山崎豊子の立志伝

「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」などを書いた国民的作家・山崎豊子の生涯を描く立志伝です。

山崎豊子の立志伝

山崎豊子(本名は杉本豊子)は、大正13年(1924年)1月2日に、大阪の老舗の昆布屋「小倉屋山本」で、5人兄弟(兄2弟2)の長女として生まれた。父親は山崎菊蔵、母親は山崎マスである。

山崎豊子は、昭和11年(1936年)に芦池尋常小学校(大阪市立南小学校)を卒業し、昭和16年に相愛高等女学校を卒業した。

女学校は自宅から10分ほどの場所にあり、丁稚や女中が送り迎えしていたうえ、通学路にある店ではツケで買えたので、財布を持つ必要が無く、山崎豊子は女学生時代に財布を持ったことがなかった。

山崎豊子は、財布を持っている他の生徒を羨ましく思っており、京都女子専門学校(京都女子大学)の国文学科へと進学して、初めてお小遣いを貰い、財布屋でも開くのかというほど財布を買った。

昭和16年に山崎豊子は1ヶ月の小遣いが5円で、毎日のように、京都で一番高いフルーッパーラー「八百文(やおぶん)」のマロンクリームを食べて映画を観ても、小遣いには不自由しなかったという。

このころ小学校の教員の初任給が約50円なので、5円は現在の2万というところだろう。

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母親の教え

山崎豊子は、小遣いを貰うようになって半年ほどしたある日、母親から小遣い帳を見せるように言われたので、小遣い帳を見せた。

すると、小遣い帳には、財布6円、友達への贈り物2円50銭っとなっていたので、母親は「これはなんですか」と尋ねた。

山崎豊子は意味が分からなかったので、「それがどうしたんですか?ダメでしたか?」と尋ねると、母親は「自分の持ち物の財布に3円も贅沢して、なぜ、友達への贈り物に2円50銭しか使わないのですか。自分に使うお金は節約しても、人様との付き合いは綺麗にするべきです」「それが無駄金を使うな、生き金を使えということです。小遣い帳に恥ずかしくて書けないような使い方はするな」と教えた。

それ以降、山崎豊子は、自分の持ち物を買うときは、労を惜しまず、心斎橋筋を往復して安い店で買い、友達との付き合いを立派なものにするように心がけた。

兵役逃れ

山崎豊子は、京都女子専門学校(京都女子大学)2年生の時に学徒動員で軍需工場へ派遣されて、毎日、弾磨きをさせられ、そのまま卒業を迎えた。

山崎豊子は、教師を志望していたが、戦争の影響で教師の道は閉ざされていた。このまま就職しなければ、軍事工場で働かなければならなかった。

そこで、山崎豊子は、昭和19年(1944年)に京都女子専門学校を卒業すると、「兵役逃れ」の目的で、毎日新聞に入社した。

毎日新聞時代

毎日新聞に入社した山崎豊子は、大阪本社の調査部に配属された後、翌年の昭和20年(1945年)に学芸部に配属された。

山崎豊子は記者としては筆が遅いため、ニュース性のある記事は苦手だった。このため、学芸部の副部長・井上靖から、調査して書く企画記事を任されるようになった。

そして、終戦後の紡續工場の実態を調べた「昭和女工哀史」の記事が井上靖に認められ、山崎豊子は退社後に井上靖から誘われるようになった。

こうして、山崎豊子は、井上靖との交流が始まり、井上靖が出勤前に小説を書いている事を知った。

なお、山崎豊子は、かなりのイケメン好きで、記者時代に数多くのボーイフレンドと交際をし、両親をヒヤヒヤさせたという。

また、山崎豊子は毎日新聞時代に、後に夫となる毎日新聞の同僚・杉本亀久雄、後に下着デザイナーとなる読売新聞の鴨居羊子、その弟で画家の鴨居玲と親密な付き合いをしていた。

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作家デビュー

井上靖は、戦後の記者不足から、毎日新聞で働きながら小説を書いていたが、昭和25年(1950年)に小説「闘牛」で芥川賞を受賞した事を機に、翌年の昭和26年に毎日新聞を退社して、作家生活へと入った。

