わろてんか-月の井団吾(桂春団治)のラジオ事件の実話

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する月の井団吾(波岡一喜)のラジオ無断出演事件の実話です。

月の井団吾(波岡一喜)のラジオ事件

月の井団吾(波岡一喜)は、北村笑店に所属していたが、突如として武井風太(濱田岳)に反旗を翻し、ラジオに出演すると宣言した。

激怒した武井風太(濱田岳)は、月の井団吾(波岡一喜)を捕まえようとするが、月の井団吾(波岡一喜)は雲隠れしてしまい、その行方は分からなかった。

そこで、ラジオ放送の当日、武井風太(濱田岳)は、月の井団吾(波岡一喜)のラジオ出演を阻止するため、社員をラジオ局に派遣して見晴らせ、月の井団吾(波岡一喜)のラジオ出演を阻止しようとしたが、月の井団吾(波岡一喜)は現れなかった。

このため、武井風太(濱田岳)は安堵するのだが、なぜかラジオから月の井団吾(波岡一喜)の落語が聞こえてくるのだった。

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モデルとなった桂春団治のラジオ事件の実話

大正時代に「東京放送局(NHK東京=JOAK)」「大阪放送局(NHK大阪=JOBK)」「名古屋放送局(NHK名古屋=JOCK)」が開局し、ラジオ放送が始まった。

その後、大阪放送局は、大阪府大阪市中央区馬場町に移転したことから、大阪放送局のコールサイン「JOBK」は「ジャパン・大阪・馬場町の角」を略したものだというネタができたが、コールサインは開局の順番に「AK」「BK」「CK」と割り振られただけである。

さて、大正天皇が崩御すると、昭和天皇の即位式を全国に放送するため、ラジオの中継放送を開始。東京放送局(JOAK)と大阪放送局(JOBK)は、競うように中継局を開設し、全国へとラジオ放送網を広げた。

こうして、昭和天皇の即位式をきっかけにラジオの放送網は全国に張り巡らされ、ラジオが全国に普及しはじめたのである。

こうしたラジオの台頭に対して、恐怖を抱いたのが、寄席の経営者だった。東京でも大阪でも、寄席の経営者は「無料で落語が聞けるようになれば、誰も寄席に来なくなる」という危機感を抱き、大きな問題となっていた。

大阪の演芸界を支配する吉本興業の「吉本せい」も、ラジオに対して強い危機感を抱き、所属芸人にラジオの無断出演を禁じ、「ラジオに無断出演した者は、借金を一括で返済する」という念書を書かせていた。

吉本の芸人は、吉本興業が許可したラジオには出演が許されたのだが、借金の返済という名目で、出演料の大半は吉本興業がピンハネしたので、吉本の芸人はラジオに出演しても、ほとんどギャラを得られなかった。

こうした吉本興業の対応に怒ったのが、NHK大阪(JOBK)である。

当時は聴取率調査など無かったが、ラジオのアンケート調査を実施しており、全国的には「浪花節」が1番人気だったが、大阪では吉本興業の影響で「漫才」が人気の1位となっていた。

NHK東京(JOAK)と争っていたNHK大阪(JOBK)は、演芸をラジオ番組に取り入れたいのだが、吉本興業が許可しなければ、吉本の芸人をラジオに出せない。

当時の吉本興業は、大阪・神戸・京都の演芸界を支配しており、吉本抜きにしては演芸番組を作ることはできなかった。

吉本興業も二流・三流の芸人につてはラジオ出演を許可したのだが、大看板(一流の芸人)については吉本興業の林正之助から直々に許可を得ることになっており、NHK大阪(JOBK)がいくら頼んでも、林正之助は大看板(一流の芸人)のラジオ出演を認めなかった。

そして、吉本興業とNHK大阪(JOBK)の間で、芸人出演に関してトラブルが発生し、吉本興業はNHK大阪(JOBK)にも「吉本興業が許可しないラジオ番組には芸人を出演させない」という念書を書かせるという事態に発展していたのである。

