百貨店の婦人服部の初代デザイナーとなる。
昭和9年(1934年)1月、田中千代は鐘淵紡績(カネボウ)の社長・津田信吾からパリ行きを命じられ、同年1月から10月までの間、商工省の嘱託および鐘淵紡績(カネボウ)の在外研究員としてパリに滞在する。
パリの服飾専門学校「エコール・ド・ゲール・ラビーニュ」は王室の衣装を担当しており、経営者ラビーニュは、王室のデザイナーとして活躍していた関係で、特別なマナーなども教えていた。
そこで、パリに滞在した田中千代は、パリの服飾専門学校「エコール・ド・ゲール・ラビーニュ」に通い、衣装やデザインの他にも様々なマナーを学んだ。
そして、田中千代は、昭和9年(1934年)10月に2度目の渡欧から帰国。翌年の昭和10年(1935年)に、帝国ホテルで、鐘淵紡績(カネボウ)で初となるフロアショーを開催する。
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田中千代は、鐘淵紡績(カネボウ)のサービスステーションの客から「洋服の作り方を教えて欲しい」と頼まれた事がきっかけで、兵庫県神戸市東灘区の自宅で洋裁教室「皐会(さつきかい)」を開いていた。
生徒6人で始まった洋裁教室「皐会」だったが、直ぐに生徒が12人に増え、自宅に入りきらなくなり、夫・田中薫の生活に支障が出るようになっていた。
そこで、田中千代は、パリから帰国した年の昭和9年(1934年)11月、庭にアトリエを建てて自宅から洋裁教室「皐会」を独立させた。洋裁教室「皐会」を始めてから2年後の事である。
さて、洋裁教室「皐会」の生徒の中には財界人の娘も多く居り、そのなかに、佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上設蔵の娘・尾上寿美子が居た。
尾上設蔵は、娘・尾上寿美子が作った洋服を見て、洋裁が本格的だったので驚き、洋裁教室「皐会」を見学すると、生徒が熱心に服を作っていた。
尾上設蔵はこれに感心し、大阪の三越百貨店で洋裁教室「皐会」の展示会をすることを勧めた。
こうして、洋裁教室「皐会」は昭和11年(1936年)に大阪の三越百貨店で、服飾作品の発表会を行い、これを成功させ、皐会は三越百貨店で発表会を開催するようになる。
さらに、田中千代は、洋裁を基礎から教えるため、兵庫県神戸市東灘区岡本(本山町5丁目)に一軒家を借り、昭和12年(1937年)10月1日に洋裁研究所を設立した。
また、田中千代は佐々木営業部(レナウン)の子供服デザインを引受けるほか、大阪のYWCAで洋裁を教えるなど、デザイナーとして、教育者として順調に活動していた。
しかし、そうした状況を戦争が一変させる。
昭和16年(1941年)12月8日、日本が真珠湾攻撃を行い、日本も第2次世界大戦に参戦する。
やがて、政府により、婦人標準服が制定され、女性は「婦人標準服」、男性は「国民服」を着用することになった。
婦人標準服には洋服や和服もあったが、国策機関「大政翼賛会」などの号令もあり、戦時中の女性の服は婦人標準服の「活動衣」のモンペとズボンが定着した。
こうした、あんたんとした時代の中でも、田中千代は制約の中でモンペを改良して好評を博し、大阪で講習会「女性と衣生活」を開き、改良モンペの作り方を教えるなどして、戦中もモンペデザイナーとして活躍した。
このようななか、日本政府は昭和18年(1943年)9月に女性を労働力として利用することを決定し、婦人会などに協力により、「女子挺身隊」が結成されていく。
田中千代洋裁研究所は昭和18年(1943年)10月に女子挺身隊を結成し、以降は蚊帳・作業服・落下傘袋などの縫製に従事した。
