石津謙介の立志伝-VAN(ヴァンヂャケット)の創業者と倒産

メンズファッションブランド「VAN(ヴァンヂャケット)」の創業者・石津謙介の立志伝の後編です。

VAN(ヴァンヂャケット)を設立するまでの前編は「VAN(ヴァンヂャケット)の創業者・石津謙介の立志伝」をご覧ください。

ヴァンヂャケットの設立

佐々木営業部(レナウン)を円満退社した石津謙介は、退職金代わりにもらったバラックにミシンを持ち込み、昭和26年(1951年)4月に石津商店を設立した。

しかし、石津謙介は「石津商店」ではイメージに合わないと思い、新しい名前を思案していたとき、既に廃刊になった風刺雑誌「VAN」の事を知る。

風刺雑誌「VAN」は、戦後の昭和21年(1946年)に創刊した風刺雑誌で、戦後に大量発生した粗悪なカリスト雑誌とは一線を画す高級風刺雑誌として、若かりし手塚治虫などにも影響を与えた。

しかし、昭和24年(1949年)に関連会社の経営が悪化したことから、風刺雑誌「VAN」は廃刊に追い込まれた。その後、編集長・伊藤逸平が復刊させたものの、復刊後わずか2号で再び廃刊となり、風刺雑誌「VAN」は消滅していた。

新しい名前を考えていた石津謙介は、廃刊になった風刺雑誌「VAN」の事をしり、兄・石津良介を通じて、風刺雑誌「VAN」の編集長・伊藤逸平に「VAN」の使用を申し込んだ。

すると、編集長・伊藤逸平は快く使用を許可してくれたので、石津謙介は石津商店を設立から3ヶ月後の昭和26年(1951年)7月に「有限会社ヴァンヂャケット」を設立し、ファッションブランド「VAN」が誕生した。

ただし、初期のVANは中高年向け高級服であり、VANの代名詞となるアイビールックを手がけるのはもう少し後になってからである。

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信欣三との再会

石津謙介が東京へ出張したとき、貼ってあったポスターに俳優・信欣三の名前を見つけ、俳優・信欣三に会いに行った。信欣三は中国の天津で知り合い、意気投合した二等兵である。

これがきっかけで、俳優・信欣三は大阪に来ると、俳優仲間を連れて石津謙介の家に遊びに来るようになり、俳優がVANの服を買っていった。

「買った」と言っても「出世払い」でお金にはならなかったが、俳優がVANの服を着たことが良い宣伝となってVANは有名になっていった。

ファッション誌「男の服装」

このころ、テーラー向けの業界誌「男子専科」は販売されていたが、一般向けの男性専門ファッション雑誌は販売されていなかった。せいぜい、婦人雑誌の一部に男性ファッションを扱う程度だった。

そこで、婦人雑誌「婦人画報」の熊井戸立雄は、「婦人画報」の男性版をやろうと考え、執筆者を探していた。

このとき、熊井戸立雄は、百貨店の担当者から「大阪に石津という面白い男がVANというのをやっている」という話を聞きつけ、VANを尋ねてきた。

石津謙介と熊井戸立雄は飲み明かして意気投合し、石津謙介が執筆に加わり、昭和29年(1954年)に日本初の一般向け男性ファッション誌「男の服装」(後のメンズ・クラブ)が誕生した。

初版3万5000部のうち半分は石津謙介が買い取っており、男性ファッション誌「男の服装」の半分はVANの広告のようなもので、「男の服装」のおかげでVANは売れていった。

こうして、中高年向け高級服「VAN」は軌道に乗り、昭和30年(1955年)7月29日に「株式会社ヴァンヂャケット」へと改組し、東京へ進出を果たしたのである。

みゆき族の親玉

これまで「VAN」は中高年向けのブランドだったが、昭和31年(1956年)から若者向けファッションの展開を開始し、昭和32年(1957年)からアイビールックとしての「VAN」が始まる。

そして、石津謙介は、昭和34年(1959年)の世界視察旅行で、アメリカのプリンストン大学で見たお洒落な学生に触発され、アイビースーツを発売し、アイビールックを主力とする若者向けファッションメーカーへと転換した。

