落語家・桂春団治(皮田藤吉)の1番目の妻・東松トミ(皮田トミ/永田トミ)の立志伝です。
東松トミは明治23年(1890年)4月18日に、京都府京都市上京区西洞院通三条上ル姉西洞院町で、父・東松和七の三女として生まれた。母は東松キヌである。
父・東松和七は、岐阜県中島郡滝鼻下町の出身で、京都で車屋(人力車)「あづま」を経営していた。
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桂春団治(皮田藤吉)は、明治28年(1895年)に三友派の2代目・桂文我に弟子入りして落語界に足を踏み入れ、明治36年(1903年)に無名の「桂春団治」を襲名した。
桂春団治(皮田藤吉)は大阪に住んでいたが、京都新京極の寄席「笑福亭」に出演しており、京都の「お玉」と知り合いになっていた。
東松トミも「お玉」と知り合いで、「お玉」の家に行ったとき、桂春団治(皮田藤吉)が「お玉」の家に来ていた。これが2人の出会いだった。
2人が出会ったのは、明治40年(1907年)頃のことで、東松トミが17歳頃、桂春団治(皮田藤吉)は30歳頃のことである。
東松トミと桂春団治(皮田藤吉)は直ぐに肉体関係へと発展しており、遠慮利恋愛に耐えられなくなったのか、東松トミは明治41年(1908年)4月に大阪の桂春団治(皮田藤吉)の家へと押しかけた。
桂春団治(皮田藤吉)が「妊娠したら大阪に来い」と告げていたので、通説では東松トミは妊娠したため、大阪の桂春団治(皮田藤吉)を尋ねていったと言う事になっている。
しかし、長男の出産時期から逆算すると、東松トミはこのとき、妊娠していないので、遠距離恋愛に辛抱できずに押しかけていったのではないか。
東松トミが尋ねていくと、桂春団治(皮田藤吉)は、実姉・皮田アイの嫁ぎ先・間垣善吉の家の2階に居候しており、「お浜」という女と暮らしていた。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)は、押しかけてきた東松トミに、「お浜」を姉だと紹介し、3人の共同生活が始まった。
東松トミは、純情だったので、「お浜」を姉だと信じていたのだが、やがて、「お浜」の事を疑うようになったころ、「お浜」は他に男を作って出て行った。
これを機に、桂春団治(皮田藤吉)は、東松トミを連れて長屋へと移り、2人で新婚生活を始めた。
そして、東松トミが明治44年(1911年)1月18日に長男・皮田春男を出産したため、桂春団治(皮田藤吉)は同年2月17日に婚姻届けを提出して正式に結婚した。
しかし、義兄・桂玉団治(皮田元吉/桂春団治の実兄)の妻「さき」が長女を連れて遊びに来たとき、長女が百日咳に感染していたので、長男・皮田春男は百日咳を移され、明治44年(1911年)6月にわずか5ヶ月で死去していまう。
それから2年後の大正2年(1913年)1月18日に東松トミは、長女・皮田ふみ子子を出産する。1月18日は、くしくも、2年前に死んだ長男・皮田春男の誕生日だった。
夫の桂春団治(皮田藤吉)は、パフォーマンスに力を入れていたので、自分の貧乏話をおもしろおかしく話したり、川に飛び込むなどのパフォーマンスをしたりして、「八方破れの春団治」として人気になっていた。
桂春団治(皮田藤吉)の給料も上がっていたが、家に入れる金は、車代(人力車代)の半分にしかならなかったので、東松トミは寄席「紅梅亭」で働くお茶子の着物や帯を仕立て直す仕事を引き受けて生活費を稼いだ。
そして、長女・皮田ふみ子が生まれた翌年の大正3年に、桂春団治(皮田藤吉)は「真打」へと昇進した。
落語家の階級は「前座」「2つ目」「真打」の3階級しないので、真打に成り立ても名人も同級で、後は実力の勝負である。
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桂春団治(皮田藤吉)は、真打に昇進した大正3年(1914年)、ひいきにしていた芸者置屋「京屋」の芸子・相香を連れ、四国の徳島県へと駆け落ちした。
行き先は徳島県紺屋町の太鼓持ちの家だと直ぐに分かったので、東松トミは、芸者置屋「京屋」の主人から2人を連れ戻すように頼まれて、徳島県へと渡った。
