NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する「鶴亀家庭劇」と「鶴亀新喜劇」のモデルを解説します。
朝ドラ「おちょやん」に登場する「鶴亀家庭劇」のモデルは「松竹家庭劇」で、鶴亀新喜劇のモデルは「松竹新喜劇」である。
新喜劇と言っても、「吉本新喜劇」しか知らないという人も居ると思うので、喜劇の歴史から「松竹家庭劇」や「松竹新喜劇」の流れを簡単に解説する。
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明治時代の演劇は、江戸時代からの流れで、「俄(にわか/仁輪加)」と呼ばれる即興劇が主流だった。
そのようななか、松竹の曾我廼家十郎と曾我廼家五郎が明治37年2月に、大阪・道頓堀の浪花座で、喜劇団「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げした。
この「曾我廼家兄弟劇」が日本初の喜劇だとされる。このとき、既に「新喜劇」という名前が使用されていた。
「曾我廼家兄弟劇」がヒットしたことにより、続々と喜劇団が現われるようになり、日本に喜劇という流れた起きた。
そのようななか、松竹は、「曾我廼家兄弟劇」の独走をよしとせず、「曾我廼家兄弟劇」と競わせるため、初代・渋谷天外と中島楽翁を支援して、明治41年10月に「楽天会」を旗揚げさせた。
「楽天会」は「曾我廼家兄弟劇」をしのぐ人気となるが、看板役者の初代・渋谷天外や中島楽翁が死ぬと、「楽天会」は低迷を続け、大正11年に解散した。
一方、「曾我廼家兄弟劇」は、大正4年に曾我廼家十郎と曾我廼家五郎が別れて、「曾我廼家十郎一座」と「曾我廼家五郎一座」に分裂した。
「曾我廼家五郎一座」はその後、「平民劇団」を経て「曾我廼家五郎劇」と改称した。
大正14年に曾我廼家十郎が死去すると、曾我廼家五郎が喜劇王として喜劇界に君臨するが、松竹は独走をよしとせず、「曾我廼家五郎劇」と競わせるため、曾我廼家十吾と2代目・渋谷天外を支援して昭和3年に「松竹家庭劇」を旗揚げさせた。
紆余曲折を経て松竹の舞台に立っていた女優・浪花千栄子は、喜劇が大嫌いだったが、昭和3年から助っ人として「松竹家庭劇」の舞台に立ち、昭和5年に「松竹家庭劇」へ配属された。
この「松竹家庭劇」が、朝ドラ「おちょやん」に登場する「鶴亀家庭劇」のモデルである。
「松竹家庭劇」は昭和6年9月に解散するが、松竹の主導で昭和7年5月に第2次「松竹家庭劇」として再発足した。
「松竹家庭劇」は昭和11年に東京進出を果たし、昭和13年からは定期的に東京でも公演するようになるのだった。
戦後の昭和21年5月、2代目・渋谷天外は、座長・曾我廼家十吾との対立から、妻・浪花千栄子などを率いて「松竹家庭劇」を脱退し、劇団「すいーと・ほーむ」を旗揚げして旅巡業に出た。
その後、座長・曾我廼家十吾が病気になったため、「松竹家庭劇」は自然消滅してしまうのだった。
病気から復帰した曾我廼家十吾は、病気の曾我廼家五郎を助けるため、「曾我廼家五郎一座」に入ったが、昭和23年11月に座長の曾我廼家五郎が死去してしまう。
そこで、松竹は旅巡業に出ている2代目・渋谷天外らを呼び戻し、「曾我廼家五郎一座」の主要メンバーに「松竹家庭劇」と2代目・渋谷天外らを加えて、昭和23年12月に「松竹新喜劇」を旗揚げした。
この「松竹新喜劇」が朝ドラ「おちょやん」に登場する「鶴亀新喜劇」のモデルである。
「松竹新喜劇」の座長はアドリブ王の曾我廼家十吾が務めたが、次第に実権は2代目・渋谷天外に移っていった。
