まんぷく-立花萬平(長谷川博己)のモデルは安藤百福

NHKの朝ドラ「まんぷく」に登場する立花萬平(長谷川博己)の実在のモデルを紹介します。

立花萬平(長谷川博己)のあらすじ

朝ドラ「まんぷく」の立花萬平(長谷川博己)は、両親を早くに亡くし、親戚に育てられた。子供の頃から、発想力と行動力に富み、若くして起業し、ホテルの電話交換手・今井福子(安藤サクラ)と結婚して幸せな家庭を築いた。

立花萬平(長谷川博己)は、青年実業家として製塩業・栄養食品・金融業など、様々な事業に手を出すが、脱税で逮捕されたり、数々の問題が発生し、成功と失敗を幾度となく繰り返した末、ついに破産んしてしまうのだった。

こうして、立花萬平(長谷川博己)は、無一文になってしまうが、47歳にて再び立ち上がり、インスタントラーメンの開発に取りかかるのだった。

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立花萬平(長谷川博己)の実在のモデル

朝ドラ「まんぷく」に登場する立花萬平(長谷川博己)の実在のモデルは、日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)です。安藤姓は、戦後に日本人に帰化してから名乗る名前で、本名は「呉百福」です。

安藤百福(呉百福)は、日本統治下の台湾に生まれ、幼くして両親を亡くし、祖父の元で育った。祖父が呉服屋を経営していたことから、安藤百福(呉百福)は「商売は面白い」と思うようになる。

その後、台湾で図書館の司書となるが、日本で発展の兆しを見せていたメリヤスに注目し、「東洋莫大小」を設立してメリヤスの輸入業を開始する。

メリヤスの輸入は大成功したことを受け、安藤百福(呉百福)は、正妻・呉黄梅と長男・安藤宏寿を台湾に残して、妾(正式な第2夫人)の呉金鶯を連れて大阪へと渡り、昭和8年に大阪の唐物町2丁目に問屋「日東商会」を設立した。

事業は順調に進み、蚕事業にも進出しようとしていたが、戦争の影響でメリヤス事業は低迷し、蚕事業も中止となった。

そこで、川西航空機の下請けで軍用エンジンの部品を製造する会社の共同経営を開始したほか、幻灯機(スライド映写機)の需要を見越して、幻灯機の製造を手がけた。

しかし、軍事物資横流のえん罪で逮捕され、1ヶ月半後に釈放されたが、激しく衰退しており、長期療養を余儀なくされた。

そして、安藤百福(呉百福)は、終戦間際の昭和20年に安藤仁子と結婚する。

戦後、日本国籍を所有していた安藤百福(呉百福)は、華僑(中国人)登録をすることにより、戦勝国民(連合国国民)として様々な特権を得た。

戦勝国民としての特権を得た在日台湾人は、ここぞとばかりに闇市で儲けており、新円の3分の1は在日台湾人が持っていたと言われるほど、繁栄した。

安藤百福(呉百福)は、空襲に遭った工場などの保険金として4000万円(現在の価値で数百億円)を得て「日本一のお金もち」となり、食べるためにタダ同然で売りに出されていた大阪の一等地を手に入れ、莫大な財産を築いた。

その後、安藤百福(呉百福)は、製塩業・中華交通技術専門学院・国民栄養化学研究所という事業を開始するのだが、既にお金には困っていなかったので、事業は利益度外視の慈善事業である。

中華交通技術専門学院は、学費もタダで寮と食事付きだったので、朝日新聞・社会部長の原清が「本当にそんなお金を持っているのか?」と言って、取材に来たが安藤百福が貯金通帳を見せると、原清は「これは失礼しました」と謝罪したというエピソードも残っている。

ただし、その一方で、安藤百福(呉百福)は、戦勝国民の特権「治外法権」を利用して数々の物を密輸して、莫大な利益を利益を上げていたとも言われ、大阪華僑の優として活躍していた。

しかし、GHQが日本の歳入不足から在日台湾人に対する方針を転換し、在日台湾人への課税を強化したため、安藤百福(呉百福)は当局に逮捕されて有罪判決を受け、東京の巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収容された。

安藤百福(呉百福)はこれに納得がいかずに裁判を起こすと、当局は即時釈放を条件に訴えの取り下げを求めてきた。

妻の安藤仁子は面会に来る度に訴えを取り下げて欲しいと頼んだが、安藤百福(呉百福)は取引に応じず、裁判を続けていた。

しかし、2年ほどが経過したとき、面会時間を終えて帰っていく妻の安藤仁子や子供の背中を見て、訴えを取り下げ、釈放された。

安藤百福(呉百福)は服役中に事業を整理しており、ゼロからのスタートになるが、依然として莫大な資産を持っていたようで、華僑向けの信用組合「大阪華銀」の理事長に就任する。

赤線に目を付けて赤線地帯の土地に投資していたが、売春禁止法ができたため、土地が大きく値下がりして損失が発生していた。

さらに、安藤百福(呉百福)が大豆相場に投資をして失敗し、母店の三和銀行が手形決済を停止すると、大阪華銀は昭和32年(1957年)に取り付け騒ぎを起こして倒産した。

このため、安藤百福は横領背任の容疑で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受け、全財産を失ってしまうのだった。

