二流の伊勢丹を一流の百貨店へと成長させた山本宗二の立志伝です。
山本宗二は明治41年(1908年)9月2日に神奈川県愛甲郡清川村宮ヶ瀬で山本幸三(山本宏三)の長男として生まれた。父・山本幸三(山本宏三)は50歳の時に生まれた子で、母は山本フサで35歳の時の子だった。
山本家は地元の旧家で、本家は資産家だった。父・山本幸三は分家しており、本家から水車を譲り受けて水車を経営する一方で、私塾を開いて漢字を教えていが、生活は貧しかったという。
山本宗二は大正4年(1915年)に愛甲郡高等尋常小学校(宮ヶ瀬尋常小学校)に入学。高等部へは進まず、尋常小学校から、大正10年(1921年)に神奈川県の旧制・厚木中学校へと進学した。
しかし、大正10年8月2日に父・山本幸三(山本宏三)が死去してしまう。山本宗二は厚木中学校に付随する寮に入っていたのだが、安い寮費が支払えず、寮を出て親族や知り合いの所を転々とした。
そのようななか、明治12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、神奈川県愛甲郡清川村宮ヶ瀬の実家と水車が倒壊してしまう。
生家を失った山本宗二は、母・山本フサと共に山本家の本家に移って居候し、旧制・厚木中学校に通った。
山本宗二は大正15年(1926年)に旧制・厚木中学校をそこそこの成績で卒業するが、居候の身分だったため、進学を諦めて代用教員となり、母校の宮ヶ瀬尋常小学校で教壇に立ち、父と同じ教育者の道を歩み始めた。
しかし、山本宗二は、母校の教壇に立つ一方で、進学への思いを募らせた。また、本家に居候していることをよく思ってなかっこともあり、昭和3年(1928年)に代用教員を退職して進学を目指した。
そして、山本宗二は、昭和4年に北海道の小樽高等商業に合格したため、縁故を頼って東京・深川の杉山木材店に就職し、1年間、学費を貯めるために働き、昭和5年春に北海道へと渡り、小樽高等商業に入学した。
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さて、日本は、昭和4年に発生した世界恐慌の余波を受け、昭和5年から昭和不況へと陥った。
山本宗二は昭和不況のなか、昭和7年(1932年)3月に小樽高等商業を卒業して同年5月に伊勢丹に入社し、丁稚のように扱き使われて働いた。
そして、山本宗二が入社した翌年の昭和8年(1933年)に伊勢丹新宿店がオープンした。山本宗二はこのとき、庶務部奉仕課に配属された。この時の庶務部長は松田清で、山本宗二は松田清に鍛えられていく。
そうした一方で、山本宗二は学生時代から、親戚の家に通い、従兄弟の「山本くみ」と良い仲になっており、双方の親の反対を押し切り、昭和9年に結婚する。
当時、百貨店の地位は低く、中でも伊勢丹は二流の百貨店だったが、山本宗二は伊勢丹の社長を務める2代目・小菅丹治に見出され、順調に出世していく。
一方、私生活では、昭和15年1月には長男・山本辰郎が誕生した。
しかし、戦局は悪化していき、厳しい時代を迎え、終戦間近の昭和20年5月に妻・「山本くみ」が病死、同年9月には母・山本フサが病死していまう。
そして、終戦後、山本宗二は子供が小さかったことから、昭和21年10月8日に室谷恵美子と再婚する(再婚同士)。
伊勢丹は東京大空襲により神田店を全焼したほか、戦後、新宿店の3階以上をGHQに接収されてしまう。
また、戦後は闇市の全盛期を迎え、百貨店は厳しい迎えるなか、山本宗二は頭角を現し、昭和22年(1947年)6月に取締役に抜擢された。
戦後、百貨店は公定価格で販売していたので、商品を並べると、どんな商品でも行列ができ、飛ぶように売れていくが、売れていった商品は闇市に並び、何倍もの値段で販売されるという有様だった。
伊勢丹は、昭和28年(1953年)6月28日になってようやく接収が解除され、昭和28年10月24日に接収解除後の新装オープンする。
しかし、他の百貨店は一足先に接収解除が解除されており、伊勢丹は他の百貨店に後れを取った。
山本宗二は接収解除にともない、昭和28年(1953年)6月に取締役を重任し、新装オープンにともない昭和28年10月に取締役企画部長兼営業第2部長に就任して、二流の伊勢丹で順調に出世していた。
