NHKの朝ドラ「わろてんか」の藤岡てん(葵わかな)が販売するゴロゴロ冷やし飴の実話を紹介します。
藤岡てん(葵わかな)と北村藤吉(松坂桃李)は、米問屋「北村屋」を廃業した後、亀井庄助(内場勝則)から「鶴亀亭」を譲り受け、「風鳥亭」を開業した。
そして、北村藤吉(松坂桃李)は苦労の末、「オチャラケ派」の太夫元・寺ギン(兵藤大輝)と業務提携することができ、オチャラケ派の芸人を派遣してもらうことになった。
しかし、寺ギン(兵動大樹)から取り分は7対3という厳しい条件を押しつけられたため、「風鳥亭」の経営は厳しかった。
そのようななか、北村藤吉(松坂桃李)は客からら「冷やし飴を買ってきてくれ」と頼まれた事から、「風鳥亭」に売店を作って「冷やし飴」を売る事にした。
(注釈:「冷やし飴」は、水飴を湯で溶かしたものにショウガを加えた飲み物です。関西では一般的な飲み物ですが、関西以外には普及していません。)
すると、売店で「冷やし飴」を売る藤岡てん(葵わかな)は、机の上に氷の塊を置き、その氷の上で「冷やし飴」の瓶をゴロゴロと転がして冷やし、売り声を上げると、涼しそうな雰囲気に引かれて客が集まってきた。
そこで、藤岡てん(葵わかな)は1本2銭の「冷やし飴」を売りながら、寄席の宣伝もしてたので、冷やし飴を買うために足を止めた人なども、「冷やし飴」を買って寄席に入るようになった。
それを観た伊能栞(高橋一生)は、藤岡てん(葵わかな)が欲しい言い出し、北村藤吉(松坂桃李)を動揺させるのでした。
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吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)と吉本せい(林せい)は、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」をオープンして、寄席経営の第一歩を踏み出した。
吉本せい(林せい)は、喉の渇きそうなものを売ってサイダーを買わせて利益を挙げたり、売店を作る時に店の外にも簡易の売店を作り、通行人にも商品を売るなどして、色々と努力するのだが、当時はクーラーなどないので、夏場はどうしても客の入りが悪い。
そこで、活躍したのが、吉本せい(林せい)のゴロゴロ冷やし飴である。
当時は電気冷蔵庫など無かったので、4斗樽に氷の塊を入れて、その中に「冷やし飴」の瓶を放り込んで冷やして売るのが一般的だった。
しかし、この方法だと、冷えていない瓶も多く、「冷やし飴」を買った客からクレームが付くことも多かった。
そこで、吉本せい(林せい)は、氷の塊を机の上に置き、氷の上に「冷やし飴」の瓶を置いて、瓶をゴロゴロと転がして冷やすという方法を思いついた。
最初は瓶1本を氷の上で転がしていると、次第に氷が溶けて、瓶を転がした跡に凹みができる。
今度は、その凹みに「冷やし飴」の瓶を4~5本入れて、ゴロゴロと転がすと、「冷やし飴」がよく冷え、効率も良いのだ。
物珍しさもあって、吉本せい(林せい)のゴロゴロ冷やし飴は、天満天神裏でもちょっとした名物となり、ゴロゴロ冷やし飴は飛ぶように売れた。
そして、ゴロゴロ冷やし飴を買っていく客が、ついでに寄席も観ていったので、夏場の不況を乗りきることが出来たのである。
実は、吉本せい(林せい)が寄席の経営でやってた手法の数々は、吉本せい(林せい)が考案したものではなく、他の寄席でも行われてることだった。
こんかい紹介した「ゴロゴロ冷やし飴」は吉本せい(林せい)が考案したオリジナルで、吉本せい(林せい)は、ゴロゴロ冷やし飴の発明が嬉しかったらしく、「ワテはゴロゴロ冷やし飴の元祖屋で」とよく自慢していた。
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