ところで、昭和34年頃から、東京・銀座の「みゆき通り」に若者達があつまるようになった。後に「みゆき族」と呼ばれるようになる集団である。

そして、昭和39年(1964年)4月に創刊した大衆紙「平凡パンチ」によって、アイビールックは爆発的な人気を集め、銀座の「みゆき族」は社会現象となった。

みゆき族はアイビールックを着崩して、麻袋や「VAN」や「JUN」の紙袋を持ち、何をするでも無く、ただ銀座をウロウロと歩き回り、疲れたら道端にしゃがみ込んでいた。

「みゆき族」は大人の街「銀座」には似合わな存在であり、いわば「銀座の乞食」だった。銀座の大人は「みゆき族」に迷惑していた。

「みゆき族」は主に中学生・高校生だったので、当初は土曜日・日曜日に集まる程度だったが、大衆紙「平凡パンチ」の影響もあり、昭和39年(1964年)の夏休みに入ると大量の「みゆき族」が銀座の「みゆき通り」に出没するようになった。

このため、迷惑していた銀座の店主らの怒りは頂点に達し、警察に「営業妨害だ」と苦情を出した。

「みゆき族」はアイビールックに「VAN」の紙袋を所持していた事から、石津謙介が「みゆき族」の教祖だと考えられており、石津謙介は警察に呼ばれるという事態に発展した。

そこで、石津謙介は「アイビー大集合」というイベントを企画し、「来場者にはVANの紙袋をプレゼント」と書いたポスターを配り、「みゆき族」を集めた。

そして、石津謙介はスライドを交え、「アイビールックの思想は紳士であり、君達のような流行ではない」と言い、アイビールックの本質を解いた。

一方、警察は東京オリンピックを控えていたことから、昭和39年(1964年)9月に「みゆき族」の一斉摘発に乗り出した。

昭和40年(1965年)にも、石津謙介によるイベントと警察の摘発が行われ、社会現象としての「みゆき族」は昭和40年に消滅した。

なお、アイビールックを着崩した「みゆき族」から、本格的アイビールックへ進化した中高生も居り、数多くのVAN信者が生まれた。

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東京オリンピックの赤いジャケット

東京オリンピックと言えば、選手が着た赤いジャケットが印象的で、石津謙介が東京オリンピックの制服をデザインしたとされてきた。

しかし、東京オリンピックの制服を担当したのは、望月靖之だった。望月靖之はデザイナーではなく、東京・神田の洋品店の店主だった。

石津謙介がオリンピック組織委員会にデザイナーとして参加したとき、既に制服の担当は望月靖之に決まっていたため、石津謙介は東京オリンピックのニュにフォームは担当できず、スタッフのユニフォームを担当した。

TPOを考案

石津謙介は、「ファッションは女性のもの」というのが当然だった時代に、アイビールックを導入して「男性のファッション」を定着させた。

また、日本にドレスコードという習慣が無かった時代に、英語の「5W1H」を元に、「TPO」という造語を考案し、TPOを提唱した。

「TPO」は、「Time(時間)」「Place(場所)」「Occasion(場合)」の頭文字を取った造語である。

そして、石津謙介は「いつ・どこで・何を着る?」を出版した。「いつ・どこで・何を着る?」はベストセラーとなり、各企業が社員教育に使用した。

さらに、石津謙介は、数々のファッション用語などを考案して、日本のファッション界や各種企業に大きな影響を与え、「メンズファッションの神様」と呼ばれ、昭和43年(1968年)には日本メンズファッション協会の2代目会長に就任した。

ヴァンヂャケットは会社から企業へ

株式会社ヴァンヂャケットは、小さな会社であり、社員は学歴など関係無く、センスで採用した。縁故採用も多かった。社員は3年契約で、海外出張も自由だった。

社長の石津謙介が、1日だけ働いて残りの29日は遊んで暮らすという働き方があっても良い考えていたので、社員は自由に延び延びと仕事をしていた。

しかし、昭和40年代に入ると、石津謙介は、一般採用を開始し、ヴァンヂャケットは企業としての体裁を整え始めた。

昭和40年には15人採用だったのが、昭和42年には150人を採用し、次々と社員を増やしていった。ソニーの社長・大賀典雄が「そんなに採用して大丈夫か?」と忠告した程だった。

そうした一方で、石津謙介は、野球部などではなく、珍しい部を作れと命じ、スカイダイビング部・シンクロナイズドスイミング部・アーチェリー部・ゴーカート部など、他には無いような部を作った。

