手塚治虫の立志伝

「漫画の神様」と呼ばれた漫画家・手塚治虫の立志伝です。

手塚治虫の立志伝

手塚治虫手塚治虫(本名は手塚治)は昭和3年(1928年)11月3日に大阪府豊能郡豊中町(大阪府豊中市)で、手塚粲(てづか・ゆたか)の長男として生まれた。母親は手塚文子である。

手塚家は代々、藩医を排出した家系で、曾祖父・手塚良庵(手塚良仙)は、福沢諭吉と交流があり、明治維新を迎えて軍医を務めた。

祖父・手塚太郎が法曹界へと進み、長崎控訴院(高等裁判所に相当)の院長を務めており、父・手塚粲は中央大学法学部へ進んだが、法曹界へは進まず、卒業後は大阪の住友倉庫に就職し、趣味の写真に熱を入れていた。

さて、父・手塚粲は近くに良い幼稚園が無かったことから、手塚治虫を幼稚園へは行かせず、漫画を買い与えて自宅に居させたので、手塚治虫は幼い頃から、絵を描くのが好きになっていた。

その一方で、父・手塚粲は宝塚ホテルの会員組織「宝塚倶楽部」の会員で、母・手塚文子が宝塚歌劇のファンだったことから、手塚治虫は2歳の頃から母に連れられて宝塚歌劇に通っていた。

そして、手塚家は手塚治虫が5歳の時に、兵庫県宝塚市へと引っ越した。宝塚の家の隣には、宝塚スターの天津乙女(鳥居栄子)雲野かよ子(鳥居華子)の家があり、手塚治虫は天津乙女らに可愛がられて育った。

また、宝塚音楽学校の新入生は、天津乙女らの自宅に挨拶に来ていた。母・手塚文子は宝塚歌劇の大ファンだったので、新入生をよく家に招いており、手塚治虫は新入生のコーラスで宝塚歌劇の歌を覚えた。

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小学校時代

手塚治虫は、兵庫県宝塚市に住んでいたが、大阪府池田市にある池田師範付属小学校に入学し、電車で池田師範付属小学校へ通った。

手塚治虫は天然パーマだったことから、「ガヂャボイ」と呼ばれて虐められていたが、母・手塚文子は手塚治虫が帰宅すると、「今日は何度、泣かされたの?」と尋ね、「我慢しなさい」と言った。

手塚治虫は、いじめっ子に虐められないように手品を覚えて興味を引いたが、1つの手品で興味を引けるのは、せいぜい1日程度だったので、漫画で気を引こうと考えた。

そして、手塚治虫は小学2年生の時から、ノートに漫画「ピンピン生チャン」を描き始めた。漫画は直ぐに学校で人気となり、子供達はノートを奪い合うようになった。

漫画は、よく出来ていたので、授業中に回し読みをしていても、教師が黙認するほどだった。

また、自宅には大量の漫画コレクションがあったので、いじめっ子などを自宅に招いて漫画を読ませたり、父親が投影機でアニメを上映してくれたりしたので、次第にイジメは無くなっていったという。

さて、手塚治虫は友達から借りた「原色千種昆蟲図譜」を読んで昆虫好きになっており、「オサムシ」という昆虫を見つけると、「自分に似ている」という理由で「オサムシ」を好きになった。

そこで、「手塚治虫」というペンネームを使い始めた。このときは「治虫」を「おさむし」と読ませており、「治虫」を「おさむ」と読ませるようになったのは、昭和25年(1950年)頃のことである。