東松トミは幼い長女・皮田ふみ子を負んぶして、徳島県紺屋町の太鼓持ちの家を訪れると、既にもぬけの殻だった。
確かに桂春団治(皮田藤吉)は、太鼓持ちの家の2階で、芸子・相香と夫婦気取りで生活していたのだが、家主によると、今朝出て行ったきり、帰ってこないのだという。
部屋には桂春団治(皮田藤吉)の荷物が残っていなかったので、東松トミは、もう個々には戻ってこないだろうと思い、諦めて大阪の家に帰ると、なんと、桂春団治(皮田藤吉)が帰宅していた。
妻・東松トミが背負っていた長女・皮田ふみ子を下ろすと、桂春団治(皮田藤吉)は長女・皮田ふみ子を抱いて、「かんにんしてや。もうどこにも行かへんから」と謝った。
大正3年(1924年)12月3日、大阪府大阪市中央区道修町にある薬問屋「岩井松商店」の主人・岩井松之助が死去し、その妻「岩井志う(いわい・じゅう)」が未亡人となった。
薬問屋「岩井松商店」は富豪だったので、主人・岩井松之助の死後、岩井家の親族が口を出して、薬問屋「岩井松商店」はゴタゴタしていたらしい。
そこで、岩井家に出入りしていた髪結いの女性が、未亡人「岩井志う」を心配し、桂春団治(皮田藤吉)の落語でも見れば気分も晴れるだろうと思い、寄席に連れて行った。
すると、未亡人「岩井志う」は、桂春団治(皮田藤吉)の落語を聞いて気に入り、桂春団治(皮田藤吉)を贔屓にするようになった。
未亡人「岩井志う」は桂春団治(皮田藤吉)よりも9歳上だが、べっぴんさんで、お金も持っていた。
桂春団治(皮田藤吉)は自分の貧乏話を痛快に語り、「八方破れの春団治」として人気になっていたが、派手にお金を使うので、高座に上がる衣装が買えずに困っていた。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)は未亡人「岩井志う」に借金を申し込むと、未亡人「岩井志う」は気前良く、頼んだ額の30倍を貸してくれた。
さらに、翌日、呉服屋が来たので高座の着物3着を注文したが、呉服屋は代金を受け取らなかった。なんと、未亡人「岩井志う」が先に代金を払っていたのである。
驚いた桂春団治(皮田藤吉)は、こんな金ズルを他の芸人に取られてはいけないと言い、未亡人「岩井志う」をつなぎ止めておくため、東松トミを説得して、未亡人「岩井志う」と肉体関係に及んだ。
ところが、ミイラ取りがミイラになってしまい、桂春団治(皮田藤吉)は妻・東松トミと長女・皮田ふみ子を捨てて、未亡人「岩井志う」に走ってしまったのであった。
雪の降る夜、紅梅亭から帰宅した桂春団治(皮田藤吉)が、自宅で長女・皮田ふみ子と寝ていると、誰かが戸をドンドンと叩いたので、東松トミが出ると、未亡人「岩井志う」が立っていた。
未亡人「岩井志う」は、寝ている桂春団治(皮田藤吉)を見て、「お師匠はん(桂春団治)、あんた、どこの家で寝てはりますの?」と大きな声で怒った。
それを聞いた東松トミは、「お志うさん、あんた、何という事を言わはります。春団治が自分の家で子供と寝てるのに、どこで寝てるとは、何です。お父さん(桂春団治)は、なるほど芸人ですから、金で買えるでしょうが、親子の情は金では買えまへん」と怒り返した。
当の桂春団治(皮田藤吉)は、布団の中から東松トミに手を合わせ、「もう何も言うな」と願うばかりであった。
この事件が切っ掛けとなり、未亡人「岩井志う」は以降、正妻・東松トミに対する嫌がらせを開始したのである。
未亡人「岩井志う」は大金を持っており、桂春団治(皮田藤吉)のためなら、いくらでも金を使ったので、弟子や寄席の席主が未亡人「岩井志う」の味方をした。
このため、寄席で働くお茶子の着物をしててる仕事をしていた東松トミは、仕事を奪われたうえ、弟子からも「桂春団治(皮田藤吉)の出世のために離婚するべき」と迫られ、次々と外堀は埋まっていった。
東松トミは、数々の嫌がらせを受けたうえ、弟子と不倫していると誹謗中傷されても、桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子に会いたがるだろうと思い、酷い仕打ちにも耐え、離婚を拒否し続けていた。
