なつぞら-角筈屋書店(つのはずや)のモデルは紀伊國屋

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する本屋「角筈屋書店(つのはずやしょてん)」の実在のモデルを紹介します。

角筈屋書店のモデルは紀伊国屋書店

朝ドラ「なつぞら」に登場する「角筈屋書店」のモデルは、東京新宿の本屋「紀伊国屋書店」(正確な表記は紀伊國屋書店)です。

紀伊国屋書店の創業者・田辺茂一は、紀州・徳川家に仕えた足軽の家系である。足軽だった初代・紀伊国屋茂八が江戸勤務となり、江戸に出てきたのが、田辺家の始まり。

さて、田辺家は代々、紀伊国屋茂八を襲名していたが、乾物屋を始めた5代目が田辺姓を名乗り、田辺茂八と名乗った。

そして、6代目も田辺茂八を名乗り、6代目が新宿に出てきて木材問屋を始めた。

しかし、7代目は「茂八」を襲名せず、田辺鉄太郎を名乗り、薪炭商「紀伊国屋」を始めた。

一般的に「紀伊国屋書店」は「炭屋」だったと言われるが、正確には「薪炭商(しんたんしょう)」と言い、薪や炭など燃料になるものを販売していた。

薪炭商というには、薪や炭など燃料になるものを販売する仕事である。明治40年(1907年)に電話があったというので、かなり裕福だったようである。

薪炭商「紀伊国屋」は繁盛していたのだが、8代目の田辺茂一は薪炭商「紀伊国屋」を継がずに薪炭商「紀伊国屋」の隣で、昭和2年(1927年)1月に本屋「紀伊国屋書店」を創業した。

しかし、東京雑誌組合は既存店を保護する目的で距離規制を設けており、この距離規制のせいで、「紀伊国屋書店」は売り上げの主力である雑誌を扱うことが出来なかった。

そこで、田辺茂一は、普通の書店では売っていない、左翼系の同人誌や文芸誌、インテリ向けの文学書や学術書を販売した。すると、多くの文化人が「紀伊国屋書店」に集まるようになった。

「紀伊国屋書店」は2階がギャラリーになっており、絵画展を開催したり、美術評論誌や文芸同人誌を発行したが、経営は上手くいっていなかった。

東京大空襲で「紀伊国屋書店」も薪炭商「紀伊国屋」も焼失したため、戦後、田辺茂一は本屋を廃業しようとした。

しかし、復員した元店員が「戦地でも紀伊國屋の話が出た。辞めては惜しい」と言うと、田辺茂一は感動して「紀伊国屋書店」の再建を決意した。

そして、田辺茂一は昭和20年(1945年)12月にバラック小屋で「紀伊国屋書店」を再開し、昭和21年1月に「株式会社・紀伊国屋書店」を設立して社長に就任。昭和22年5月に木造2階建ての店舗を新築した。

昭和25年(1950年)に松原治を迎え入れてからは、松原治が「紀伊国屋書店」の経営にあたり、経営は安定した。社長の田辺茂一は松原治に経営を任せて飲み歩き、芸能人や文化人と交流を深め、「夜の市長」と呼ばれるようになった。

「紀伊国屋書店」が地上9階・地下2階のビルになったのは昭和39年(1964年)のことなので、おそらく、朝ドラ「なつぞら」の「角筈屋書店」は昭和22年に建てられた木造2階建ての店舗だと思われる。

また、朝ドラ「なつぞら」で、「角筈屋書店」の向かいにパン屋「川村屋」があるのも史実と同じである。

朝ドラ「なつぞら」に登場するパン屋「川村屋」のモデルは、東京・新宿のパン屋「中村屋」で、明治40年(1907年)、田辺茂一が子供のときにパン屋「中村屋」が薪炭商「紀伊国屋」の向かいに店舗を出し、大通りを隔ててお向かいさんになった。

このころ、田辺茂一の家には電話があり、パン屋「川村屋」には電話が無かったので、田辺家にパン屋「川村屋」宛ての電話がかかってきていた。

田辺茂一はパン屋「川村屋」宛ての電話を受けると、パン屋「川村屋」に向かって手を挙げて大声で叫んだ。

すると、パン屋「川村屋」の相馬黒光が電話を借りに来たというエピソードが残っている。

なお、朝ドラ「なつぞら」に関するモデルは「なつぞら-実在のモデル」をご覧ください。

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