その一方で、手塚治虫は父親が自宅で上映してくれたミッキーマウスのアニメやチャップリンの無声映画を観て強い影響を受け、教科書の隅にパラパラ漫画を書くようになった。

そのようななか、手塚治虫は小学5年生の時に、友達4人と一緒にガリ版印刷で科学雑誌「世界化学体系・共同制作文庫」を発行してクラスで配った。

この科学雑誌が北野中学校(北野高校)の面接で認められ、手塚治虫は名門の北野中学校(北野高校)へと進学する事が出来た。

中学時代

昭和16年(1941年)4月、手塚治虫は大阪府立北野中学校(北野高校)に入学した。

このころは漫画家になろうとは考えておらず、昆虫に熱中して、昆虫の研究雑誌や昆虫図鑑を制作するなどしていた。

やがて、戦況が悪化していき、昭和19年(1944年)、手塚治虫は、強制的に海軍飛行予科練習生(特攻隊)に志願させられた。

幸い海軍飛行予科練習生は身体検査で不合格となったが、体を鍛える施設「一里山健民修練所」に入れられてしまう。

手塚治虫は、修練所時代に手が「びらん性白癬疹」という水虫の一種に感染し、「びらん性白癬疹」が悪化したため、修練所の退所が許された。

既に症状が悪化しており、手遅れだったので、医者から見放されたが、母親が頼み込んで医者に治療を続けてもらうと、なんとか回復し、手塚治虫は手の切断を免れた。

このときの経験から、手塚治虫は、医者になって苦しんでいる人を助けようと思うのだった。

昭和19年(1944年)9月、手塚治虫は学校へ行く代わりに、学徒勤労により、「大阪石綿」で労働に従事しながら、隠れて漫画を書き続けた。

しかし、空襲によって、これまでに書き溜めていた漫画が焼失すると、国に身を捧げる意欲もなくなり、引きこもって漫画を描くようになった。

そして、手塚治虫は、戦時中に観たドイツ映画が切っ掛けで映画好きになり、終戦末期の昭和20年4月に映画館で観た長編アニメ「桃太郎・海の神兵」に感動し、「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画(アニメーション)をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」と誓った。

戦後

旧制中学校は5年制だが、手塚治虫は、戦時中の時短により、北野中学校を4年で卒業し、浪速高校を受験した。しかし、浪速高校の受験に失敗する。

軍医になれば、強制徴兵を免れることが出来るので、手塚治虫は北野中学校を卒業すると、昭和20年7月に大阪大学付属医学専門部へと進学したが、昭和20年8月15日に終戦を迎えた。

終戦を迎えたことで、手塚治虫は自由に漫画を描くことが出来るようになり、毎日新聞の社長に長編漫画「幽霊男」を送ったが、何の連絡も無かった。

しかし、手塚治虫は、毎日新聞に務める長谷淑子と出会い、長谷淑子の仲介で、毎日新聞の子供向け新聞「少国民新聞」の文芸部・程野に会うことが出来た。

そして、「少国民新聞」の程野に認められ、昭和21年(1946年)1月から毎日新聞の「少国民新聞」で4コマ漫画「マアチャンの日記帳」の連載を開始した。

さらに、手塚治虫は、漫画雑誌「まんがマン」を発行する「漫画書院」を訪れ、ベテランの漫画家・酒井七馬と出会い、酒井七馬に実力を認められた。

そして、酒井七馬から合作を持ちかけられ、酒井七馬の原案で手塚治虫は長編漫画「新宝島」の原稿を書き、酒井七馬が原稿を仕上げ、昭和22年1月末に漫画「新宝島」を出版した。

アニメーションの手法を取り入れた手塚治虫の漫画は、読者に大きな衝撃を与え、「新宝島」は爆発的にヒットして40万部を売り上げ、大阪で赤本(駄菓子屋などで販売する漫画)ブームを起こした。

しかし、手塚治虫は「新宝島」に自分の名前が入っていないことに不満を持ち、昭和22年3月に単独作品の赤本「タカラジマ」を発売した。

すると、酒井七馬は自分に無断で「新宝島」と似たタイトルの漫画を発売した事に怒り、2人の関係は悪化した。

さて、数本の漫画を描き上げて、大阪で人気の赤本漫画家なった手塚治虫は、昭和22年8月に上京して、講談社に漫画を持ち込んだが、全く相手にされなかった。

さらに、尊敬する漫画家の新関健之助と島田啓三の自宅を訪れ、作品を観てもらったが、新関健之助からも、島田啓三からも、手塚治虫の手法は批判されてしまう。

さらに、手塚治虫は、芦田巖の「芦田漫画映画製作所」の漫画映画(アニメーション)のスタッフ募集の広告を見て、「芦田漫画映画製作所」を訪れ、作品を観てもらい、漫画映画への情熱を熱く語った。