田中千代は文部省の傘下に入るのがいやで、学校としての認可は受けず、自由に洋裁研究所を運営していたが、民間のままでは洋裁研究所を軍部に接収されてしまうというので、兵庫県の認可を受ける事にした。
しかし、兵庫県から「洋裁」が敵性語にあたるとして注意され、田中千代は「貴方たちの着てる服は洋服じゃないんですか?」と抗議するが、ラチが開かず、「衣装研究所」へと改名して、昭和19年(1944年)3月に兵庫県の認可を受けて、兵庫県で初めて認可された洋裁学校となる。
しかし、昭和20年(1945年)に入ると、衣装研究所は軍部にミシンなどを接収されたりして、女子挺身隊の仕事も途絶え、実質的に機能を停止した。
昭和20年(1945年)に入ると、神戸は対規模な空襲を受けるようになっており、昭和20年6月に洋裁研究所は休校し、田中千代は同年7月に長野県へ疎開した。
昭和20年(1945年)8月15日、昭和天皇の玉音放送が流れ、日本は終戦を迎える。
長野県に疎開していた田中千代は、昭和20年(1945年)9月に朝日新聞の要請により、大阪で公演を行う。
そのとき、大勢の生徒と再開し、無事を喜び合うと共に、洋裁学校の再開を求められた。
神戸は終戦間近の昭和20年(1945年)3月と6月に「神戸大空襲」という大規模な空襲を受けていたが、神戸市灘区岡本の洋裁研究所は被災を免れており、田中千代は昭和20年(1945年)10月1日に洋裁研究所を再開する。
受付日には、神戸の岡本駅から洋裁研究所まで長蛇の列が出来た。受付に1000人以上の入学志願者が殺到し、入学選考を行わなければならないほどだった。
当時は戦後まもなくで、食うや食わずの時代だったが、女性は洋服に興味を示した。女性は戦争が終わったら、モンペを脱ごうと思っていたのである。
さらに、GHQの影響で洋服が流行したほか、戦後の女性・戦争未亡人なのど仕事として洋裁が注目され、洋裁学校は人気になり、戦後、焼け野原の日本で洋裁ブームが起きた。
田中千代はこうした戦後の洋裁ブームに乗り、戦後、デザイナー・教育者・執筆者としての活動を順調に開始した。
ところが、田中千代は栄養失調による網膜剥離により入院を余儀なくされる。実は長野県へ疎開していたとき、リンゴ園を購入していたのだが、リンゴが全く成らずに、葉っぱばかりを食べていたので、栄養失調になっていたのだ。
戦後の物資不足の状況下で手術道具の消毒が出来ず、手術は難しかったが、洋裁研究所の生徒が協力して炭を集めてくれたので、消毒ができ、網膜剥離の手術することができ、昭和21年(1946年)1月から7月まで入院することになる。
田中千代は入院中、失明の恐怖に怯えながらも、これまで学んできたデザインの手法を応用し、日本人に適したデザインの方法を考え、立体裁断を確立していった。
しかし、手術の甲斐も無く、田中千代は左目を失明してしまう。
片目を失った田中千代はデザインの道を諦めて身体障害者の世話をしようと思っていたが、大勢の生徒からの要請を受け、退院すると洋裁研究所に復帰する。
ところが、直ぐに腹膜炎などを発症し、再度の入院を余儀なくされてしまう。
やがて退院した田中千代は、洋裁研究所に復帰。片目を失うことはデザイナーとして致命的であったが、生徒に支えられ、独眼竜デザイナーとして復活を果たす。
そして、田中千代は、昭和22年(1947年)5月に佐々木営業部(レナウン)でデザインルームを開設し、同年10月には佐々木営業部(レナウン)の主催により、戦後初となるファッションショーを大阪で開催した。
佐々木営業部(レナウン)の主催で開催したファッションショーの成功や昭和23年にクリスチャンディオールのロングスカートが流行したことにより、戦後の洋裁ブームに拍車がかかっていた。