伊勢丹の社長を務める2代目・小菅丹治の長男は小菅利雄(後の3代目・小菅丹治)と言い、繊維卸「佐々木営業部(後のレナウン)」に在籍していた。
その小菅利雄(3代目・小菅丹治)が戦後の昭和23年(1948年)に伊勢丹に入社し、伊勢丹の取締役に就任していた。
そして、小菅利雄(3代目・小菅丹治)は、欧米の百貨店を視察するため、昭和26年(1951年)に3ヶ月にわたる欧米視察を行った。
このときに小菅利雄(3代目・小菅丹治)は全米小売業者協会が作成した「バイヤーズ・マニュアル」を持ち帰り、伊勢丹は「バイヤーズ・マニュアル」を研究して取り入れることになる。
伊勢丹の山本宗二は「バイヤーズ・マニュアル」を読んで自分の考えが正しいと確信し、徹底したMD(商品分類)戦略を展開していくことなる。
そのようななか、伊勢丹は、昭和28年(1953年)に子供服売り場の拡張を決定した。
そして、子供服売り場の主任を任されたのが、山本宗二の秘書を務める山中鏆(やまなか・かん)だった。山中鏆は後に「ミスター百貨店」と呼ばれる人物である。
さて、伊勢丹とレナウン(元・佐々木営業部)は社長同士が親戚関係にあったので、子供服売り場を任された山中鏆は、レナウンの社長・尾上清に相談した。
すると、尾上清は「子供服ならファミリアへ行って勉強しなさい。日本一だよ」と教えた。
子供服ブランド「ファミリア」は、レナウンの創業者・佐々木八十八の3女・坂野惇子(佐々木惇子)が終戦直後に神戸で創業した。
坂野惇子は、日本製品が粗悪品の代名詞だった時代から、一切の妥協を許さない高品質な子供服を製造しており、阪急百貨店の社長・清水雅に見出されて台頭していた。
山中鏆はファミリアについて調べ、ファミリアの品質の良さに驚いていた矢先、東京・高島屋がファミリアの子供服展を開き、子供服展を大成功させていた。
後れを取った山中鏆は、七五三にあわせて昭和29年(1954年)10月下旬の1週間、ファミリアに子供服展の開催を要請すると、ファミリアは十分な準備期間を条件に子供服展の開催を引き受けてくれた。
早速、山中鏆はファミリアに計画書を送るが、ファミリアの創業者・坂野惇子は伊勢丹の計画書に納得せず、レポート用紙40枚わたる計画書を送り返した。
ちょうど、伊勢丹は「バイヤーズ・マニュアル」を研究していたので、ファミリアから送られてきたレポートを見た山中鏆は、ファミリアから学ぶところが大きいと考え、部下の鈴木祥三をファミリアに付けレポートさせた。
ファミリアの坂野惇子は販売を専門的に学んでいなかったが、常にお客様の事を考えて販売方法を研究していたので、自然と販売の専門知識を身につけていた。
さらに、ファミリアの坂野惇子は、開催中の子供服展が成功しているのに、当然のように毎晩、反省会を開き、夜遅くまでレイアウトを変更するなど、販売に対して余念が無かった。
当時の伊勢丹は二流の百貨店だが、こうしてファミリアから販売の知識を吸収して、伊勢丹躍進の原動力となる「販売テキスト」を完成させたのである。
そして、山本宗二は昭和31年(1956年)に伊勢丹に「ティーンエイジャー・ショップ」をオープンする。
この「ティーンエイジャー・ショップ」が大成功し、伊勢丹は「ファッションの伊勢丹」と呼ばれるまでに成長することになる。
この「ティーンエイジャー・ショップ」の責任者を務めたのも山中鏆で、山中鏆は山本宗二から多くを学び、後に松屋の経営危機を救い、「ミスター百貨店」「百貨店経営の神様」と呼ばれるようになる。
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山中鏆の部下・鈴木祥三は、知人の老父婦から、ニューヨークのデパートで使用している包装紙を見せられ、便利だと教えてもらう。
鈴木祥三が早速、上司の山中鏆に包装紙を見せると、山中鏆は山本宗二に取り次いだ。
当時の百貨店は折り箱を組み立てて、紐を掛けており、かなりの経費がかさんでいたので、山本宗二は包装紙を即決で採用し、「ティーンエイジャー・ショップ」で使っていたタータンチェックを包装紙の柄に採用した。
こうして、伊勢丹のイメージとなるタータンチェックが採用されたのである。
昭和30年ごろになると、既製服は登場し始めていたが、既製服は「S」「M」「L」といった大まかなサイズしかないうえ、各社でサイズばバラバラだったこともあり、普及していなかった。