しかし、芦田巖は、アニメーターは地味で、歯車の一つに過ぎないため、漫画家は直ぐに辞めてしまうと言い、「あなたはマンガ作家になりなさい。アニメーションは、ここですっぱり諦めた方がいいです」と告げた。

門前払いにされた手塚治虫は、きっぱりと漫画映画と縁を切ることを決意し、小さな出版社に飛び込み、漫画を出版する話を取り付けた。

この頃は、漫画を出せば売れる時代だったので、小さな出版社は無名の漫画家でも欲していたのだ。

こうして、手塚治虫は、昭和22年10月に同盟出版社から「怪人コロンコ博士」を出版。昭和23年5月には新生閣から「Qちゃんの捕物帳」を出版した。

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東京進出

昭和24年(1949年)の春、東京の漫画雑誌「漫画少年」の編集長・加藤謙一から、漫画の連載を掲載したいという依頼が来た。

加藤謙一は、漫画雑誌「少年倶楽部」を育てた講談社の名編集局長で、戦後は公職追放を受けて表だって活動できないため、昭和22年に妻・加藤昌の名義で出版社「学童社」を設立して、昭和23年に「漫画少年」を創刊していた。

このころ、手塚治虫は、医師になるか漫画家になるか、進路に迷っていた。教授・安澄権八郎からも漫画家になるように勧められていたが、漫画家で生活していけるのか不安だった。

このため、手塚治虫は、編集長・加藤謙一に連載を断る返事をしたが、編集長・加藤謙一は何度も説得の手紙を送ってきた。

そこで、迷った手塚治虫が母・手塚文子に相談すると、母・手塚文子は、不安なら医師免許を取っておけばと言い、好きな漫画の道へ進むように助言した。

手塚治虫は、これで漫画家になることを決め、医学生を続けながら、精力的に漫画を書き、昭和25年4月かに雑誌「少年少女漫画と読み物」で「タイガー博士の珍旅行」の初連載を開始した。

さらに、昭和25年1月に「漫画少年」で「ジャングル大帝」の連載を開始して、東京に本格的に進出した。

手塚治虫は、漫画の執筆が忙しく、1年留年して、昭和26年(1951年)3月に大阪大学付属医学専門部を卒業し、宝塚では医師免許を取得するための勉強を続け、東京で漫画を描くという生活に入った。

そして、東京の雑誌「少年」の編集長・金井武志からの依頼で、昭和26年4月から「アトム大使」の連載を開始した。この「アトム大使」が後の「鉄腕アトム」である。

東京移転

手塚治虫は、漫画を描きながら、医師の勉強を続け、昭和27年(1952年)7月に医師免許を取得すると、八百屋の2階を間借りして、拠点を東京へ移した。

そして、数多くの連載を抱えて多忙を極めながらも、発行部数の落ちている「漫画少年」のために、「漫画少年」の編集特別顧問を引き受け、「漫画少年」の巻き返しに奔走した。

そのようななか、「漫画少年」の編集者・加藤宏泰(加藤謙一の次男)は、東京都豊島区椎名町5丁目の新築アパート「トキワ荘」を見つけ、手塚治虫に「トキワ荘」へ移ることを勧めた。

手塚治虫は八百屋の2階を間借りしていたが、編集者が大勢出入りして、現行の争奪戦を繰り広げていたため、苦情が出ており、加藤宏泰のすすめを受けて、昭和28年に「トキワ荘」の2階14号室へと引っ越した。

新婚の加藤宏泰も、手塚治虫を管理するため、「トキワ荘」に住んだ。その後、空室が出ると新しく漫画家が入居するようになり、「トキワ荘」は数多くの有名漫画家を輩出し、漫画家の聖地となる。

