日本初のインスタントラーメン(即席麺)を主張する大和通商の陳栄泰の立志伝です。
陳栄泰は、日清食品の安藤百福(呉百福)と同じ在日台湾人で、東京の「大和通商」および「大和食糧」の社長である。
故郷の台湾には素麺を油で揚げた「鶏糸麺(ケーシーメン)」という料理があり、台湾から「鶏糸麺」を取り寄せて食べていた在日台湾人が、戦後、日本で「鶏糸麺」を作るようになった。
日本で作られていた「鶏糸麺」を商品化したのが、大和通商の陳栄泰で、昭和33年の春(1月・4月・6月説がある)に東京の百貨店などでインスタントラーメン(即席麺)「ヤマトの鶏糸麺」が発売された。
「ヤマトの鶏糸麺」の発売と同時期に、大阪では東明商行の張国文(在日台湾人)がインスタントラーメン「長寿麺」を発売している。
さらに、「ヤマトの鶏糸麺」の発売から数ヶ月後の昭和33年8月25日に日清食品の安藤百福がインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売した。
このように、昭和33年に「ヤマトの鶏糸麺」「長寿麺」「チキンラーメン」という3つのインスタントラーメンが発売されたのだが、商業的に成功したのは「チキンラーメン」が最初だった。
そして、「チキンラーメン」を開発した日清食品の安藤百福(呉百福)が「インスタントラーメンの元祖」を名乗ったため、3者が元祖を争って泥沼の特許紛争を起こすことになる。
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大和通商の陳栄泰は、昭和33年11月27日に「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」というインスタントラーメンの製造特許を申請した。
次いで、東明商行の張国文が昭和33年12月18日に「味付乾麺の製法」というインスタントラーメンの特許を申請した。
これに遅れて、日清食品の安藤百福(呉百福)が昭和34年(1959年)1月22日に「即席ラーメン製造法」という特許を義母・安藤須磨の名義で申請した。
この間に日清食品のチキンラーメンが商業的に成功しており、続々とインスタントラーメン業者が誕生していた。
そのようななか、チキンラーメンの発売から2年後の昭和35年(1960年)9月、大和通商の陳栄泰は、出願中の特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」の公告決定を受けるのに先立ち、インスタントラーメン製造を製造する各社に特許侵害を警告し、1袋につき2円の損害賠償を請求した。
日清食品は業界最大手で販売個数が多いため、日清食品への損害賠償請求は6800万円に上ったという。
これに危機感を覚えた関西のインスタントラーメン製造業者が中心となり、昭和35年10月に大阪で「全国即席ラーメン協会」を発足し、陳栄泰の特許公告決定に異議を申し立てた。
こうして、大和通商の陳栄泰、日清食品の安藤百福、東明商行の張国文の3人がそれぞれに特許を主張し、インスタントラーメン業界で、泥沼の特許騒動が勃発するのである。
なお、大和通商の陳栄泰は、3人の中で一番早く特許を申請したが、「全国即席ラーメン協会」から異議を申し立てられたことにより、特許の確定が大幅に遅れることになってしまう。
こうした泥沼の特許騒動のなか、日清食品の安藤百福(呉百福)は、莫大な広告宣伝費を投じて「チキンラーメン」の商標を確定させ、「都一製麺」の田村良雄から「屈曲乾麺の製法」と「屈曲麺類製造装置」というインスタントラーメンの根幹となる2つの特許の特許分権使用契約を結んだ。
さらに、安藤百福(呉百福)は、昭和35年に東明商行の張国文(在日台湾人)が持つ特許「昧付乾麺の製法」を買い取り、自身がもつ特許「即席ラーメンの製造法」とともに、昭和37年6月に2つの特許を確定させた。
すると、日清食品の安藤百福(呉百福)は、現在発売中のインスタントラーメンの全てが安藤百福(呉百福)の保有する特許「昧付乾麺の製法」「即席ラーメンの製造法」のいずれかを侵害しているとして、インスタントラーメン製造業者に特許使用料の支払いを要求したのでる。
