「天皇の料理番」として活躍した料理人・秋山徳蔵と「皇后様のデザイナー」として活躍したデザイナー・田中千代について紹介します。
ファミリアの創業者・坂野惇子の関連実物としてデザイナー・田中千代の立志伝を書きました。
そして、「皇后様のデザイナー・田中千代の生涯」を書いているとき、田中千代の生涯と「天皇の料理番」として活躍した料理人・秋山徳蔵とに4つの共通点を見つけたので紹介します。
私は意外に思ったのですが、田中千代も秋山徳蔵も1カ所に長く居ません。短期間で転々としています。
田中千代の1度目の欧米外遊、これは夫の海外赴任に付き添っていたので、夫の仕事の都合もあるのですが、田中千代は長くても1年しか同じデザイン学校に在籍していません。
秋山徳蔵も国内とフランスで修行しているのですが、同じ店で2年と修行しておらず、店を転々としています。
ただし、田中千代も秋山徳蔵も、転々とする先は全て一流の学校や名門店です。
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田中千代の場合は、フランスの王室衣装を担当するデザイン学校「エコール・ド・ゲール・ラビーニュ」で学んでいます。
経営者ラビーニュは、王室のデザイナーとして活躍していたので、田中千代はエコール・ド・ゲール・ラビーニュで特殊なエチケットを学んでいます。
田中千代が皇后様のデザイナーに選ばれた最大の理由は、王室のデザイナー「ラビーニュ」に師事していたからとも言われています。
一方、秋山徳蔵もフランスの名門「オテル・リッツ」で、「近代フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエに学んでいます。
秋山徳蔵の場合は他にも「天皇の料理番」候補が居たのですが、大正天皇が長く務められるように、若い人を望んだという事もあり、秋山徳蔵が「天皇の料理番」に選ばれました。
フランスは普仏戦争でドイツに負けるまでは、ヨーロッパの大国だったので、フランス語が外交の公用語となっていました。
第2次世界大戦後はアメリカが急激に台頭して英語が公用語となるのですが、それでも外交上はフランス料理が採用されるなど、フランスは外交のスタンダードとして残りました。
このため、田中千代も秋山徳蔵も、フランスの名門で学んだという点が大きかったのでしょう。
秋山徳蔵は大正12年(1923年)に「仏蘭西料理全書」という料理事典を出版しており、仏蘭西料理全書は現在も日本フランス料理界のバイブルとなっています。
一方、田中千代も昭和44年(1969年)に田「田中千代服飾事典」を出版しており、現在もデザイナーのバイブルとなっています。
田中千代も秋山徳蔵も、事典を出版するということは、事典が作れるだけ、勉強したということが推測できます。
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