このころ、既製服は「ツルシ」と呼ばれ、嫌われており、百貨店の主力はイージーオーダーだった。しかし、イージーオーダーは客からのクレームも多かった。
そこで、伊勢丹の山本宗二は、既製服に着目し、「イージーオーダー部門を潰す」と意気込み、既製服に力を入れた。
伊勢丹は、昭和31年(1956年)に「衣装研究室」を発足し、イージーオーダーや服飾学校などのデーターから、独自に日本人標準体型を定め、昭和33年(1958年)の暮れに「100万人の既製服」として発表した。
さらに、伊勢丹は、日本で初めてアメリカ式のサイズ展開のドレスを販売した松方真を「衣装研究室」に迎え入れた。
松方真は、各社のサイズ規格がバラバラであれば既製服は普及しないと考え、各社でサイズの規格を統一することを提案した。
そして、昭和38年(1963年)11月に、伊勢丹・高島屋・西武百貨店・レナウン商事・オンワード樫山・山陽商事など各社が協賛し、「5号」「7号」「9号」「11号」「13号」「15号」という婦人服サイズの統一規格と、各サイズに異なる色のタグを付けて販売する事が発表された。
こうして既製服のサイズに統一規格が誕生したことにより、既製服が普及していき、服は「作る時代から買う時代」へと変化していった。
しかし、既製服の普及に力を入れていた山本宗二は、婦人服の統一規格を発表する直前に伊勢丹を去り、東横百貨店(現在の東急百貨店)へと移る事になる。
山本宗二は、伊勢丹の社長である2代目・小菅丹治から全てを任され、徹底したDM(商品分類)戦略で、二流の伊勢丹を一流の百貨店へと引きあげ、「ファッションの伊勢丹」と呼ばれるまでに成長させた。
そして、山本宗二は「伊勢丹の山本」として、百貨店業界でその名を馳せていた。
このようななか、昭和35年(1960年)6月に3代目・小菅丹治(小菅利雄)が伊勢丹の社長に就任し、2代目・小菅丹治は会長へと退いた。
そして、昭和36年9月16日に会長の2代目・小菅丹治が死去すると、山本宗二は昭和38年(1963年)5月に退職を発表し、同年7月に伊勢丹を退職した。
山本宗二が伊勢丹を退職する理由は諸説あるが、一番有名な説は社長に就任した小菅利雄(3代目・小菅丹治)との軋轢である。
2代目・小菅丹治は、山本宗二を信頼し、営業の全てを任せており、山本宗二は社内で「山本天皇」と呼ばれるほどの存在になっていた。
しかし、新しく社長に就任した小菅利雄(3代目・小菅丹治)は、2代目・小菅丹治の方針を引き継ぐ事ができず、山本宗二と対立し、山本宗二を第一線から遠ざけた。
こうして、山本宗二は第一線で働けなくなったため、伊勢丹を退職したのだという。
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さて、山本宗二が伊勢丹から退職する事を発表すると、各社が山本宗二を取得するために山本宗二を日参した。
このようななか、山本宗二は、東急グループ総帥・五島慶太の要請を受け、東横百貨店(現在の東急百貨店)への入社を決定する。
東横百貨店(東急百貨店)は、「乗っ取り屋」の横井英樹に狙われた百貨店「白木屋」を対等合併したのだが、合併の費用や社内の対立など負の遺産を抱えて、経営不振に陥っていた。
山本宗二は東急グループ総帥・五島慶太から全幅の信任を受け、昭和38年9月に東横百貨店(東急百貨店)の代表取締役営業担当副社長に就任し、第一線に復帰する。
また、同日、五島慶太の長男・五島昇が、経営再建のために東横百貨店(東急百貨店)の社長に就任した。
こうして、山本宗二は、新社長・五島昇の元で、旧態依然とした東横百貨店(東急百貨店)の老害役員を排除しつつ、東横百貨店(東急百貨店)の経営再建に奔走した。
そして、山本宗二は徹底した合理化で東横百貨店を再建し、東横百貨店は昭和42年(1967年)9月に「東急百貨店」へと称号を変更した。
しかし、山本宗二は昭和43年(1968年)、取引先の倒産や女性スキャンダルに相次いで巻き込まれてしまう(ただし、いずれものスキャンダルも山本宗二に非は無いという)。
山本宗二は、取引先の倒産や女性スキャンダルに巻き込まれた頃から体調を悪化させ、昭和46年(1971年)10月7日に慢性胆嚢炎で死去した。享年63。勲四等瑞宝章を受章した。
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