こうした事態に業を煮やしたNHK大阪(JOBK)の文芸部長・奥屋熊郎は、一計を案じ、吉本興業に所属する大看板の初代・桂春団治を、吉本興業に無断でラジオ出演させることにした。

初代・桂春団治の落語はギャグ満載のうえ、私生活も無茶苦茶で、数々のスキャンダルを起こして世間を賑わせており、低迷する落語界にあっても、絶大なる人気を誇っていた。

この初代・桂春団治は、大看板なので、当然、ギャラも超一流なのだが、金遣いも超一流なので、いつも金に困っていた。

初代・桂春団治は金に困ると、せっせとレコードを吹き込むのだが、レコードの二重契約で莫大な違約金を請求させる始末だった。

さらに、初代・桂春団治は、煎餅に落語を吹き込んで、「しゃべる煎餅」(煎餅で作ったレコード)を制作して一儲けしようとしたのだが、煎餅を食べたら落語を聞けなくなるということで大失敗に終わり、大赤字という有様で、吉本興業に莫大な借金をしていた。

当然、初代・桂春団治も吉本興業からラジオの無断出演を禁じられており、「ラジオに無断出演したら、借金を全額返済する」という念書を入れていたのだが、そもそもが無茶苦茶な人なので、ラジオ無断出演禁止命令など守るはずが無く、ある仲介者から出演料を受け取って、昭和5年12月17日にNHK大阪(JOBK)のラジオ番組に出演し、落語「祝い酒」を語ったのである。

初代・桂春団治はラジオ出演の前日、京都の寄席に出ており、NHK大阪(JOBK)は初代・桂春団治を大阪へ帰らせず、そのまま京都に留まらせておき、翌日、京都駅前にある丸物デパートにあった京都の放送局に入れた。

そして、関係者以外は立ち入り禁止にして、NHK職員が厳重に警備するという厳戒態勢の元で、京都の放送局から桂春団治の落語を放送した。プログラムにも乗せないゲリラ放送だった。

さすがの初代・桂春団治も、心細かったのか、娘に「付いてきてくれ」と頼み、娘に付き添われて京都の放送局に入り、目立たないように丹前を着てマイクの前で落語「祝い酒」を語った。

さて、ラジオ放送から流れてくる初代・桂春団治の落語を聞いて驚いたのが、吉本興業である。

ラジオ放送を聞いた吉本興業の林正之助は、従業員を率いて大阪・上本町にあるNHK大阪(JOBK)を取り囲み、初代・桂春団治を捕まえようとしたのだが、一向に出てこない。

そこで、林正之助が「桂春団治はどこにおるんや」と詰め寄ると、NHK大阪の職員は「ただいまの放送は京都からです」と答えたので、林正之助は一杯食わされたことを知る。

さて、吉本興業とNHK大阪(JOBK)の対立は周知の事実であり、初代・桂春団治のラジオ放送を聞いたマスコミが京都の放送局に詰めかけると、初代・桂春団治はインタビューに対して「落語家の口に蓋は無理だっせ。これからもドンドン出ます」と答え、翌日の新聞を賑わせた。

これに激怒した林正之助は、初代・桂春団治から「ラジオに無断出演したら、借金を全額返済する」という念書をとっていたので、差し押さえを実行しようとしたが、吉本興業の「吉本せい」が「とにかく、一度話を聞こう」と言って林正之助を止めた。

一方、初代・桂春団治は「古典落語の崩壊した男」とも言われ、型破りだったので、落語家にも敵は多く、桂春団治を嫌う落語家はこれをチャンスとみて、「勝手な行動を許すな」と言い、吉本興業に処分を求めた。

「吉本せい」は初代・桂春団治に釈明させようと思っていたのだが、初代・桂春団治は吉本興業に姿を現さなかったため、林正之助は初代・桂春団治の追放を決め、差し押さえを執行した。