このころ、洋裁界は、並木伊三郎の文化服装学院(文化式)、杉野芳子のドレスメーカー女学院(ドレメ式)、田中千代の洋裁研究所(田中式)、伊東茂平の伊東洋裁研究所(伊東式)の4者が台頭していた。
当時の洋裁業界はフランス式が流行であったが、雑誌「暮しの手帖」の編集長・花森安治は、徹底的に消費者の立場に立ち、アメリカ式を推奨。さらに、編集長・花森安治は「直線裁ち」という簡単な洋裁を提唱し、洋裁業界を脅かす存在となっていた。
洋裁研究所の校舎は借家だったので、田中千代は以前から自分の所有する校舎で洋裁を教えたいと思っていた。
田中千代は入院中に口述筆記で本を書いており、その原稿料と生徒がバザーを開いて作ってくれたお金で、昭和22年(1947年)に兵庫県芦屋市大原町で格安の土地を見つけ、300坪の土地と建物を購入する。
ところが、土地と建物を購入した後、購入した土地と建物がGHQに接収される予定になっていたことが判明した。格安の理由はこれだった。騙されたのである。
しかし、新校舎を諦めきれない田中千代は、入居予定者を調べてみると、カーブ牧師と分かったので、カーブ牧師に生徒300人が路頭に迷ってしまう事を説明し、懇願した。
すると、カーブ牧師が田中千代の意を汲み、GHQに掛け合ってくれたので、購入した土地と建物はGHQに接収されずにすんだ。
田中千代は恩人のカーブ牧師に、生徒のために頑張ることを誓い、洋裁研究所を新校舎へ移転し、授業を再開する。
昭和22年(1947年)に学校教育法が制定され、新制大学が制定される。
明治時代に京都という地でキリスト教の大学を設立するために奔走した新島襄が設立した同支社英学校は、昭和22年(1947年)に制定された教育基本法により、昭和23年(1948年)に大学として認められ、同志社大学となる。
さらに、同年、関西では「立命館大学」「関西大学」「関西学院大学」「神戸女学院」が新制大学となり、各地でも新制大学の発足が始まる。
このようななか、田中千代の洋裁研究所は昭和23年(1948年)に財団法人の許認可を受け、「服装学園」となる。その2年後の昭和25年には芦屋市大原町に1000坪の土地を購入し、服装学園を拡張した。
そして、田中千代は昭和23年(1948年)、奈良女子高等師範学校(奈良女子大学)家政学部の講師となり、意匠学を担当する。
さらに、田中千代は大学から講師を依頼されたが、大学を出ていなかったので、自信がなかった。そこで、色々と調べていると、ニューヨーク大学が留学を受け入れてくれる事が分かった。
田中千代は片目を失い、既に40歳を過ぎていたが、ニューヨーク大学に留学を決意し、昭和25年(1950)9月にニューヨーク大学へ留学する。
日米の国交は回復しておらず、アメリカに行くことは至難の業だった時代で、民間船などはなく、軍艦に乗り込んでアメリカへ渡った。
日本は敗戦国だったので、アメリカに滞在する日本人はアメリカ移民局の監視下で厳しい立場に立たされていたうえ、外貨持ち出し制限の影響で1日5ドルしか仕えず、生活も苦しかったが、田中千代は極貧生活に耐えながら、アメリカに居る日本人と協力しながら、ニューヨーク大学で様々な事を学んでいく。
田中千代は、知人からアメリカでファッションショーの開催するよに勧められていたので、日本から「ニューキモノ」を30点ほど持参しており、ファッションショーの開催を直訴するため、ニューヨークタイムズ社を訪れる。
ニューヨークタイムズ社とは縁もゆかりも無く、紹介状も無かったが、田中千代が着物で直訴に訪れたので、受付が驚いて担当者に取り次いでくれ、ファッションショーを開催できるようになった。
田中千代は外貨持ち出し制限の影響でお金など無かったが、アメリカに居た山口淑子・宮川美子らがモデルとなってくれたほか、アメリカ人も協力してくれたので、ファッションショー「ニューキモノショー」を開催することが出来た。
