NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する露木重彦(木下ほうか)のモデルとなった藪下泰司の立志伝です。
藪下泰司(やぶした・たいじ)は明治36年(1903年)2月1日に大阪府北河内郡四条村(大阪府大東市寺川町)で生まれた。本名は藪下泰次である。
大正14年(1925年)に東京美術学校(東京芸術大学)の写真科を卒業し、松竹蒲田撮影所へ入社して現像部でフィルム多色処理の研究に従事。同年、志願して広島電信隊に1年間、入隊した。
昭和2年(1927年)に藪下泰司は文部省教育映画の嘱託となり、映画製作設備を創設し、社会教育映画の演出・撮影にあたる。
昭和19年(1944年)に招集されてフィリピンのミンダナオ島に派遣されたが、終戦を迎えて昭和21年(1946年)に復員する。
戦後の昭和22年(1947年)に「日本動画(日動映画)」に入社し、数々の教育アニメを手がけた。
ただし、藪下泰司はアニメーターではないので、主に撮影や演出を担当した。
昭和29年(1954年)に「日本動画」が「日動映画」へと社名を変更し、藪下泰司は同年、取締役に就任。昭和30年に結婚し、2男1女を儲けた。
昭和31年(1956年)に日動映画が東映に吸収され、東洋のディズニーを目指す「東映動画」が発足すると、藪下泰司は「東映動画」の取締役兼制作部長に就任した。
そして、ほぼフルアニメーションとなる昭和32年(1957年)上映の短編アニメ「こねこのらくがき」で演出を務めた。
さらに、アメリカに渡ってディズニーの制作現場を視察し、様々な技術を持ち帰り、昭和33年(1958年)上映の日本初の長編カラーアニメ「白蛇伝」で監督・演出・脚本を務めた。
当時のスタッフは大半が素人で、原画を担当できるのは、大工原章と森康二の2人だけで、藪下泰司は大工原章と森康二と共に大勢の素人アニメーター42人を率いて、「白蛇伝」にあたった。
映画「白蛇伝」は、ベネチア児童映画特別賞など、数々の賞に選ばれ、高い評価を受け、海外にも輸出されて、大成功を収め、日本の長編アニメの礎となる。
また、映画「白蛇伝」は、宮崎駿がアニメーターになる切っ掛けを作るなど、後に活躍する数多くのアニメーターに影響を与えた。
その後、藪下泰司は「少年猿飛左助」「西遊記」「安寿と厨子王丸」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」「少年ジャックと魔法使い」「ひょっこりひょうたん島」で、演出や監修などを担当した。
しかし、藪下泰司は「ひょっこりひょうたん島」の不振を受けて、「東映動画」を退社し、昭和42年(1967年)に「日本アートフィルム」の代表取締役に就任した。
そして、昭和43年(1968年)に「日本動画」の代表取締役に就任し、動画・記録映画・CMなどの企画・制作を手がけた。
晩年は「東京デザイナー学院」と「東京写真専門学院」で講師を務め、後進の育成にあたっていたが、昭和61年(1986年)7月15日に死去した。83歳だった。
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