元レーサーで自動車評論家の徳大寺有恒や式場壮吉も、ヴァンヂャケットが育てた。

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丸紅支配と商社体制

昭和43年(1968年)、業績を拡大し続けていたヴァンヂャケットは、アメリカのファッションの流行「ピーコック革命」の影響を受けて、色とりどりのカジュアルウエアを生産したが、若者に受け入れられず、在庫を福袋に詰めて処分した。

ちょど、このころ、学生運動の影響で、若者の間では「ゲバ棒」「ヘルメット」「Tシャツ」「ジーンズ」というカジュアルなゲバルト・ファッションが流行し、ファッション業界は時代の節目を迎えていた。

そのようななか、昭和43年(1968年)12月、週刊新潮が石津一家の浪費と散漫経営を糾弾する記事を書いた。

ところで、ヴァンヂャケットは毎年、2月から5月の間に運転資金を借り入れ、10月から12月にかけて全額返済しており、借金を抱えたまま年をまたぐことはないという優良企業だった。

ところが、週刊新潮の糾弾記事を読んだメーンバンクの三和銀行(三菱東京UFJ銀行)は、昭和44年(1969年)1月にヴァンヂャケットに対する融資を停止を通告したのである。

驚いた石津謙介は取引先の総合商社「丸紅」に融資を求めると、丸紅は二つ返事で3億5000万円を貸してくれた。

このとき、石津謙介は社員の動揺を招いてはいけないと考え、丸紅からの融資は秘密裏に行われたのだが、どこからか情報が漏れ、世間にヴァンヂャケット倒産の噂が流れた。

このようななか、ヴァンヂャケット社員会の会長・岡野興夫は、反対勢力をはねのけ、社員旅行を主張した。

社長の石津謙介も、丸紅に金を借りているてまえ、宴会などしてうつつを抜かしていては示しが付かないと反対したが、社員会の会長・岡野興夫は「社員はそんなことを知らないんですよ。それよりも一致団結して早く借金を返すべきです。どんなことがあっても、社員旅行は社員会としてやります」と社員旅行を断行した。

石津謙介は「お前みたいな生意気な奴は顔も見たくない。もう来なくて言い」と激怒していたが、社員旅行で最も楽しんだのは「宴会部長」の異名を取る石津謙介だった。

石津謙介は、社員旅行が終わると、社員会の会長・岡野興夫に「ありがとう。あんな楽しい社員旅行はなかったよ」と礼を言ったのである。

ところで、総合商社「丸紅」は、ヴァンヂャケットの規模から、5年で返済できるだろうと考えていたのだが、石津謙介は昭和44年(1969年)の秋物・冬物衣料の売り上げで、丸紅からの借入金を全額返済した。

つまり、石津謙介は昭和44年の頭に借りた3億5000万円を、昭和44年9月・10月・11月・12月のわずか4ヶ月で全額返済してしまったのである。

これに驚いた丸紅は、ヴァンヂャケットを傘下に収めるべく、触手を伸ばし始めた。

石津謙介は丸紅の支配に対向するため、三菱商事の資本を受け入れ、さらには伊藤忠商事の資本を受け入れた。

こうして、ヴァンヂャケットは、丸紅・三菱商事・伊藤忠商事の資本を受け入れたことにより、3社から出向社員を受け入れ、商社体制時代を迎えることなった。

ところで、石津謙介は、「アイビーの神様」「アイビーの教祖」と呼ばれているが、ヨーロッパ文化が好きで、アメリカ文化は嫌いだった。アイビーというアメリカ文化を商売に利用しているだけだった。

このため、商社体制時代を迎えて自由度を失っていくと、石津謙介は急速にヴァンヂャケットから心が離れていくのであった。

レナウンとの業務提携

さて、兄貴分の尾上清は、ブランド名「レナウン」を前面に押し出し、社名を「佐々木営業部」→「レナウン商事」→「レナウン」へと変更していた。

そして、尾上清は、テレビCMに着目し、CM「レナウン娘」を放送したほか、全国に販売網を形成し、メリヤス問屋から一流のアパレルメーカーへと成長させ、昭和44年(1969年)には一部上場を果たしていた。