その一方で、手塚治は、昭和28年1月から雑誌「少女クラブ」で「リボンの騎士」の連載を開始するのだった。

関西の長者番付でトップ

手塚治虫は、昭和29年(1954年)3月の関西の長者番付の画家の部でトップとなり、同年10月に「トキワ荘」を出て東京都豊島区雑司ケ谷にあるアパート「並木ハウス」の2階10号室へ引っ越した。

「漫画少年」の編集者・加藤宏泰が「並木ハウス」へ先に引っ越しており、加藤宏泰が手塚治虫に「トキワ荘」を紹介したのだという。

その一方で、手塚治虫は昭和29年から「少年倶楽部」で「火の鳥」の連載を開始したが、「少年倶楽部」を発行していた「学童社」が倒産してしまう。

このため、昭和31年に「少女クラブ」で連載していた「リボンの騎士」が完結すると、「少女クラブ」で「火の鳥」の連載を再開した。

このころ、手塚治虫は昭和30年ごろから活発になり始めた「悪書追放運動」のやり玉に挙がって苦しむことになる。

そのようななかでも、手塚治虫は、頼まれたら断れない性格もあって、膨大な仕事を抱えており、まだ無名の石森章太郎・赤塚不二夫・永島慎二・藤子不二雄・松本零士などにアシスタントを頼んだ。

こうして、手塚治虫は膨大な仕事をこなしながら、アニメーションスタジオを設立するため、お金を貯め続けていたところに、「東映動画」からアニメーションの話が舞い込んできたのだった。

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念願のアニメ制作

東洋のディズニーを目指して設立された「東映動画」は、昭和33年(1958年)に日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」を公開し、昭和34年(1959年)に長編アニメ第2弾「少年猿飛佐助」を公開した。

そのようななか、東映動画の顧問・渾大坊五郎は、演出家・白川大作に「次は何をやりたいか」と尋ねた。

すると、手塚治虫のファンだった白川大作は「日本の猿飛佐助をやってので、次は中国でしょう」と言い、手塚治虫の漫画「ぼくの孫悟空」の映画化を提案した。

そして、渾大坊五郎が提案を受け入れ、手塚治虫にアニメの共同制作を申し入れると、手塚治虫は二つ返事で引き受け、ディズニー流のストーリーボードから描き上げることにした。

こうして、手塚治虫は念願のアニメーションに力を入れるが、連載を抱えている雑誌の方が悲鳴をあげるようになったため、手塚治虫は漫画に戻り、漫画アシスタントの月岡貞夫と石ノ森章太郎を東映動画に派遣した。

そして、手塚治虫がラフ画を描いて、月岡貞夫と石ノ森章太郎が清書してストーリーボードを作り上げていった。

さて、漫画とアニメはキャラクターデザインの方法が全くちがうので、手塚治虫の描いたキャラクターは「東映動画」のアニメーターから総スカンを食らい、月岡貞夫がアニメ向けに修正した。

ストーリーの方も「東映動画」の演出家・藪下泰司や白川大作の主導で作られたため、ストーリーボードから大幅に変更されてしまった。

手塚治虫は、結末だけはバッドエンドを頑なに主張したが、白川大作はバッドエンドを受け入れず、「西遊記」はハッピーエンドに終わった。

こうして、アニメ「西遊記」が完成すると、手塚治虫は念願のアニメに感動したが、大勢の共同作業では個性が失われてしまうことを痛感し、自分のプロダクションを作る必要があると決意する。

その後、手塚治虫は「東映動画」で「わんわん忠臣蔵」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」の制作に関わるが、「東映動画」に意見が受け入れられず、大きな不満を感じ、プロダクションの設立に向けて動くのだった。

その一方で、劇画ブームに押されてスランプに陥っていた手塚治虫は、マネージャー今井義章の助言を受けて結婚することにして、昭和34年(1959年)10月に遠い親戚に当たる岡田悦子と結婚した。