これに対して、大和通商の陳栄泰は、安藤百福との関係を公表し、安藤百福が「ヤマトの鶏糸麺」の特許を盗んでチキンラーメンの特許を取得したとして、安藤百福の特許の無効を申請するのだった。
大和通商の陳栄泰が公表した安藤百福(呉百福)との関係と、陳栄泰が主張する安藤百福のパクリ説を紹介する。ただし、あくまでも、陳栄泰側の主張なので真偽は不明である。
大和通商の陳栄泰は、昭和33年の春に東京の三越や伊勢丹などの百貨店で即席麺「ヤマトの鶏糸麺」の発売を開始した。1日2000食から3000食程度の販売だったという。
そして、大和通商の役員をしている在日台湾人・許炎亭が、昭和33年夏に大阪・難波で在日台湾人仲間の安藤百福と再会した。
安藤百福は、理事長を務めていた華僑向けの信用組合「大阪華銀」を倒産させた後で何もしておらず、即席麺「ヤマトの鶏糸麺」に興味を示したので、許炎亭が安藤百福に陳栄泰を紹介した。
こうして、許炎亭と安藤百福は、大和通商の即席麺「ヤマトの鶏糸麺」を販売する関西代理店「三倉物産」を設立した。許炎亭が社長を務め、安藤百福が株主だった。この「三倉物産」が日清食品の前身だという。
そして、三倉物産の社長・許炎亭が即席麺「ヤマトの鶏糸麺」を「チキンラーメン」と名付けて関西で販売したが、1日1000食程度しか売れなかったという。
しかし、安藤百福が日清食品を設立して本格的に宣伝を開始すると、「チキンラーメン」は2分で出来る「魔法のラーメン」として売れ出したのだという。
さらに、大和通商の陳栄泰が「ヤマトの鶏糸麺」の特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」を出願するときに、安藤百福は特許を盗んで、義母・安藤須磨の名前で特許「即席ラーメンの製造法」を出願したのだという。
「鶏糸麺」は、「鶏」という字が入っていることからも分かるように「チキン味」であり、安藤百福の「チキンラーメン」は日本人の舌に合うように、「鶏糸麺」からニンニクを除いただけなのだという。
あくまでも、安藤百福と対立している陳栄泰の主張なので、真偽は不明なのだが、陳栄泰はインスタントラーメンの発明者を名乗る安藤百福を敵視して、安藤百福のパクリ説を展開し、安藤百福と対立したのである。
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陳栄泰の特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」は、「全国即席ラーメン協会」から異議を申し立てられていた関係で、特許の確定が大幅に遅れるが、チキンラーメン販売から5年後の昭和38年(1963年)2月に特許が確定する。
一方、日清食品の安藤百福は、チキンラーメンで莫大な利益を上げており、チキンラーメンの発売から5年後の昭和38年3月29日に、日清食品の二部上場を発表した。
これに対して、陳栄泰は特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」が成立したことから、昭和38年4月に「大和食糧」の名義で、日清食品と発売代理店に対する偽作物製造使用等停止の仮処分を、東京地裁に申請した。
さらに、大和通商の陳栄泰が日清食品の二部上場を阻止しようとしたので、日清食品の安藤百福(呉百福)は大和通商を業務妨害罪で東京地検に告訴した。
すると、大和通商の陳栄泰は、日清食品を相手取り、8億3000万円の損害賠償の認定を求め、著作権侵害で東京地裁に告訴したのである。これは著作権侵害としては当時の最高額で、世間を大いに賑わせた。
大和通商の陳栄泰は、昭和33年の春に日本初のインスタントラーメン「ヤマトの鶏糸麺」を発売したさい、食べ方を図解した3コマからなる小片紙を配布していた。
日清食品の安藤百福も、チキンラーメンの包装紙の裏に、食べ方の説明文とともに、食べ方を図解した絵を掲載していた。
しかし、チキンラーメンの包装紙の裏の絵は、大和通商の陳栄泰が配布していた小片紙の絵に酷似していたので、陳栄泰はこれが著作権の侵害に当たると言い、日清食品の安藤百福(呉百福)を著作権の侵害で訴えたのである。
これに対して日清食品の安藤百福(呉百福)は、法学者・勝本正晃に鑑定を依頼し、その鑑定書を提出した。