ところが、桂春団治(皮田藤吉)に反感を持っている人たちが、ここぞとばかりに桂春団治(皮田藤吉)の人間性を誹謗中傷したので、東松トミは桂春団治(皮田藤吉)を守るため、大正6年6月14日に桂春団治(皮田藤吉)と離婚した。
すると、桂春団治(皮田藤吉)と未亡人「岩井志う」は、翌日の大正6年6月15日に結婚たのである。
未亡人「岩井志う」は、薬問屋「岩井松商店」とは関係なくなっていたが、岩井家から手切れ金をもらって分家しており、桂春団治(皮田藤吉)は岩井家の戸主となりって「岩井藤吉」となった。
そして、一連の騒動が新聞や週刊誌などに報じられており、大家の後家さんを射止めた桂春団治(皮田藤吉)は「後家殺し」として、「三友派」を代表する落語家へと出世した。
一方、東松トミは、手切れ金として300円を受け取ったので、週刊誌で「金で夫を売った」と批判されてしまった。
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桂春団治(皮田藤吉)は大家の「後家さん(未亡人)」を射止めたことから「後家殺し」として有名になり、落語の「三友派」を代表する人気落語家へと出世した。
そして、桂春団治(皮田藤吉)は未亡人「岩井志う」のお金を元手に、「浪速派」を発足したが、家族や郎党を率いて遊んで、高座をスッポカスので、客は寄りつかなくなる。
新しい妻「岩井志う」は、桂春団治(皮田藤吉)を盲目的に愛しており、桂春団治(皮田藤吉)のためなら、いくらでもお金を使ったので、岩井家から手切れ金として受け取った大金は、わずか3年で底を突き、多額の借金が残った。
このため、桂春団治(皮田藤吉)は大正9年(1920年)の正月に「浪速派」を解散し、九州地方へと巡業に出た。
そして、桂春団治(皮田藤吉)は、巡業から帰ってくると、吉本興行部(吉本興業)の創業者・吉本せい(林せい)に借金を肩代わりしてもらい、月給700円で吉本興行部の専属となった。
大正時代はサラリーマンの月給が40円程度で、1000円で家が建ったので、月給700円は相当な額である。
さて、東松トミは、長女・皮田ふみ子を引き取っていたので、桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子に会いたがるだろうと思い、離婚後も大阪に残り、悉皆屋(しっかいや/着物屋を染める仲介業)を始めていた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)は東松トミと道で会うと家に逃げ帰るような有様だったので、東松トミは呆れて京都へと帰った。
ところで、ヤクザ「丸音組」が京都の新京極の周辺を支配しており、ヤクザ「丸音組」の組長が永田音末だった。
そして、東松トミの姉が組長・永田音末と知り合いだった関係で、東松トミはヤクザ「丸音組」の組長・永田音末と出会った。
組長・永田音末には、妻「長岡まつ」が居たが、東松トミは組長・永田音末と良い仲になり、妾となって大正10年(1921年)7月14日に娘・永田清子を産んだ。
そして、東松トミが2人目を妊娠中の大正11年(1922年)6月10日に、組長・永田音末は妻「長岡まつ」と離婚した。
その後、東松トミは大正11年(1922年)8月24日に組長・永田音末の2人目の子・永田一雄を産み、大正12年(1923年)3月21日に組長・永田音末と正式に結婚した
組長・永田音末は前妻「長岡まつ」との間に3人の子供を儲けており、3人とも組長・永田音末が引き取った。
大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したため、昭和天皇は婚礼の儀を延期し、大正13年(1924年)1月25日に婚礼の儀が執り行われた。
それから3日後の大正13年1月28日に、東松トミが産んだ2人目の永田一雄が死去した。
それから4ヶ月後の大正13年5月31日から6月2日の間、宮中で昭和天皇の披露宴が行われ、日本中でお祭りが起きた。
そのようななか、大正13年6月3日に、京都の中島由之助が出した屋台と、組長・永田音末の舎弟・杉浦甚之助らが乗る自動車がもめ事を起こし、自動車側の人間が屋台側の人間を負傷させて逃げるという事件が発生した。
