島根県の民謡「安来節」を全国に広めた初代「渡部お糸(わたなべ・おいと)」の生涯を描いた立志伝です。
「渡部お糸」(本名は渡部糸)は明治9年(1876年)11月6日に、島根県能義郡安来町で、料理屋「坂田屋」を営む渡部佐兵衛の4女(8人兄弟の末娘)として生まれた。母親は渡部ノブである。
父・渡部佐兵衛は料理屋「坂田屋」を営むとともに、正調安来節の確立と保存に尽力し、安来節の家元と称された人物である。
さて、安来節の起源は諸説あるが、幕末には安来節の原型のような歌があり、安芸の鍼医・大塚順仙がよく歌っていたことから、鍼医・大塚順仙が安来節の始祖とも言われる。
それを鳥取県・境港の芸子「さん子」が独自の改良を加えて「さん子節」が出来た。この「さん子節」が島根県の安来町に伝わり、安来節となったのだという。
その後、安来節は順調に発展しようとしたが、繁盛していた花街で卑俗な歌詞を付けられて歌われていたことから、安来節の品格は低下していた。
こうした事態を嘆いた有志が集まり、正調安来節の保存と発展を目指した。
なかでも、正調安来節の保存と発展に活躍したのが、「渡部お糸」の父・渡部佐兵衛だった。
父・渡部佐兵衛は三味線の名手で、正調安来節の三味線の弾き方を確立するなどして、安来節の家元と呼ばれた。
さて、明治時代は、貧しさゆえに、生まれたばかりの子供を間引きすることが公然と行われており、母・渡部ノブが出産する時に、親戚の男達が集まって生まれたばかりの「渡部お糸」を間引きしようとしたが、母・渡部ノブの懇願により、間引きは中止され、「渡部お糸」は命を得てこの世に誕生することが出来た。
三味線を得意とする父・渡部佐兵衛は義太夫や浄瑠璃を好み、「渡部お糸」を連れて芝居に行っており、「芸は身を助ける」と言い、7歳になった「渡部お糸」を小学校には行かせず、煙草製造所「新内屋」へ奉公に出した。
「渡部お糸」は「新内屋」で先輩の女工が歌う安来節を聴いて安来節を覚え、安来節を歌うようになった。ただし、本格的に安来節を習うのはもう少し後である。
そうした一方で、「渡部お糸」は幼いときから、父・渡部佐兵衛から義太夫や長唄を厳しく仕込まれた。
父・渡部佐兵衛は、10歳の「渡部お糸」を真冬に伯太川の堤防に立たせ、風に向かって義太夫を歌わせるなどしており、かなりのスパルタ教育であった。
また、「渡部お糸」は、先輩の女工に煙草の味を教えられたことが切っ掛けで、煙草を吸うようになった。生涯、煙草を手放さなかったほどの煙草好きだった。
すると、母・渡部ノブは、子供の「渡部お糸」がキセルを持ち歩き、煙草を吸うことに溜まりかね、女なら浴衣の一枚でも縫えるようにと、煙草製造所「新内屋」を辞めさせ、13歳の「渡部お糸」に針子をさせた。
渡部家は代々、呉服屋「松源」の専属の針子だったらしく、母・渡部ノブや祖母も家計のために針子をしており、「渡部お糸」も針子して働くようになった。
しかし、「渡部お糸」は「新内屋」を辞めておらず、16歳まで「新内屋」で働いており、昼は「新内屋」で煙草を作って、夜は針子の仕事をしていたという。仕事の他にも歌の稽古もあったので、忙しい日々を送ったようだ。
さて、この頃は安来港の廻船問屋は相当に繁盛していたので、安来の花柳界も賑わっており、歌の上手いと評判の「渡部お糸」は酒の席によく招かれたが、父・渡部佐兵衛は自分が認めた席にしか「渡部お糸」を出さなかった。
その後、「渡部お糸」は18歳か19歳の時に針子の仕事を辞め、賃金の良い製糸工場で働くようになる。この製糸工場に安来節の上手な同僚がおり、「渡部お糸」はこの同僚から安来節を習った。
「渡部お糸」は、父から義太夫や長唄を厳しく仕込まれていたため、たちまち安来節の名手となった。
そうした一方で、「渡部お糸」は実重源雄と出会い、たちまち恋に落ちたが、双方ともに両親や家族から許されなかった。
しかし、ちょっとした駆け落ちのようなことをして、2人が鳥取県・大山町の「赤松の池」を見に行った事が切っ掛けで、父・渡部佐兵衛は2人の交際にうるさく言わなくなり、その後、2人は結婚した。