「松竹新喜劇」は赤字が続いていたが、五郎劇系の女形が赤字運営に見切りを付けて辞めていくと、「松竹家庭劇」は活気づいて赤字を脱却し、起動に乗り始めた。
そのようななか、看板女優として活躍していた女優・浪花千栄子が、2代目・渋谷天外と離婚し、昭和26年4月に「松竹新喜劇」を退団する。
原因は2代目・渋谷天外の不倫だった。2代目・渋谷天外は、浪花千栄子の可愛がっていた弟子・九重京子(渋谷喜久栄)を愛人にして、長男・渋谷成男を産ませたのである。
浪花千栄子の退団は「松竹新喜劇」に取って大きな痛手となったが、その直後に、2代目・渋谷天外の手がけた「桂春団治」が大ヒットさせ、昭和27年に東京進出を果たした。
東京松竹との方針の違いもあるが、劇団員は昭和28年ごろから、ようやく人並みの生活が出来るようになった。
さて、2代目・渋谷天外は「桂春団治」のヒットにより、原作を使った文芸路線を強めていくのだが、それはアドリブを得意とした曾我廼家十吾との溝を深めていくことになった。
やがて、曾我廼家十吾は映画撮影を切っ掛けに爆発させ、昭和31年4月に「松竹新喜劇」を退団し、昭和32年8月に第3次「松竹家庭劇」を旗揚げしたが、芝居が時代遅れだったので当たらず、昭和40年(1965年)7月に解散した。
一方、2代目・渋谷天外は、昭和39年10月に「松竹新喜劇」を株式会社化して松竹から独立し、常務取締役に就任するが、激務が祟って昭和40年9月に脳出血を起こして倒れてしまう。
2代目・渋谷天外は入院中に社長に就任するが、看板役者・藤山寛美の借金問題と暴力団交際問題が発覚し、専務・勝忠男が藤山寛美を解雇するという事態に発展した。
藤山寛美が抜けた「松竹新喜劇」は赤字に陥り、藤山寛美の復帰を巡る対立から、専務・勝忠男が会社を辞めた。
そこで、2代目・渋谷天外は会社を解散して、松竹の劇団「松竹新喜劇」へと戻し、劇団を再出発させた。
こうして、藤山寛美は「松竹新喜劇」へと復帰すると、世間は藤山寛美を歓迎し、「松竹新喜劇」の人気は復活した。
その後、2代目・渋谷天外は体に麻痺を残しながらも舞台に復帰するが、もう時代は藤山寛美の時代になっていた。
さて、藤山寛美は借金を肩代わりしてくれた松竹に借金を返済するため、無休で働き、昭和41年から昭和62年まで、244ヶ月間(約20年)の無休連続公演を行った。
しかし、不満を募らせた曾我廼家鶴蝶・小島秀哉らが昭和52年に「松竹新喜劇」を退団して打撃を受け、人気は低迷していた。
藤山寛美は無休連続公演などの無理が祟ったのか、平成2年(1990年)5月21日に死去。藤山寛美は後継者を育成していなかったこともあり、「松竹新喜劇」は解散した。
しかし、休団していた渋谷天笑(2代目・渋谷天外の次男・渋谷喜作)が平成2年7月に行われた藤山寛美の追悼公演で舞台復帰しており、渋谷天笑を座長に、曾我廼家文童・酒井光子・小島慶四郎・高田次郎などが集まり、平成3年1月に「新生松竹新喜劇」を旗揚げした。
平成4年に渋谷天笑が「3代目・渋谷天外」を襲名。現在は「新生」が外れて「松竹新喜劇」となっているが、吉本興業の「吉本新喜劇」の台頭もあり、全盛期の勢いは無い。
なお、昭和34年3月に発足した吉本興業の「吉本新喜劇」は、落語や漫才の間に出す演目の1つとして、「笑いを取るために手段を選ぶな」という方針で、ストーリーのシンプルなドタバタ劇を演じ、関西に新たらしい笑いの文化を築いた。
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