虫プロの設立と鉄腕アトム

昭和34年(1959年)8月、手塚治虫は、「おとぎプロダクション」を設立してアニメーションに進出していた漫画家・横山隆一の元を訪れ、アニメプロダクションの設立を相談した。

すると、横山隆一は「アニメのスタジオを作るなんていうのは無謀だ。絶対やめなさい」と忠告したが、手塚治虫は「絶対に出来る」と言い、決意を変えなかった。

確かに、ディズニーや東映動画のように動きを重視したフルアニメーションを制作するにはお金がかかる。

しかし、構成やストーリーは頭の中で考えるだけなのでお金はかからない。

そこで、手塚治虫は、構成やストーリーを重視し、アニメーションを簡略化したリミテッドアニメーションという手法を使い、2コマ撮りではなく、3コマ撮りを採用して省セル化し、動かさないアニメを制作するという秘策を考えていた。

さて、手塚治虫の新居が昭和35年8月に完成すると、スタッフを募集し、続々とスタッフが集まった。

そして、昭和36年に「手塚治虫プロダクション(虫プロダクション)」が発足し、実験的アニメ「ある街角の物語」の制作を開始した。

しかし、「ある街角の物語」は商業目的で制作しておらず、制作してもお金にはならない。アニメ制作スタッフの給料は、全て手塚治虫の原稿料でまかなわれていた。

そこで、東映動画出身の坂本雄作が「鉄腕アトム」のアニメ化を、同僚の山本暎一に相談し、手塚治虫から「鉄腕アトム」のアニメ化の許可を得た。

そして、「東映動画」を寿退社したアニメーター中村和子が、広告代理店「萬年社」に務める夫・穴見薫を「虫プロダクション」に紹介し、穴見薫が明治製菓をスポンサーに付けることに成功した。

こうして、フジテレビで「鉄腕アトム」の放送が決まった。

このとき、「萬年社」の穴見薫が、輸入アニメの価格から1本の制作費を30万円と提示したが、「鉄腕アトム」の制作費は1本につき150万円から200万円だったので、手塚治虫は拒否した。

すると、フジテレビと明治製菓が、子供向けテレビドラマの制作費の倍にあたる120万円を提示したが、手塚治虫は販売価格を1本につき、赤字の55万円で引き受けた。

これは、手塚治虫はTVアニメを独占するため、スポンサー料を赤字に設定して、新規参入を阻止する狙いがあったという。

あまりにもスポンサー料が安いのでテレビ局が心配したが、手塚治虫は漫画の原稿料で補填すると言ってのけた。

しかし、実際の「鉄腕アトム」の販売価格は1本155万円で、その後、値上げをしていき最終的には1本300万円になったという。

こうして、虫プロダクションに「映画班」と「テレビ班」が発足し、「映画班」は「ある街角の物語」の制作を続け、「テレビ班」が「鉄腕アトム」の制作を開始した。

そして、昭和38年(1963年)1月1日に日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」の放送が開始される。

(注釈:「鉄腕アトム」よりも前に1分程度の国産TVアニメ番組は放送されていたが、30分番組としては、「鉄腕アトム」が初めてである。)

さて、フルアニメーションで長編アニメを作っていた東映動画のアニメーター大塚康生宮崎駿は、「鉄腕アトム」の動かないアニメを「電子紙芝居」と批判したが、視聴者は全く気にせず、「鉄腕アトム」は大ヒットした。

さらに、「鉄腕アトム」はアメリカでも認められ、昭和38年10月から「アストロボーイ」というタイトルでアメリカでも放送を開始する。

当初は赤字だったが、「鉄腕アトム」は爆発的な人気だったので、キャラクター商品の権利収入などで、「虫プロダクション」は莫大な利益を上げていった。

しかし、「鉄腕アトム」のヒットを受け、TCJ(エイケン)が昭和38年にTVアニメ「仙人部落」「鉄人28号」「エイトマン」の放送を開始し、東映動画も「狼少年ケン」でTVアニメに参入したため、手塚治虫のアニメ独占という思惑は外れてしまった。

