宝塚歌劇団の鳥居栄子(天津乙女)や阪急百貨店の社長・鳥居正一郎の父である鳥居政吉の立志伝です。
鳥居政吉(旧姓・水野政吉)は明治17年(1884年)に尾張藩(愛知県名古屋市)の水野家に生まれた。
鳥居政吉は、明治維新の頃には東京に出ており、尾張藩出身の鳥居静(鳥居しず)と結婚して、鳥居家に養子に入る。
そして、結婚後も東京外語専門学校に通い、東京外語専門学校を卒業後、四谷第四尋常小学校に勤務した。
大正7年(1918年)、長女・鳥居栄子(天津乙女)が宝塚歌劇団に入団して兵庫県宝塚市へと単身でわたる。
このため、鳥居政吉は足繁く、東京から兵庫県へと通っており、阪急グループの総帥・小林一三から「そう度々、大阪と東京を往復していては旅費も馬鹿にならない。いっそ、引っ越してきてはどうか」と勧められた。
その後、大正9年(1920年)10月に次女・鳥居華子(雲野かよ子)も宝塚歌劇団に入団。次女・鳥居栄子も宝塚歌劇団入団が切っ掛けで、鳥居家は一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越すことになる。
四谷第四尋常小学校で働いていた鳥居政吉は、株屋に転向していたが、株屋が倒産したこともあり、次女・鳥居栄子(野かよ子)が宝塚歌劇団に入団を切っ掛けに、小林一三の誘いを受けて、一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越した。
そして、小林一三の誘いにより、阪急電鉄に入社し、阪急マーケット(阪急百貨店)の営業主任を務めた。
昭和11年(1936年)には、京都帝国大学経済学部を卒業した長男・鳥居正一郎が阪急電鉄に入社し、一家揃って小林一三の世話になった。
やがて、鳥居政吉は、阪急電鉄を定年。定年後は大好きな東京に住み、接客業好きの妻・鳥居静(鳥居しず)が昭和14年に天ぷら屋を始めたので、鳥居政吉は経理などをみていた。
昭和17年(1942年)4月18日、鳥居政吉はたまたま上京していた鳥居栄子(天津乙女)と歌舞伎座で芝居を見ていたとき、東京が初空襲を受けた。
空襲によって上演は中断となり、芝居は再演となったが、鳥居政吉は東京の初空襲にショックを受け、昭和17年8月11日に死去した。
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鳥居政吉は仏教とだったので、東京で仏式の葬儀を行ったが、鳥居栄子(天津乙女)の祖父が「皇室が神道だから自分は神道になる」と言い、神戸で神式の葬儀も行った。
そして、「東京の一人住まいは空襲で危ないから栄子の元に返りなさい」という鳥居政吉の遺言により、妻・鳥居静(鳥居しず)は天ぷら屋をたたんで、兵庫県宝塚市に居る鳥居栄子(天津乙女)の元へ引き上げた。
鳥居静 | 妻 | 妻・鳥居静(鳥居しず)は尾張藩の出身。非常に明るい性格で話し好きだったので、「静」という名前を不幸に思い、「鳥居しず」と書いていた。 |
鳥居栄子 | 長女 | 長女・鳥居栄子は東京採用生徒の第1弾として宝塚歌劇団に入り、「天津乙女」の芸名で、日本舞踊の名手として活躍し、宝塚歌劇団の理事も務めた。 |
鳥居華子 | 次女 | 次女・鳥居華子も姉・鳥居栄子の後を追って宝塚歌劇団に入り、「雲野かよ子」という芸名で、女形の主演クラスとして活躍した。 |
鳥居文子 | 三女 | 三女・鳥居文子は「見るのは好きだが、やるのは嫌」と言って、宝塚歌劇団には入らなかった。 |
鳥居久代 | 四女 | 四女・鳥居久代は、小林一三の勧めで宝塚歌劇団に入り、「池辺鶴子」の名前で舞台に立ったが、病に倒れたため、舞台には2年足らずしか立てず、昭和21年(1946年)に死去した。 |
鳥居正一郎 | 長男 | 長男・鳥居正一郎は、昭和11年に京都帝国大学を卒業し、小林一三の勧めで阪急鉄道に入社。戦後、阪急百貨店が阪急電鉄から独立した時に阪急百貨店へと移り、昭和56年(1981年)に阪急百貨店の3代目社長を務めた |
鳥居欽也 | 次男 | 弟・鳥居欽也は関西学院大学を卒業。陸軍を嫌って海軍を志願し、硫黄島の高射砲部隊に配属され、硫黄島で戦死した。 |
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