大和通商の陳栄泰も負けじと専門家に依頼して鑑定書を書提出したのだが、「勝本博士以上の鑑定書を持ってこなければ駄目だ」と言われ、陳栄泰の鑑定書は受理されなかったのだという。
インスタントラーメン業界が泥沼の特許紛争で揺れるなか、調味料などインスタントラーメン業者と取引する大手企業が特許紛争の仲裁に動き出しており、食糧庁も紛争解決に向けて動いていた。
このようななか、大和通商の陳栄泰は、日清食品の安藤百福が持つ特許2つの特許無効を申請していたが、安藤百福に特許裁判で負けてしまう。
陳栄泰が所得した特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」は、麺を揚げる油の温度が「50度」だったが、「50度」では油の温度が低すぎで、デンプンが糊化(α化)しない。これが致命的な欠点となり、日清食品の安藤百福との争いで負けてしまったのだ。
大和通商の陳栄泰は、「150度」と記入するところを間違って「50度」にしてしまったと主張しているが、後の祭りだった。
さて、大和通商の陳栄泰は、安藤百福との特許裁判で負けたこともあり、食糧庁の和解勧告を受け入れ、昭和38年(1963年)9月に安藤百福の日清食品と和解した。
この和解で、陳栄泰の特許は「スープ別添付方式」に対する特許で、安藤百福の特許は「味付け麺」に対する特許とすることが取り決められた。
既に明星食品が麺とスープを分けた「スープ別添付方式」の即席麺を開発しており、明星食品の動向に注目が集まったが、明星食品は業界の混乱をさえるため、沈黙を守った。
また、陳栄泰が著作権侵害で日清食品の安藤百福を訴えていた件も、特許無効裁判で負けたため、判決まで行くこと無く和解した。
その後もエースコックが日清食品に抵抗し、最後まで泥沼の戦いを続けたが、昭和39年1月にエースコックと日清食品が和解した。
日清食品の安藤百福(呉百福)は業界一本化に向けて動いていたが、各社が特許の取り扱いについて疑心暗鬼になっており、業界の一本化は難航した。
そこで、日清食品の安藤百福(呉百福)は、「日本ラーメン特許(国際特許管理)」を設立し、日本ラーメン特許(国際特許管理)が各特許の管理することで、特許問題を切り離した。
こうして、日清食品の安藤百福(呉百福)は、業界を一本化することに成功し、業界団体「本ラーメン工業協会」を設立して理事長に就任したのだった。
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インスタントラーメンは「スープ別添付方式」や「ノンフライ麺」など次々に進化しており、陳栄泰の取得した「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」には価値がなくなっていたうえ、ウルシの輸入事件などもあり、陳栄泰の会社の業績は低迷していたようだ。
そのようななか、大和通商の陳栄泰は昭和44年(1969年)、インスタントラーメンを作るときに使う「かんすい」はアルカリ性で体に悪いと言い、「鶏卵白」なるものを開発して特許を取得し、「かんすい」を使うインスタントラーメンは有害だと主張して、各社に「鶏卵白」を使った「純正ラーメン」を作るように呼びかけた。
確かに「かんすい」はアルカリ性で、大量に摂取すれば胃が荒れたりするが、弱いアルカリ性なうえ、インスタントラーメンに使用する程度の量では体に有害とは言えず、日清食品・サンヨー食品・エースコックなどインスタントラーメンの大手各社からは相手にされなかった。
その後も、大和通商の陳栄泰は、インスタントラーメンの元祖を主張しており、ときおり、「インスタントラーメンの元祖は日清食品のチキンラーメンではなく、大和通商の陳栄泰だった」という話が持ち上がるのだが、日清食品は昭和38年(1963年)に解決した話として、相手にしなかった。
なお、東明商行の張国文が発売した「長寿麺」は、発売時期こそ陳栄泰の「ヤマトの鶏糸麺」と同時期だが、「ヤマトの鶏糸麺」の発売よりも2年前の昭和31年(1956年)の第1次南極観測隊に採用されており、日本初のインスタントラーメンは張国文の「長寿麺」だという説もある。
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