(注釈:「渡部お糸」は末娘だったが、兄弟が養子に出ていたり、死去したため、家督を相続しているのだが、事情は不明ながら、夫・実重源雄とは籍を入れていないらしい。)
「渡部お糸」は明治30年に第1子となる長女・益亀(まき)を出産し、明治33年には父・渡部佐兵衛が死去した。
明治38年、東京から来た文部省の役人が「渡部お糸」の安来節を聴いて驚き、正調・安来節の保存を勧めたことが切っ掛けで、「渡部お糸」は安来節の第一人者となった。
また、明治43年には、安来に来ていた画家・横山大観が「渡部お糸」の安来節を聞いて感嘆し、その場で絵を描き、三味線を弾いていた富田徳之助に与え、正調・安来節の保存を推奨した。
翌年の明治44年、有志により、正調安来節保存会が設立され、「渡部お糸」は「遠藤お直」「吉儀お品」「大野浅野」を加えて一座を立ち上げ、「仁輪加」に出演し、盛況を得る。
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大正元年(明治45年)に島根県の安来で「大日本共産博覧会」が開催され、「渡部お糸」らは特設の舞台で安来節を披露した。
このとき、「渡部お糸」は、出雲大社教の始祖・千家尊福と話をしており、千家尊福の話を聞いて「歌いたいものが初めて分かった気がした」と言い、前よりも安来節を歌うのが楽しくなったという。
そして、大正2年に島根県で「日本勧業博覧会」が開催され、その付随事業として、各種組合の会合が開かれ、「渡部お糸」は、島根県酒造組合総会の慰労の宴席を勤めて安来節を披露した。
大正4年に島根県の松江で御大典祝賀会が開催され、「渡部お糸」は「仁輪加」の審査員を務めた。しかし、これまで舞台に上がる側だったので、座り心地が悪かったという。
このとき、「渡部お糸」は、松江の楽器商・園山清次郎と知り合った。
園山清次郎は、松江の知名度を上げたいと考えており、「渡部お糸」の安来節を聞いて、安来節を使って松江の知名度を上げることを思いつき、「渡部お糸」にレコードの作成を熱心に持ちかけた。
「渡部お糸」はレコードを知らなかったので、園山清次郎が蓄音機を持ってきてレコードを聞かせると、「渡部お糸」らはレコードに驚き、これは大変なことなので夫・実重源雄に相談しなければならないと思ったという。
そして、園山清次郎からレコード作成を熱心に勧められた「渡部お糸」は、大正4年に園山清次郎の求めに応じて、千鳥レコード(鳥取ローカルのレコードらしい)でレコードを吹き込んで売り出した。
さらに、園山清次郎は東京の大手レコード会社から出さなければならないと考え、「渡部お糸」と三味線の名手・富田徳之助を連れて上京したが、大手のレコード会社からは相手にされなかった。
そこで、園山清次郎は音楽学校で認めて貰うことを思いつき、「渡部お糸」と富田徳之助を上野音楽学校に連れて行き、「河東節」「一中節」「長唄」「清元」などの家元に審査してもらい、各家元から安来節は「民謡の白眉」という評価を得た。
このとき、審査員は何度もアンコールを要求し、「渡部お糸」が歌う安来節を楽譜に起こした。民謡が始めて楽譜になったのは、この時の安来節が初めてだという。
こうした各家元のお墨付きを得た「渡部お糸」は、「東京蓄音機株式会社」でレコード3枚を吹き込むと、東京土産に蓄音機を買って帰った。吹き込んだレコードは全国的に売れたという。
大正5年ごろ、兵庫県・神戸の聚楽館で、第1回全国俚謡大会が開催されることになり、安来節も第1回全国俚謡大会に参加する事になった。
「渡部お糸」は一座を組んで安来節の巡業していたものの、全て近場であり、遠方への巡業は未経験だったため、反対する者も居たが、大会側からの指名もあり、第1回全国俚謡大会に参加する。
こうして、「渡部お糸」は、田中謙助とともに第1回全国俚謡大会に出場して、見事に優勝して、その名を轟かせることになる。
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安来節の普及に燃える園山清次郎は、東京で安来節を流行さるには一流の寄席に出演させる必要があると考え、多くの人の協力を得て、東京の一流の寄席の席亭と交渉してこれに成功していた。