出所後、安藤百福は、知り合いの在日台湾人・井上炎亭(許炎亭)と「三倉物産」を設立して、チキンラーメンの販売を開始するが、全く売れなかったという。

このころ、正田美智子と明仁親王(平成の今上天皇)のご成婚が決まり、ミッチーブームが起きており、正田美智子の実家である「日清製粉」が連日のように取り上げられていた。、

そこで、安藤百福は、「日清製粉」にあやかり、社名を「日清食品」へと変更して独立して、「日清」を全面に打ち出して宣伝すると、チキンラーメンは「2分で出来る魔法のラーメン」として、爆発的に売れ始めた。

すると、インスタントラーメンに参入する続出し、類似品が現れたので、「チキンラーメン」の商標争いと、インスタントラーメンの製造特許を争う泥沼の争いが起き、インスタントラーメン業界は大混乱に陥った。

しかし、この間もインスタントラーメンの消費量は伸び続けており、国民食への発展する勢いだったので、食糧庁が対立していた日清食品と大和通商に和解を勧告した。

日清食品の安藤百福は、和解勧告を受けて大和通商と和解して特許紛争を解決すると、業界1本化に向けて動き出したのだが、全国のインスタントラーメン業者は日清食品による特許の独占を恐れて、地方ごとに団体を発足して、安藤百福に抵抗した。

このため、安藤百福は、業界1本化から特許問題の切り離しを余儀なくされ、特許を管理する「日本ラーメン特許(国際特許管理)」を設立して特許の管理を移した。

そして、安藤百福は、全国の有力メーカー56社が加盟する業界団体「日本ラーメンエ業協会(日本即席食品工業協会)」を設立し、その理事長に就任したのだった。

昭和39年に日清食品の「日清焼きそば」で食中毒事件が発生したため、安藤百福は「日清焼きそば」に製造年月日を入れるようになった。

さらに、安藤百福は、粗悪なインスタントラーメンを製造している業者を潰すため、監督官庁の農林省にも働きかけ、昭和40年12月に「即席めん類の日本農林規格(JAS)」を試行させた。

昭和41年にカップラーメン「カップチキン」の開発に着手するが、当時の技術では容器の問題を解決できずに、開発を断念した。

しかし、昭和44年に再びカップラーメンの開発に着手し、昭和46年9月に「カップヌードル」を発売した。

ところが、「カップヌードル」は問屋の理解を得られなかったため、スーパーには並べられられず、営業部の苦労の末、遊園地・百貨店・警察・消防などの食品ルート以外の販路で販売されていた。

その後、湯の出る自動販売機を開発して自動販売機でカップヌードルを販売すると、問屋に「カップヌードル」が売れているという噂が伝わって、問屋から注文が入るようになり、スーパーなどの店頭にカップヌードルが置かれていった。

そのようななか、翌年の昭和47年2月に浅間山山荘事件が発生し、極寒の雪の中で、銃撃戦の合間にカップヌードルを食べている機動隊員の様子が報じられたことを切っ掛けに、「カップヌードル」は爆発的に売れるのであった。

すると、「カップヌードル」の類似品が出回り、再び泥沼の特許紛争が起きるが、日清食品の安藤百福(呉百福)は次々と類似品を訴えた末に和解し、日清食品の独占技術として、その後27社に使用実施を承諾した。

日清食品の安藤百福(呉百福)は、東洋水産とも激しい法廷戦争を繰り広げており、日清食品の特許争いは「インスタントラーメン界の日清戦争」とも呼ばれた。

「カップヌードル」の成功で日の出の勢いに乗った日清食品の安藤百福は、30億円を投じて生産ラインを作り、昭和50年に「カップライス」を発売するが、全く売れずに大失敗に終わり、早々に撤退した。

昭和56年、安藤百福は長男・安藤宏寿に社長を譲って会長に就任するが、昭和58年に長男・安藤宏寿が辞職し、安藤百福(呉百福)が社長を兼任して、昭和60年に次男・安藤宏基を社長に就任させた。

そうした一方で、非行少年の問題を危惧し、昭和57年に私財を投じて財団法人「日清スポーツ振興財団」を設立した。

また、ラーメンの起源を探るため、「麺ロード調査団」を結成し、中国で麺料理を食べ歩き、麺料理の起源は中国で、中国から世界へ麺料理が広まっていく経路を突き止めた。

阪神大震災が発生すると、安藤百福は社員7人とキッチンカーを派遣し、被災者に暖かいインスタントラーメンを提供した。

また、安藤百福(呉百福)はチキンラーメンを開発した経緯から、ベンチャーに理解があり、私財1億円を投じて、賞金1000万円を贈る「安藤百福記念賞」を制定し、ベンチャーを支援した。

また、平成15年にはインスタントラーメンの宇宙食の研究に着手し、世界初の宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に成功。平成17年にスペースシャトル「ディスカバリー」に搭載され、日本の宇宙飛行士・野口聡一が「スペース・ラム」を食べた。

安藤百福(呉百福)は、功績が認められて数々の賞を受賞しており、平成18年にはアメリカのタイム誌から、「アジアの英雄」の1人に選ばれた。

安藤百福(呉百福)は毎年、年に100回以上はゴルフをするというゴルフ好きで、昼は毎日、日清食品のインスタントラーメンを食べ、90歳を超えても意欲的に稼働していたが、2007年(平成19年)1月5日に急性心筋梗塞で死去した。享年97だった。

なお、朝ドラ「わろてんか」のキャストやモデルの一覧は「朝ドラ「まんぷく」のキヤストと実在のモデル一覧」をご覧ください。

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