ところで、VANは若者から絶大な人気を誇るメンズ・ファッション・ブランドだったが、あくまでもヤングアダルト向けであり、アダルト層はカバーしていなかった。

このころ、第1次ベビーブームで生まれた子供が成人しており、VANを卒業するのだが、その受け皿となるような紳士服ブランドが無く、紳士服は空白地帯となっていた。

そこで、レナウンの尾上清は、紳士服に進出するため、VANの石津謙介に業務提携を持ちかけた。

ところが、VANの石津謙介は「VANは企画には自信があるが、縫製には自信が無い。レナウンがその気になれば、ウチよりも良い人材を集められる」と言い、尾上清の申し出を辞退した。

VANの石津謙介が、兄貴分・尾上清の業務提携の申し出を断った理由は分からない。

さて、VANの石津謙介に業務提携を断られた尾上清は、大阪の高級紳士服メーカー「ニシキ」と業務提携し、昭和45年(1970年)に紳士服ブランド「ダーバン」を設立した。

この紳士服ブランド「ダーバン」は、フランスの俳優アラン・ドロンを起用したCMで絶大なる人気を誇り、日本一の紳士服ブランドへと成長した。

子会社の設立

石津謙介は、商社体制時代を迎えたことにより、急速にヴァンヂャケットから心が離れていき、子会社設立に注力していた。

石津謙介は元社員・保科を支援して、昭和44年(1969年)10月に家具販売会社「アルフレックス・ジャパン」を設立して、インテリア業界に参入した。

昭和46年(1971年)10月には、三菱商事と東洋紡の資本参加を受けて、大川照雄を社長とするジーンズ部門「ラングラー・ジャパン」を設立した。

石津謙介は、昭和47年(1972年)に丸紅と鐘紡の資本参加を受けて、高木一憲(高木一雄)を社長とする小売店「ショップ・エンド・ショップス」を設立した。

こうして設立した子会社は利益を上げていくが、創業メンバーの大川照雄と高木一憲(高木一雄)が子会社の社長として出向したことにより、ヴァンヂャケットの首脳陣は厚みを失ってしまったのである。

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バーゲンブランドのVAN

ヴァンヂャケットは商社体制下で大量生産を続けて拡大路線を取り、毎年、売上げを伸ばしていった。昭和46年(1971年)は年商97億円だったが、昭和50年(1975年)には年商452億円を記録した。

しかし、ヴァンヂャケットは、大量生産の影響で、在庫を積み増していき、在庫の処分に苦しむようになった。

また、会社から企業へと発展したことにより、社員は自由度を失い、不満を募らせていった。その不満は、社長である石津謙介に向けられた。

このようななか、昭和48年(1973年)に第1次オイルショックを迎え、繊維業界は苦しんだ。

ヴァンヂャケットは第1次オイルショックの中でも売上げを伸ばしたが、増産の影響で、大量の在庫を抱えてしまった。

もう、年に2回行われる通常のバーゲンセールでは在庫を処分することが出来なくなり、第1次オイルショックを切っ掛けに、頻繁にバーゲンセールを行うようになった。

こうして、VANは、若者が憧れるブランドから、二束三文のバーゲンセールの常連ブランドへと転落したのである。

あまりにも頻繁にバーゲンセールを行うので、ヴァンヂャケットの倒産が噂される程だった。

VANの上場を阻止

昭和49年(1974年)、ヴァンヂャケットに株式上場の話が持ち上がっていた。

しかし、社長の石津謙介は「会社の利益は全て社員に還元する」という方針だったので、株式上場を頑として拒否し、株式上場を阻止した。

証券会社の人間は、石津謙介を「駄々をこねる子供のようだ」と非難したが、後に石津謙介は、株式上場しなかったことは正解だったと語っている。

VANの暴走

第1次オイルショックの中でも黒字を確保したヴァンヂャケットは、拡大路線を突き進み、昭和50年(1975年)2月に年商450億円を記録したが、増産の影響で140億円分の在庫を抱え、創業以来初となる赤字に転落してしまった。

ところが、ヴァンヂャケットは赤字に転落したものの、経常利益は黒字を確保していたことから、「年商1000億円構想」「1都市1営業所構想」などの戦略を打ち出し、強気に討って出た。もはやヴァンヂャケットは暴走していた。