神戸の第1回全国俚謡大会で優勝した「渡部お糸」は、「富田徳之助」「遠藤お直」「吉儀お品」「清瀬お定」らを率いて上京し、東京の一流の寄席をハシゴして、15日間の間、東京中を駆け回った。
その影で、内務大臣・若槻礼次郎などの島根県出身者が尽力しており、新聞でも宣伝してくれたおかげで、いずれの寄席も好評であり、「渡部お糸」らは東京で成功し、以降、4年間、毎春に上京して安来節を披露した。
「渡部お糸」は、東京での成功を切っ掛けに、島根県の興行師・森山清太郎の「森山興業」に属して全国巡業を開始し、正月と盆以外は島根戻らないというハードスケジュールで、日本全国を巡業しながら、各地の民謡を会得していった。
このころ、浪花節や活動写真の台頭して、演芸会の中心にあった落語の人気が低迷しており、大阪で寄席を経営する吉本興行部(吉本興業)の吉本せい(林せい)は、落語不況対策として、三流の寄せで流行していた島根県に安来節を買いに来た。
吉本せい(林せい)が安来節を買いに来たのは、大正7年か大正8年のことで、「森山興業」の森山清太郎は吉本せい(林せい)の要請に応じて「渡部お糸」の一座を大阪へ派遣した。
この安来節は巡業ではなく、常打ちだったので、痔が悪化していた夫・実重源雄は、「渡部お糸」について大阪へ行き、京都で知り合いの病院で手術を受け、長期間入院した。
その後、吉本興行部(吉本興業)の吉本せい(林せい)は、弟・林正之助を島根県へ派遣し、手見せ(オーディション)を開催して、安来節の若手を発掘して大阪へ送った。
この時代の男性は、若い女性の半襦袢や太ももがチラチラとするだけで興奮しており、安来節はエロ目的で大ブームを起こし、大阪や東京に安来節の専門館が誕生した。
安来節の寄席は入場券がピンク色で、うっかりと半券を持ち帰ると、夫婦喧嘩に発展するしたという。
吉本せい(林せい)も島根県へ訪れて安来節を買い付けているが、島根県を訪れて安来節をスカウトしたのは弟・林正之助の手柄のように伝わっている。この辺の事情は分からない。
「渡部お糸」は、大阪での興行を終えた後、再び全国巡業に戻っていたが、大正12年に東京巡業をした後、全国巡業は打ち切りになり、吉本興行部(吉本興業)の万歳師などとともに台湾・朝鮮・満州への外地巡業に参加する事になった。
「渡部お糸」は、母・渡部ノブが老齢で長女・益亀(まき)も様態が悪かったため、外地巡業には参加したくなかったが、断る事は出来ないのだろう。不本意ながら、外地巡業に参加している。
そして、満州巡業中の大正12年7月28日に長女・益亀(まき)が死去してしまう。
虫の知らせを感じて帰国しようとした「渡部お糸」は、憲兵の説得に応じず、帰国しようとしたが、長女・益亀(まき)の死を知らせる電報が届き、枕を濡らしながらも、満州巡業を全うした。
帰国後は再び全国巡業に戻った「渡部お糸」は、神戸の聚楽館の舞台上で大正12年9月1日の関東大震災を経験した。神戸まで揺れたのだという。
「渡部お糸」は東京出演の予定が入っていたが、東京は壊滅的な被害を受けており、東京出演はキャンセルされた。それ以降、「渡部お糸」は、誘われても東京へ行かなかった。
こうした「渡部お糸」の全国巡業によって安来節は全国に広まったので、「渡部お糸」は安来節の家元と称され、安来節は「お糸節」とも呼ばれた。この安来節ブームは昭和の初めまで続いた。
関東大震災の翌年の大正13年に母・渡部ノブが死去し、「渡部お糸」は大正13年に安来節の現役を引退した。
その後は、家元として出演することはあったが、昭和10年ごろ、川島ナミに「2代目・渡部お糸」を譲り、悠々自適の生活を送った。
そして、「渡部お糸」は、安来節を日本有数の民謡に育てた功績が認められ、昭和23年に文化功労者として島根県知事の表彰を受け、昭和29年(1954年)3月27日に死去した。享年79だった。
なお、吉本興業の関係者の生涯を知りたい方は、「わろてんか-吉本せいの関係者の立志伝」をご覧ください。
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