カラーTVアニメとW3事件

昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックを切っ掛けに、カラーテレビが普及したが、カラーアニメのコストは白黒アニメの3倍だったため、どこもカラーTVアニメには手を出さなかった。

そこで、「虫プロダクション」は昭和40年に、日本初の国産カラーTVアニメ番組「ジャングル大帝」の放送を開始するが、「ジャングル大帝」はスタッフの主導で制作され、塚治虫は「ジャングル大帝」に関わることが出来なかった。

このため、手塚治虫は「ジャングル大帝」に平行して、「ナンバー7」の企画を進めていたが、東映動画が「ナンバー7」と同じ設定の「レインボー戦隊ロビン」を放送する事が判明した。

そこで、手塚治虫は企画を変更するが、またもや類似アニメ「宇宙少年ソラン」が放送される事が判明したため、産業スパイ疑惑が浮上。手塚治虫は再び企画の変更を余儀なくされ、「W3(ワンダースリー)」を企画した。

W3班は、ジャングル大帝班と違って人材が不足しており、「虫プロダクション」を退社して主婦になっていた中村和子も、夫・穴見薫に頼まれてアニメーターに復帰し、「W3」の作画監督を務めている。

また、このとき、中村和子は「ベレット」を新車で購入したので、「東映動画」のアニメーター大塚康生に見せに行った。

すると、車好きの大塚康生は、「運転を教えてあげる」と言い、中村和子の「ベレット」で高速コーナーリングを見せようとしたが、失敗して塀に激突してしまう。

中村和子が「せっかく買ってもらった車がこんなになっちゃって、主人にとても報告できない」と言い、道路にしゃがみ込んで、真っ青になって震えていたので、大塚康生は夫・穴見薫に謝るために「虫プロダクション」へ行った。

すると、謝罪された夫・穴見薫は、「W3」のオープニングを描く人が居なくて困っていたので、喜んで車を廃車にしたことを許し、大塚康生にオープニングを頼んだ。

手塚治虫は、大塚康生を手塚プロダクションに誘っていたが、断り続けられていたので、大塚康生が「W3」のオープニングを描いてくれると言うので大喜びした。

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低迷

「虫プロダクション」は400人のスタッフを抱えて赤字に陥っており、版権部など独立させるかたちで、昭和41年(1966年)7月に「虫プロ商事」を設立して、マネージャーの今井義章に社長を任せた。

一方、漫画界では、藤子不二雄・赤塚不二夫・石森章太郎・横山光輝・水木しげるなどが台頭していた。

また、劇画(大人向け漫画)ブームやスポ根漫画ブームの影響で、手塚治虫の漫画は「もう古い」と言われるようになり、手塚治虫の原作ではアニメは作れず、アニメ班は「あしたのジョー」などを制作するようになる。

そのようななか、日本へラルドから、エロスを売りにした大人向け劇場版アニメの制作の依頼が舞い込んできた。

そこで、手塚治虫はゲーテの戯曲「ファウスト」をアニメ化することにしたが、イギリスの映画「ファウスト・悪のたしなみ」が公開される事が分かり、急遽、企画を変更し、映画「千夜一夜物語」を制作した。

昭和44年6月に公開した映画「千夜一夜物語」は、劇場版アニメとしては異例のヒットを記録し、昭和44年の興行成績第3位に輝き、日本へラルドは大儲けしたが、「虫プロダクション」は出資比率の関係で、赤字に終わった。

すると、味を占めた日本へラルドが、大人向け映画の第2弾の制作を依頼してきたので、手塚治虫は映画「クレオパトラ」を制作した。

昭和45年9月公開の映画「クレオパトラ」もそれなりにヒットしたが、「虫プロダクション」の経営を立て直すことは出来なかった。

「虫プロダクション」を退社

そもそも「虫プロダクション」は、手塚治虫のアニメを作る会社で、手塚治虫のポケットマネー(原稿料)で持っていた。

しかし、手塚治虫の原作ではアニメが作れなくなると、大きくなった「虫プロダクション」は手塚治虫の手を離れ、他人の原作でアニメを制作するようになっていた。

手塚治虫は他人の原作アニメにまで、ポケットマネーを出す気は無く、昭和46年に「虫プロダクション」を退社すると、中村和子・赤堀幹治・上口照人・三輪孝輝を集めて、実験的アニメ「ある森の伝説」の制作を開始した。