一方、不満を爆発させた社員が、昭和49年(1974年)に労働組合を結成しており、ヴァンヂャケットはクリエイティブでも楽しい会社もなくなっていた。

さらに、昭和50年(1975年)7月、白血病の治療を続けていた三男・石津啓介が死去し、石津謙介は大きなショックを受ける。

この年、石津謙介は、社長のまま、副社長の長男・石津祥助に経営権を譲り、会社の経営から身を引いた。

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丸紅ショックとVANの倒産

昭和51年(1976年)、拡大路線を突き進むヴァンヂャケットに激震が走った。

ヴァンヂャケットの経営母体の一角を占める丸紅の社長・檜山廣が、田中角栄のロッキード事件に連座して、逮捕されたのだ。世に言う「丸紅ルート」である。

ヴァンヂャケットは「丸紅ショック」を受け、経営権を持つ副社長の長男・石津祥助が、代表権の無い専務へと降格。商社からの出向組も降格した。

そして、石津謙介は丸紅・三菱商事・伊藤忠商事・鐘紡の支援グループに支援をして、丸紅の根川博がヴァンヂャケットが副社長に就任した。

こうして、ヴァンヂャケットは、不動産の処分を開始するが、暖冬の影響で昭和52年(1977年)に売上が330億円に落ち込み、90億円の赤字を計上した。

このため、社長の石津謙介は会長に退き、丸紅の佐脇鷹平が社長に就任して丸紅時代を迎えた。

しかし、もう手遅れだった。ヴァンヂャケットは、大量の在庫を抱えていた。社内で2つの動労組合が対立しており、労使の対立などでボロボロだった。支援グループである丸紅と三菱商事の間でも対立があった。

このようななか、ヴァンヂャケットは、リストラを開始したが、暖冬の影響で冬物衣料が伸びず、昭和53年(1978年)4月6日に社長・佐脇鷹平が東京地裁に会社更生法の適用を申請した。

負債総額は500億円、当時のアパレル業界としては最大の倒産で、戦後の大型倒産としては5番目の規模だった。

石津謙介は会長だが、蚊帳の外に置かれており、倒産後、1度だけ団体交渉の場に出たが、「お前」と呼ばれたことに腹を立て、その後は団体交渉にも出なかった。

その後、石津謙介が知らないところで、石津謙介を社長とする再建案が提出された。この再建案は裁判所に認められたが、丸紅・三菱商事などに否決された。

結局、丸紅・三菱商事・労働組合が泥沼の争いを続けた末、ヴァンヂャケットは昭和53年(1960年)10月12日に破産宣告を受けた。負債総額は350億円だった。

VANの倒産後

石津謙介は、丸紅がヴァンヂャケットを倒産させたと思っており、倒産について思い詰めるようなことは無かった。自分と長男・石津祥助が責任を取れば良いと考えていた。

石津謙介はヴァンヂャケットが会社更生法を申請してから数日後、レナウンの尾上清に報告しにいくと、尾上清は会社更生法では無く、自己破産を勧めた。

石津謙介が理由を尋ねると、尾上清は「仮に会社が残ったとしても、君には更生法という枠組みの中でファッション・ビジネスをする能力は無いと思う。君はフリーになるべきだ。君一人なら僕が引き受ける」と独立を勧め、どこに住むのかを尋ねた。

自宅を失う石津謙介は、四谷にある次男・石津裕介の家に移ることにしていたが、次男・石津裕介の家も抵当に入っているので、いずれは出なければならないだろうと答えた。

すると、尾上清は「よし、そこを買ってしまえ」「丸紅が1500万円で売るというのなら、お金は俺が貸してやろう。返済はいつでもいい」と言い、お金を貸してくれたので、石津謙介は四谷の家を買い戻し、倒産後の拠点にする事が出来た。

さらに、尾上清は、石津謙介を紳士服メーカー「ダーバン」の社長室付きアドバイザーとして迎え入れた。

ファンに支えられて

ヴァンヂャケットが倒産した後、石津謙介は取引先をお詫び行脚した。当然、倒産させたので罵倒を浴びることもあったが、応援してくれるファンも居た。

また、石津謙介が住んでいた成城の自宅は、競売に掛けられ、保健所の所長に落札された。保健所の所長は大のVANファンだったので、石津イズムを尊重して、家具などは一切動かさず、そのまま使っていたという。

石津謙介の社会復帰

石津謙介はVANが倒産して以降、仕事をしようとする気配が無かったので、昭和54年(1979年)に盟友・熊井戸立雄が「石津謙介を励ます会」を開いた。

励ます会には、100人しか招待していないのに、とこからか話を聞きつけ、160人が集まった。

昭和54年(1979年)、石津謙介は中国政府からモスクワオリンピックに出場するユニフォームのデザインをして欲しいと依頼され、昭和55年(1980年)にユニフォームを作った。