ニューヨークタイムズが報じてくれたこともあり、ニューキモノショーは大成功を納め、田中千代は昭和26年(1951年)3月に開かれる第1回「インターナショナル・ファッションショー」の日本代表として招かれ、世界レベルのファッションショーを学ぶ。
昭和26年(1951年)6月にニューヨーク留学から帰国した田中千代は、同年10月に毎日新聞の主催で「帰国ファッションショー」を開く。
このころの日本のモデルはダンサーなどのアルバイトで、プロのモデルは居なかった。
世界レベルのモデルを見た田中千代は、日本のモデルのレベルの低さを痛感していた。
そこで、田中千代はアメリカのパワーズ・スクールからプロのモデルを呼び寄せて「帰国ファッションショー」を開催した。これが、日本初のプロモデルによるファッションショーとなる。
さらに、昭和27年(1952年)4月には、産経新聞主催で、パワーズ・スクールから人のプロのモデルを呼び、本格的なファッションショーを開催した。
天皇家では宮中服を着用しており、戦時中の昭和19年(1944年)に皇后(昭和天皇の皇后/香淳皇后)が物資の節約をするため、簡易な宮中服を考案。戦後も、戦後の国民生活に配慮して、簡易な宮中服を着用していた。
しかも、戦前は天皇・皇后に触れるが許されないため、採寸が出来ず、皇后は何時もサイズの合わないダボダボの服を着ていた。
しかし、日本は昭和26年(1951年)9月8日にサンフランシスコ平和条約に調印して国際社会に復帰しており、簡易な宮中服は外国の要人を迎えるのに適しておらず、見た目も悪かったので、国民からも批判が続出していた。
そこで、個人的に宮中服のことを心配していた秩父宮妃・勢津子が、デザイナー田中千代に皇室の衣装を手がけて欲しいと相談した。
秩父宮妃・勢津子の父・松平恒雄は、旧会津藩主・松平容保の6男で、外交官をしていた。
田中千代の父・松井慶四郎も外交官だったので、田中家と松井家は家族ぐるみの付き合いをしており、秩父宮妃・勢津子と田中千代は親しかったのである。
秩父宮妃・勢津子から連絡が来たのは、昭和27年(1952年)4月に田中千代が産経新聞主催のファッションショーを成功させた直後のことだった。
田中千代は秩父宮妃・勢津子から、皇室の衣装を手がけて欲しいと相談されたが、この時点では秩父宮妃・勢津子の個人的な相談であり、宮内省の承諾を得なければならないため、その後、宮内省立ち会いの下で話し合った。
田中千代はフランスの王室デザイナー「ラビーニュ」に師事して、様々なマナーやエチケットを学んでいたこともあり、皇室デザイナーに適任ということで、宮内省から正式に皇后のデザイナーとして依頼を受けた。
皇后陛下のデザイナーは名誉なこととだったが、田中千代は特別な役割や肩書きは辞退し、衣装の相談役という自由な立場で皇后陛下(昭和天皇の皇后/香淳皇后)のデザイナーを引き受けた。
そして、皇后陛下(香淳皇后)は昭和27年10月10日に行われた順宮(池田厚子)の婚儀に和服で出席し、世間に新しい皇室を印象づけた。
こうして、田中千代は皇后陛下(香淳皇后)の衣装の相談役としてデザインから製法までを担当し、昭和35年(1960年)まで皇后陛下(香淳皇后)の衣装の相談役を務めた。
また、昭和33年(1958年)、皇太子(平成の今上天皇)のご成婚では、皇后陛下(香淳皇后)・美智子様(美智子皇后)・貴子様の衣装の製作を務めている。
田中千代は皇后様のデザイナーとして活躍する一方で、産経新聞・週刊朝日の特派員として、イギリスのエリザベス女王の戴冠式(たいかんしき)を取材する。