そこで、大正13年6月6日午前9時、中島由之助(屋台)側の人間7~8人が、杉浦甚之助の自宅へ殴り込みをかけようと様子を伺っていると、杉浦甚之助の自宅から、兄貴分の組長・永田音末が出て来た。
このため、中島由之助(屋台)側の人間は標的を変え、組長・永田音末を襲撃したのである。
組長・永田音末はステッキで応戦したが、体に7発の銃弾を浴びて倒れた。組長・永田音末は駆けつけた舎弟らによって革島病院へと運ばれたが、死亡した。
こうして、東松トミは大正13年(1924年)に、息子・永田一雄と組長・永田音末の相次いで失ってしまったのである。
一方、ヤクザ「丸音組」は組長・永田音末が射殺されたことで、ゴタゴタが起き、最終的に舎弟らは離散したようである。
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桂春団治(皮田藤吉)と未亡人「岩井志う」の間に子供は生まれなかったので、桂春団治(皮田藤吉)の子供は東松トミが産んだ長女・皮田ふみ子だけだった。
長女・皮田ふみ子は東松トミが引き取っており、東松トミが組長・永田音末と再婚した後も、桂春団治(皮田藤吉)はコソコソと長女・皮田ふみ子と会っていた。
しかし、組長・永田音末が死ぬと、もうコソコソと会う必要な無くなった。
ところで、桂春団治(皮田藤吉)は、曾我廼家五郎が若い妾を連れているのを見て、羨ましく思い、自分も妾が欲しくなった。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)は、大阪の南区新町砂場に掘り出し物の旅館があるので、客を世話するから、旅館をやらないかと言い、東松トミに旅館経営を勧めた。
東松トミは、組長・永田音末と結婚していたとき、旅館「永富」を経営していたので、旅館経営の経験はあったし、組長・永田音末が死んだ後、ヤクザ「丸音組」がゴタゴタとしていたので、嫌気が差していた。
そこで、東松トミは、いまさら妾にはなれないが、兄弟分ならということで、桂春団治(皮田藤吉)の提案を承諾した。
こうして、東松トミは桔梗屋の紹介で、1600円で大阪の南区新町砂場にある旅館を買って旅館を始めた。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)が世話する客は、お金にならない客ばかりだったうえ、過去の離婚騒動なども知っている人ばかりなので、東松トミは直ぐに旅館を買い戻してもらい、京都へと帰った。
ところで、東松トミが旅館を買った値段が1600円で、売った値段が600円だった。
この差額1000円は桂春団治(皮田藤吉)の懐に入っており、桂春団治(皮田藤吉)は差額1000円で、関東大震災の時に東京から大阪へ来た芸子を妾にしたのであった。
昭和元年(1926年)12月、桂春団治(皮田藤吉)の姉アイから「ハルノコトスグコイ」という電報があり、東松トミは何事かと思い、桂春団治(皮田藤吉)の家へと駆けつけた。
すると、桂春団治(皮田藤吉)はレーコード会社と二重契約をして、レコード会社「コロムビア」から2000円を請求されていたが、払えないので差し押さえを受けていたのである。
桂春団治(皮田藤吉)は、給料は増えれば、借金も増えるという有様で、お金が無くなれば、アルバイトがてらにレコードを吹き込んでいたのだが、二重契約を起こしてしまったのである。
妻の「岩井志う」も大家の「ごりょんさん」だったため、使う一方で、お金の事はサッパリで、銭算段の出来る者が居なかった。
そこで、桂春団治(皮田藤吉)の姉・皮田アイが、前妻の東松トミに助けを求めたという次第である。
東松トミの顔を見た桂春団治(皮田藤吉)は、「何をしに来たんや。銭のことなら、あらかた片付いたで」と言うが、全く何も解決していなかった。
呆れた東松トミは、妾と桂春団治(皮田藤吉)の着物を集めて質屋に持って行き、700円を借りた。
後妻「岩井志う」は遺恨があるので着物を出さなかったのか、既に全て売り払っていたのか分からないが、着物を出さなかった。
しかし、700円では足りないので、残りの1300円は東松トミが用意し、2000円を作ってコロムビアへ支払い、騒動を治めた。