しかし、「虫プロダクション」と「虫プロ商事」が経営難に陥っていたため、実験的アニメ「ある森の伝説」を断念し、漫画に専念することになった。

その後、昭和48年11月に「虫プロダクション」と「虫プロ商事」が倒産。劇画ブームの煽りを受けて、手塚治虫自身も漫画の人気が低迷し、スランプに陥っていた。

そのようななか、漫画「ブッダ」「ブラックジャック」「三ツ目がとおる」などの連載がヒットして、手塚人気が復活し、「火の鳥-望郷編」の連載も開始した。

昭和52年6月から、講談社が「手塚治虫漫画全集」(全300巻)の発行を開始。昭和59年10月に全300巻が完結した。

そして、漫画全集の発売により、手塚治虫は「漫画の神様」と呼ばれるようになった。

火の鳥

手塚治虫は、昭和53年(1978年)2月に、アニメーター中村和子と小林準治を呼び寄せて、中断していた実験的アニメ「森の伝説」の制作を再開した。

そのようななか、「東宝」で「火の鳥」を実写映画にする企画が浮上。火の鳥を実写で表現するのは難しいため、一部をアニメにして実写とアニメの融合で映画を制作する事になり、アニメ部分の演出を手塚治虫に依頼した。

手塚治虫は、この話を受けたが、映画監督・市川罠とことごとく意見が対立し、自分の思い通りにアニメを作れないことから、アニメの制作を「スタジオゼロ」の鈴木伸一に任せた。

昭和53年に映画「火の鳥」が公開されると、映画がヒットしたことから、東映は手塚治虫にアニメ版「火の鳥」の制作を依頼した。

今度は手塚治虫の自由に制作することができたが、昭和55年3月公開の映画「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」は、評価は賛否両論があり、手塚治虫は「10年早かった」と語った。

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晩年

手塚治虫は医者の家系だが、祖先の詳しいことまでは知らなかった。

そこで、手塚治虫は昭和55年(1980年)に順天堂大学で講義をしたとき、祖先については詳しい事は知らないと話すと、講演を聞いていた学生が藩医・手塚良仙の資料を送ってくれた。

こうして自分の祖先が藩医・手塚良仙だったと判明し、昭和56年から、祖先の手塚良庵を描いた漫画「陽だまりの樹」の連載を開始した。

さらに、昭和58年には「アドルフに告ぐ」の連載を開始した。

昭和60年、実験的アニメ「おんぼろフィルム」が、第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリを受賞したほか、バルナ国際アニメーションフェスティバルのカテゴリー部門で最優秀賞を受賞した。

昭和63年に入ると、手塚治虫は体調を崩し、同年3月に胃ガンで半蔵門病院に緊急入院して、胃の4分の3を摘出した。しかし、本人にはガン告知されず、家族は胃潰瘍と嘘を突き通した。

手塚治虫は同年5月に退院すると、漫画の連載を再開するが、体力の衰退は著しく、同年10月に再入院し、病床で連載を続けた。

同年11月には、周囲の反対を押し切って、上海で開催される「上海国際アニメフェスティバル」に出席して審査員を務めた。

「上海国際アニメフェスティバル」は大成功に終わったが、手塚治虫の体調は悪化し、帰国すると再入院し、同年12月に再手術が行われ、以降は漫画を描くことが出来なくなった。

その後も、意識のある時間は短くなって行くが、それでも仕事の打ち合わせを続けた。

昭和64年(1989年)1月、手塚治虫は意識がもうろうとしながらも、妻に「隣へ行って仕事をする。仕事をさせてくれ」と言った。これが最後の言葉となり、昭和64年2月9日に死去した。

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