わろてんか-キースの団体交渉とストライキの実話

NHKの朝ドラ「わろてんか」で、キース(大野拓朗)ら長屋芸人が起こすストライキのあらすじと実話です。

わろてんか-長屋芸人のストライキのあらすじ

2軒目の寄席を手に入れて勢いに乗る「風鳥亭」の北村藤吉(松坂桃李)は、さなる飛躍を目指して、「落語界の風雲児」と呼ばれる有名な落語家・月の井団吾(波岡一喜)を専属芸人にしようと考えた。

月の井団吾(波岡一喜)を専属にするには、1万円という莫大な契約金が必要になりそうだったが、北村藤吉(松坂桃李)は借金をしてでも、月の井団吾(波岡一喜)と契約したいと言い出した。

それを知ったキース(大野拓朗)アサリ(前野朋哉)万丈目吉蔵(藤井隆)ら長屋芸人のは、「ワテらに払う銭は無くても、月の井団吾(波岡一喜)に払う銭はあるんか」と激怒し、団体交渉を起こして、北村藤吉(松坂桃李)に賃上げを要求したのである。

しかし、北村藤吉(松坂桃李)は「働きたくないのであれば、働かなくていい。好きにしろ」と言い、相手にしなかった。

ところが、藤岡てん(葵わかな)が長屋芸人の団体交渉に加わり、北村藤吉(松坂桃李)に「妻や子供の待遇改善」を主張したため、夫婦喧嘩まで勃発してしまう。

北村藤吉(松坂桃李)は「協力するのが夫婦」だと言いい、藤岡てん(葵わかな)の要求を相手にしないが、長屋芸人は藤岡てん(葵わかな)を支持しており、交渉決裂を理由に「我々は寄席には出ない」と言い、ストライキを起こしたのである。

しかし、北村藤吉(松坂桃李)から「お前達は、客が変わっても、変わろうとしない。月の井団吾(波岡一喜)に負けないように、命を賭けて芸に取り組んでみろ」と言われてしまう。

その一言で考えを改めた長屋芸人らは、努力し、キース(大野拓朗)とアサリ(前野朋哉)はハリセンを使ったドツキ漫才を覚え、亀井庄助(内場勝則)は後面を改良して再び「風鳥亭」に戻ってきたのだった。

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長屋芸人のストライキの実話

朝ドラ「わろてんか」でキース(大野拓朗)らが起こしたストライキにはモデルとなる実話があるので、その実話を紹介します。

北村藤吉(松坂桃李)のモデルとなる吉本興業の創業者・吉本泰三は、天満天神裏にある「第二文芸館」という三流の寄席を取得して寄席を経営を開始しました。

そして、吉本泰三は、「芸に上手も下手も無い。安くて面白ければなんでもいい」と方針の芸能プロダクション「浪速落語反対派」の太夫元・岡田政太郎と提携して勢力を拡大していきます。

やがて、吉本泰三は、複数の寄席を取得して寄席のチェーン展開を開始し、「三友派」から中堅落語家の三升家紋右衛門・桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎を引き抜いて専属にしました。

そして、吉本泰三は、大看板の初代・桂春団治を契約金2万円・月給700円という超高額で引き抜き、吉本興行部(吉本興業)の専属にすることにも成功します。

さらに、吉本泰三は、かつて桂派が拠点としいた「蓬莱館(金沢亭)」を買収し、演芸の中心地である法善寺裏へと進出を果たしたのです。

こうなると、吉本興行部(吉本興業)と「浪速落語反対派」の力関係は完全に逆転して、吉本興行部(吉本興業)の方が優位になり、「浪速落語反対派」の芸人にも強い影響力を持つようになりました。

そして、吉本泰三は野心家で、「浪速落語反対派」を飲み込もうと画策しているとき、大正9年(1920年)12月7日に「浪速落語反対派」の太夫元・岡田政太郎が死去します。

すると、吉本泰三は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に「浪速落語反対派」を相続させ、1万円の手形を渡して、次男・岡田政雄に「浪速落語反対派」を売却させる形で、「浪速落語反対派」を乗ったのです。

「浪速落語反対派」の芸人は、何も知らされておらず、給料を貰いに行って始めて、太夫元(興行主)が吉本泰三に変わった事を知って驚きました。死んだ岡田政太郎の遺言により、吉本泰三が「浪速落語反対派」を引き継いだというのです。

しかし、それを知った芸人は、吉本泰三が太夫元になったことで待遇が悪化したことを不満に思い、「10ヶ条の要求」を突きつけてストライキに入ったのです。

芸人がストライキを起こした理由は複数あるのですが、その1つに、吉本泰三が初代・桂春団治などを新幹部に入れて、旧幹部を軽視ししたという不満がありました。

そのようななか、吉本泰三が掲げていた岡田政太郎の遺言状が偽物である事が判明し、「浪速落語反対派」が吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三に乗っ取られたことが判明します。

そこで、ストライキを起こしていた芸人は、岡田政太郎の次男・岡田政雄を擁立して、京都で「元祖反対派(岡田反対派)」を発足しました。

すると、吉本興行部(吉本興業)は、残った芸人を率いて「吉本派」を発足し、「元祖反対派(岡田反対派)」に対抗しました。

しかし、侠客の仲裁が入り、次男・岡田政雄が全ての権利を吉本興行部(吉本興業)に譲ったので、「元祖反対派(岡田反対派)」は吉本興行部(吉本興業)に吸収され、6ヶ月で消滅した。

その後、吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三は、落語の「三友派」も傘下に収め、大阪の演芸界を制覇したのです。

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