さらに、鐘淵紡績(カネボウ)の顧問としてフランスのパリへ渡り、クリスチャン・ディオールからオートクチュールの型紙を買い付け、クリスチャン・ディオールの指示通りに衣装を製作して、クリスチャン・ディオールのオリジナル作品を日本で発表した。これも日本初である。
日本は高度経済成長期を迎えており、昭和31年(1956年)、済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」で、「もはや戦後ではない」と述べた。新しい時代の幕開けである。
田中千代は昭和31年(1956年)、松下電器の社長・松下幸之助の要請により、福岡県・博多駅前のパナソニックビルに服飾学園を開校する。
さらに、昭和31年(1956年)5月、名鉄の社長・土川元夫の要請で、名鉄・堀田駅の隣にも服装学園を開校する。
昭和31年(1956年)12月に東京都渋谷区渋谷に東急文化会館が建設された。田中千代は東急の社長から要請を受けて、昭和32年(1957年)に東急文化会館で服飾学園を開校し、東京進出を果たす。
こうした背景には、百貨店の衣服部が有名なデザイナーを確保したいという百貨店の思惑が見え隠れていた。
それでも、洋裁業界は、おりからのベビーブームと洋裁ブームで波に乗っており、東京の服飾学園は大成功し、昭和35年(1960年)には東京都渋谷区渋谷に土地を購入し、自前の校舎に移転する。
さらに、短大の設立を念願としていた田中千代は、昭和47年(1972年)4月、東京都町田市三輪町で念願の田中千代学園短期大学(東京田中短期大学)を開校する。
その一方で、短期大学の開校に伴い、九州の服飾学園を閉校する。
田中千代が設立した芦屋・東京・名古屋の3校は、昭和51(1976年)の学校教育法の改正により、専門学校として認可され、「服飾専門学校」へと改称する。
田中千代は教育者として精力的に活躍する一方で、皇后陛下の相談役としてデザインから製法までを担当し、昭和35年(1960年)まで皇后陛下の相談役を務めた後も、デザイナーとして精力的に活動した。
また、昭和44年(1969年)、ミスユニバースの極東地区代表審査員を務めたほか、「服飾事典」を発売。この「服飾事典」は、今でもファッション界の「バイブル」となっている。
さらに、田中千代は衣装研究で海外の各地を訪れ、民族衣装の収拾に努め、民族衣装ショーを開催し、平成元年(1989年)には民族衣装会館をオープンした。
昭和30年には第1回「兵庫県文化賞」を受賞。昭和31年には第1回「産経服飾文化賞」を受賞。昭和43年には「藍綬褒章」を受け、昭和53年には「勲三等瑞宝章」を受けた。
また、昭和59年には産業教育百年記念教育功績者、平成3年には東京都名誉都民に選ばれ、平成4年には繊維研究新聞社から纎研賞特別賞を受賞した。
そして、平成11年(1999年)6月28日に田中千代は死去した。92歳だった。
戦前から洋裁・和裁は女性の花嫁修業の1つだった。それは、当時は既製服を売っていないため、結婚すれば、女性が裁縫しなければならないからでだった。
洋裁業界は戦後の洋裁ブームによって繁栄していったが、大量生産・大量消費の時代を迎え、既製服が手軽に手に入るようにになると、女性の花嫁は洋裁から料理へと移っていった。
さらに、バブル崩壊や少子化の影響で経済は低迷し、洋裁業界にもバブル崩壊の波が押し寄せた。
こうしたなか、平成16年(2004年)に芦屋・名古屋の2校が東京の服飾専門学校に合併し、東京の服飾専門学校は平成21年(2009年)に田中千代ファッションカレッジへ学校へと改称した。
一方、田中千代が設立した東京田中短期大学も、少子化の影響を受け、平成22年(2010年)に廃校となった。
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