NHKの朝ドラ「わろてんか」で発生する北村笑店(北村藤吉)とオチャラケ派(寺ギン)の対立の実話の紹介です。
寄席「風鳥亭」の経営を開始した北村藤吉(松坂桃李)は、「オチャラケ派」の太夫元・北村藤吉(松坂桃李)と提携し、「オチャラケ派」の芸人を派遣してもらう事に成功した。
こうして、芸人を確保した北村藤吉(松坂桃李)は、寄席「風鳥亭」の経営を安定させ、借金を返済すると、「北村笑店」を設立した勢いに乗り、2件目、3件目と寄席を取得して勢力を拡大していった。
さらに、北村藤吉(松坂桃李)は、借金をしてでも、大阪でも有数の大看板である落語「月の井団吾(波岡一喜)」と専属契約を結ぼうと考えた。
そのようななか、寺ギン(兵動大樹)は、「オチャラケ派」の芸人に金を貸しており、怪我をして仕事の出来なくなった芸人・佐助からも借金を取り立てた。
このため、佐助の妻は、食うに困って、「北村笑店」に借金を申し込んだ。
北村藤吉(松坂桃李)は、寺ギン(兵動大樹)の芸人に勝手に金を貸すことは出来ないと言ったが、見るに見かねた藤岡てん(葵わかな)は、「貸すんやない」と言い、お金を融通してやった。
これを知った寺ギン(兵動大樹)は「芸人を引き抜くつもりか」と激怒し、「北村笑店」を潰しにかかった。
このため、「北村笑店」は「オチャラケ派」の芸人を派遣して貰えなくなり、事業を縮小しながらも寄席の経営を続けたが、ついには倒産寸前まで追い込まれてしまう。
そこへ、「オチャラケ派」で働いていた武井風太(濱田岳)が、「オチャラケ派」の芸人を率いて駆けつける。
「オチャラケ派」の芸人は、芸人を大事にしない太夫元の寺ギン(兵動大樹)に愛想を尽かせ、藤岡てん(葵わかな)の居る「北村笑店」で働きたいと思うようになっていた。
そこで、武井風太(濱田岳)が裏で芸人を取り纏めて「北村笑店」に駆けつけたのだ。
しかし、寺ギン(兵動大樹)は芸人を借金で縛り付けており、「オチャラケ派」を出て行くのであれば、借金を全額返済しろと迫った。
芸人は当然、借金など返せないので困ってしまう。
ところが、藤岡てん(葵わかな)は、コツコツと貯めてきたへそくりを取り出し、芸人の借金を全額、肩代わりして、芸人を「北村笑店」の専属とした。
それを知った「伝統派」の喜楽亭文鳥(笹野高史)は、藤岡てん(葵わかな)に感心し、「オチャラケ派」との提携を辞めて、「北村笑店」と提携する事を決めた。
こうして、「オチャラケ派」は芸人が全て移籍して消滅したため、寺ギン(兵動大樹)は再び坊主に戻って念仏を唱えた。
北村藤吉(松坂桃李)の「北村笑店」は「オチャラケ派」を吸収し、「伝統派」とも提携して、大阪の演芸界を制覇したのであった。
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NHKの朝ドラ「わろんてんか」で、北村笑店とオチャラケ派の対立には、モデルとなった実話があります。
北村笑店の実在のモデルは、吉本興業(当時は吉本興行部)で、吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、「浪速落語反対派」の岡田政太郎と提携して、「浪速落語反対派」の芸人を派遣してもらい、寄席「文芸館」の経営を開始しました。
そして、吉本泰三は岡田政太郎と共同で「芦辺合名社(芦辺合名会社)」を設立し、吉本興業と浪速落語反対派は、入場料を格安にした格安路線で勢力を拡大していきます。
しかし、吉本興業の創業者・吉本泰三は大正4年に、大阪でも有数の寄席「蓬莱館(元・金沢亭)」を取得して、演芸の中心地である法善寺裏へと進出すると、吉本の寄席を「花月亭」と名付け、寄席の名前を「花月ブランド」で統一して独自色を出していました。
さらに、大正6年ごろから、「芦辺合名社(芦辺合名会社)」の使用を止め、正式に「吉本興行部」を使用するようになり、三友派の実力者・三升家紋右衛門などを月給制で引き抜き、大看板の初代・桂春団治と専属契約を結ぶなどして、独自色を強めていきます。
吉本興業の吉本泰三は、浪速落語反対派の岡田政太郎と表面上は友好関係を保っていましたが、既に吉本興業の勢力は浪速落語反対派を凌駕しており、虎視眈々と浪速落語反対派を飲み込むチャンスをうかがっていました。
そのようななか、大正9年(1920年)12月に「浪速落語反対派」の太夫元・岡田政太郎が急死します。
すると、吉本興業の吉本泰三は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に浪速落語反対派を相続させたうえで、1万円の手形を渡して浪速落語反対派の権利を売却させます。
さらに、吉本興業の吉本泰三は、浪速落語反対派の芸人に対して、岡田政太郎の偽の遺書を掲げて、浪速落語反対派の正統な継承者を名乗ったのです。
朝ドラ「わろてんか」に登場する「オチャラケ派」の太夫元・寺ギン(兵動大樹)は芸人を大事にしない悪人として描かれてしますが、モデルとなった「浪速落語反対派」の太夫元・岡田政太郎は非常に芸人思いでした。
このため、吉本興業の吉本泰三が「浪速落語反対派」の太夫元になると、「浪速落語反対派」の芸人は待遇が悪化したり、様々な不満が出たため、吉本興業に「10ヶ条の要求」を突きつけて京都に立てこもってストライキを興しました。
さらに、吉本興業が掲げた岡田政太郎の遺言状が偽物だと発覚したため、ストライキを起こした芸人は岡田政太郎の次男・岡田政雄を擁立して、「元祖反対派(岡田反対派)」を発足しました。
すると、吉本興業は、次男・岡田政雄に渡した1万円の手形を不渡りにして、「浪速落語反対派」の権利を手に入れ、「吉本派」を発足し、吉本興業と「元祖反対派(岡田反対派)」が対立することになりました。
しかし、侠客の仲裁により、次男・岡田政雄が全ての権利を吉本興業に譲ったので、「元祖反対派(岡田反対派)」は吉本興業に吸収されて消滅したのです。
その後、落語の「三友派」も、大阪の顔役・酒井猪太郎の仲裁によって吉本興業の傘下に下り、吉本興業は大正11年に大阪の演芸界を統一する事になりました。
なお、朝ドラ「わろてんか」の各種エピソードの実話は「わろてんか-あらすじ」をご覧ください。
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