その執行現場に初代・桂春団治が現れた。

普通の芸人なら、差し押さえを食らえば、恐れおののくものだが、初代・桂春団治にとっては差し押さえくらいは屁でも無い。

実は、吉本興業に入る前のことだが、初代・桂春団治は、何度も差し押さえを食らっている。

初めて差し押さえを食らうとき、初代・桂春団治が不在だったので、弟子が対応した。

このとき、差し押さえの執行官2人組は、いくら待っても初代・桂春団治が戻ってこないので、小さな声で「そろそろ執行しようか」と相談した。

それを聞いた弟子は「おしっこ」と聞き間違え、執行官2人組をトイレに案内しようとしたのだが、途中で差し押さえとわかったので、師匠の留守に差し押さえなんかされては困ると思い、慌てて執行官を叩き出して追い返したのである。

その後、帰宅した初代・桂春団治は、弟子からその話を聞きて面白がり、それ以降、返せる借金も返さずに、わざと差し押さえを受けて楽しんでいたのだ。

こんな調子だったので、初代・桂春団治は吉本興業から差し押さえを受けても全く動じず、「一番金になるこれは差し押さえんでいいんでっか」と言い、貼っていた差し押さえの札を1枚剥がして自分の口に貼り付け、詰めかけていた新聞記者に写真を撮らせたのである。

これには林正之助も「流石は一流の芸人や」と感心した。林正之助を感心させたのは、初代・桂春団治と「横山やすし」の2人だけである。

ところが、こうした報道が世間を賑わせ、ラジオを聞いた人や報道を見た人が吉本の寄席に詰めかけ、初代・桂春団治を出さなければ、暴動が起きるという状況になる。

初代・桂春団治は口座に上がったが、口に差し押さえの札を貼って何もしゃべらなかったという逸話も残っているが、さすがにこの逸話は創作だと思われる。

追放を決めた吉本興業の林正之助は困り果ててしまうが、落語家・林家染丸が他の落語家を説得し、落語家の総意として、吉本興業の恩赦を申し入れた。

林正之助は、これを渡りに船として、初代・桂春団治を許し、今まで以上に借金をさせて、初代・桂春団治を借金で縛ることした。

また、吉本興業はNHK大阪(JOBK)に対しても厳しい態度をとり、NHK大阪(JOBK)の契約違反を追及したので、NHK大阪(JOBK)は芸人が吉本興業に搾取されているブラック企業ぶりを暴露して対抗し、両社は険悪な関係が続くことになった。

ところで、大阪と同じように、東京の寄席の経営者も「ラジオで落語が聞けるようになれば、寄席に客が来なくなる」という危機感を抱いており、ラジオの無断出演の禁止が取り決められていた。

大阪で初代・桂春団治がラジオに無断出演したのと時を同じくして、東京でも、「兵隊落語」などで有名になる爆笑王・柳家金語楼が、昭和5年にラジオ無断出演禁止の取り決めを破ってNHKのラジオ番組に出演したのである。

その結果、柳家金語楼は東京の寄席から追放されてしまい、この柳家金語楼に手を差し伸べたのが、吉本興業だった。

東京での勢力拡大を狙う吉本興業は、初代・桂春団治とは正反対の対応で、東京の寄席から追放された柳家金語楼を支援し、柳家金語楼と6代・目春風亭柳橋に「日本芸術協会(落語芸術協会)」を設立させ、東京で興業を行った。

吉本興業とNHK大阪(JOBK)の和解

吉本興業とNHK大阪(JOBK)が和解するのは、桂春団治のラジオ無断出演事件から3年半後の昭和9年5月のことである。

NHK大阪(JOBK)は、六大学野球をネタにした「早慶戦」で絶大なる人気を誇っていた漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」に目を付け、吉本興業側に打診した。

吉本側で、これに応じたのが、林正之助が東京から招いた橋本鉄彦(橋本鐡彦)だった。

林正之助は、未だにラジオに対して強い危機感を持っていたが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の説得を受けてラジオ解禁を決定し、昭和9年5月4日に大阪・北浜の繊維会館でNHK大阪の広江局長と握手を交わして和解した。

そして、NHK大阪(JOBK)が、昭和9年6月10日に、吉本興業の法善寺花月(南地花月)から「エンタツ・アチャコ」の漫才を放送したのである。

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