こうして、石津謙介はデザイナーとして社会復帰したが、中国がモスクワオリンピックをボイコットしたため、デザインしたユニフォームは日の目を見なかった。

その後、再び中国政府からダウンウェアのデザインの依頼があり、ダウンウェアを手がけた。これは「雪人」という名前でヨーロッパに輸出され、大いに外貨を稼いだという。

その一方で、VANの倒産後も石津謙介を慕う人は多く、雑誌「ポパイ」「ホットドックプレス」によって特集され、再びアイビールックにブームが訪れた。

さらに、昭和56年(1981年)、30年間続いていた帝人と顧問契約が再び結ばれ、石津謙介は完全に社会復帰を果たした。

石津謙介はヴァンヂャケット時代の元秘書が始めた広告会社を間借りして仕事をしていたが、仕事が多くなってきたので、昭和58年(1983年)に石津事務所を設立した。以降は執筆を中心に活動した。

葬式は不要

昭和63年(1988年)2月9日にはレナウンの尾上清が肺炎で死去。さらに、同年、「みゆき族」誕生の切っ掛けを作った大衆紙「平凡パンチ」が休刊した。

そして、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御し、昭和という時代が幕を閉じ、平成という新たな時代を迎えた。

さて、石津謙介は、レナウンの尾上清と同様に「葬式など不要」と考えており、面白い生前葬をやろうと考えていた。

そこで、ホテルオークラの重役(後に副社長)をしている友人・橋本保雄に「ホテルで結婚式はやるのに、どうして葬式はやらないのですか?」と尋ねると、友人・橋本保雄は「ホテル協会が反対するでしょう」と答えた。

木魚や鐘の音、線香の臭い、坊主など5つの問題点があり、ホテルでは葬式をしないことになっているのだという。

石津謙介は「それをクリアすれば、やってもかまいませんか?」と尋ねると、友人・橋本保雄は「何もやらないつもりですか?」と驚いた。

平成7年(1995年)、雑誌「婦人画報」の盟友・熊井戸立雄が死去したので、石津謙介はホテルオークラの友人・橋本保雄に、5つの条件クリアを約束し、「2時間で終わるから、試験的にやらせて欲しい」と頼み込み、地下の宴会場をタダで貸してもらった。

そして、香典は受け付けず、出席者の服は平服で、胸に一輪の花を刺してもらった。

音楽は宗次郎のオカリナのアルバムを流した。食事は、熊井戸立雄が入院中に食べていた店のサンドイッチだけで、ビールと安いワインを出した。

ホテルオークラは「そんな安いワインを出した事は無い」と驚いたが、何とか頼み込んで1本1800円のワインを出してもらった。

そして、熊井戸立雄の事で話したい事があれば、手を挙げて自由に話してもらうと、「熊井戸立雄は女に手が早かった」という話になり、盛り上がった。

最後に、石津謙介が「謝辞だけは奥さんがやりなさい」と言って謝辞を促すと、熊井戸立雄の妻は「ありがとうございます。こんな楽しい葬儀は初めてです」とみんなに感謝した。

熊井戸立雄の奥さんも、出席者もみんな喜んでくれ、良い葬式になった。

さて、石津謙介はNHKに頼んで、この葬式を撮影してもらっており、石津謙介が番組に出演したとき、放送してもらった。

すると、葬儀屋の社長が葬儀をデザインして欲しいと頼んできた。石津謙介は「葬儀は不要」と考えていたので、ユニフォームはデザインするが、仏壇やお位牌のデザインはやりたい人がやればいいと答え、ユニフォームだけを担当した。

一方、ホテル業界も、これの葬式が前例となり、企業やVIPの「忍ぶ会」や「お別れ会」などを引き受けるようになった。

80歳を越えても6人のガールフレンドが居るというプレイボーイだったが、86歳になったことから、夜遊びは自粛するようになった。

その後も石津謙介は文化人として活動を続け、晩年は入退院を繰り返していたが、平成17年(2005年)5月24日に肺炎で死去した。遺言により、葬儀は行われず、献体に出された。享年95。

石津謙介は、会社を倒産させたこともあり、経営者としての評価は低いが、「ファッションの神様」として今でも高く評価されている。

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