これ以降、東松トミは、ときどき、借金の清算をしにきたり、桂春団治(皮田藤吉)の弟子達に着物を作ったりして面倒を見た。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)の姉・皮田アイが、藤本藤吉(後妻「岩井志う」の実弟)が死去したので葬儀を出して欲しいと頼んできたときは、流石の東松トミも呆れてキッパリと断った。
吉本興行部は昭和に入って普及し始めたラジオを警戒しており、所属する芸人に無断でのラジオ出演を禁止し、ラジオ出演を許可制しにして、所属芸人から念書を取った。
しかし、桂春団治(皮田藤吉)は昭和5年(1930年)12月、大阪放送局(JOBK)から半年分の出演料として2040円を受け取り、吉本興行部に無断で大阪放送局(JOBK)に出演し、落語「祝い酒」を語ったのである。
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怒った吉本興行部は、契約違反として桂春団治(皮田藤吉)に借金の一括返済を求めたが、桂春団治(皮田藤吉)は返せないので、吉本興行部は差し押さえを行った。
執行官が差し押さえの紙を貼ると、桂春団治(皮田藤吉)は差し押さえの紙を1枚剥がして、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか」と言い、自分の口に貼り付けた。
これが翌日の新聞に大きく取り上げ上げられ、話題となり、ラジオを聞いた人が寄席へ詰めかけた。
吉本興行部は桂春団治(皮田藤吉)を追放しようとしていたが、寄席に詰めかけた、桂春団治(皮田藤吉)を高座に上げねば、暴動でも起こしそうな勢いだったので、桂春団治(皮田藤吉)をお金で吉本に縛り付けることにした。
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数々のスキャンダルを起こし、スキャンダルの度に人気を上げていった桂春団治(皮田藤吉)だったが、昭和5年12月のラジオ事件が最後のスキャンダルとなった。
桂春団治(皮田藤吉)は昭和6年ごろから、体調が悪化したため、仕事に出る数が減り、収入が激減し、妾も失った。
そのようななか、昭和9年3月、桂春団治(皮田藤吉)は胃癌が見つかり、日本赤十字病院に入院した。
東松トミは見舞いにも行かなかったが、長女・皮田ふみ子が看病に行っており、長女・皮田ふみ子が電話を掛けてきて、桂春団治(皮田藤吉)に輸血をしても良いか尋ねてきた。
すると、東松トミは、桂春団治(皮田藤吉)に捨てられたときの苦労を語り、「私が血をやれとは言えない。ふみ子が自分の気持ちで血をやるのなら、それは仕方が無い。私は到底、許す気になれぬ」と告げた。
このため、長女・皮田ふみ子は自分の意思で桂春団治(皮田藤吉)に輸血したが、長女・皮田ふみ子が京都に帰るとき、皮田家は誰も供を付けずに、長女・皮田ふみ子を1人で帰らせたので、東松トミは皮田家の仕打ちに激怒した。
桂春団治(皮田藤吉)は日本赤十字病院で胃癌の手術を受けたが、既に手遅れで、昭和9年(1934年)7月に退院し、昭和9年10月6日に死去した。享57だった。
東松トミは、組長・永田音末との間に生まれた娘・永田清子の看病があったので、桂春団治(皮田藤吉)の葬儀には出ず、長女・皮田ふみ子が葬儀に出た。
桂春団治(皮田藤吉)には葬儀を出す金も無く、莫大な借金だけが残っており、葬儀は吉本興行部(吉本興業)によって行われたので、長女・皮田ふみ子は実子だったが、焼香の順番は7番目という扱いだった。
桂春団治(皮田藤吉)は一番可愛がっていた弟子・桂小春団治に「春団治」の名前を襲名させたかったが、吉本興行部に借金があったため、吉本興行部の意向により、桂福団治が桂春団治(皮田藤吉)の借金を引き継ぐ事を条件に、「春団治」を襲名した。
一方、東松トミは、京都で肉料理屋「いろは」の仲居をしながら、桂春団治(皮田藤吉)との間に生まれた長女・皮田ふみ子、組長・永田音末との間に生まれた娘・永田清子、組長・永田音末の連れ子とともに暮らした。
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