このとき、山崎豊子は、井上靖から「君も小説書いてみては。人間は自分の生いたちと家のことを書けば、誰だって一生に一度は書けるものだよ」と言われた。

山崎豊子は手当たり次第に小説を読んでいたが、小説を書こうとは思ったことが無く、井上靖の言葉に衝撃を受け、小説を書くことにした。

山崎豊子はナマケモノだったので、井上靖のように毎朝、5時に起きて小説を書くということは出来ず、日曜日を小説にあてることにしたが、新聞社の仕事をしながら小説を書くことは容易ではなく、何度も挫折しそうになった。

しかし、その度に井上靖が苦労して小説を書いていた様子を思い出し、7年をかけ、昭和32年に、実家の「小倉屋山本」をモデルにした処女作「暖簾」を書き上げ、小説家としてデビューした。

すると、「中央公論」から連載の依頼が来たが、7年をかけて「暖簾」を書き上げた山崎豊子は、毎月、原稿30枚も書くことが出来ないと思い、連載を固辞した。

しかし、担当者の熱意に押されて、連載を引き受け、昭和33年に、吉本興業の創業者「吉本せい」をモデルにした2作目「花のれん」を執筆した。

この「花のれん」が直木賞の候補となったが、直木賞の本命は小説「赤い雪」を書いた榛葉英治で、山崎豊子は全く注目もされていなかった。

このため、山崎豊子自身も直木賞を取れるとは思っておらず、発表の日も普通に出勤していた。

ところが、出先から会社に帰ってくると、他社の取材陣が毎日新聞に取材に来ており、山崎豊子は取材を受けて、始めて直木賞を受賞した事を知った。

井上靖からも「直木賞受賞おめでとう 橋は焼かれた」という電報が届いた。

決断

山崎豊子は昭和33年(1958年)に「花のれん」で直木賞を受賞した直後、「週刊新潮」の名編集者・齋藤十一から連載を依頼された。毎週、原稿20枚の連載だった。

死ぬような思いで毎月30枚を書いていた山崎豊子にとって、毎週20枚など、とても働きながらかける枚数では無いので、連載を断り続けた。

しかし、編集者・齋藤十一は納得せず、「貴女、おそらく生涯、原稿用紙と万年筆だけがあればいい人なんだ、臆せず書くことですよ」と言い、山崎豊子を説得した。

プロの作家になる自信がなく、困った山崎豊子は、井上靖に相談すると、井上靖は「思いきってやってみたらどう?筆1本でやれないことはない」と言った。

すると、山崎豊子は井上靖の言葉で、プロの作家になる決断をして、昭和33年に会社を辞めて、作家生活に入り、半年間の取材期間を経て、昭和34年1月に「ぼんち」の連載を開始した。

連載の途中で結核が再発したが、闘病生活を送りながら連載を続け、同年12月に「ぼんち」の連載を完結させた。

なお、連載前に、編集者・齋藤十一から、東京では「ぼんち」の意味が分からないと言われ、タイトルの変更を求められたが、山崎豊子は『「ぼんち」以外の題名では書けません」と言い、タイトルは「ぼんち」のまま押し通した。

しぶちん

「しぶちん」は昭和34年(1959年)に書いた短編小説である。山崎豊子は長編よりも短編の方が好きで、編集者も「短編の方が上手い」と褒めてくれるのだが、誰も短編を書かせてくれないのだという。

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「女の勲章」と「結婚」

山崎豊子は昭和35年(1960年)2月から、毎日新聞で「女の勲章」の連載を予定していたが、執筆の直前に病気で倒れてしまったため、パリ取材ができず、連載の中止を申ししれた。

しかし、編集者は、パリの部分は1年後なので、それまでにパリ取材をすればいいではないかと言った。

このため、山崎豊子は、パリ取材を後回しにして、執筆を開始した。

ところが、体調が一向に回復せず、パリの取材が不可能になったので、日本に2つしかないというパリの立体地図を入手して、立体地図と参考資料を基にして、小説を書いた。

山崎豊子が取材せずに小説を書いたのは、生涯の中で「女の勲章」だけである。

さて、山崎豊子は、単行本の初版が出た後、体調が改善したので、描写が間違っていれば、第2版で加筆訂正することにして、パリへと向かった。

すると、調べて書いたパリが実際のパリと寸分違わずに書けていたので、満足してパリを満喫していた。

しかし、日がたつにつれて不快になり、パリで生活している人が書かなければ、パリを書き切ったことには、ならないと思い、パリで自炊生活に入った。

この間にポルトガルも訪れた。ポルトガルも現地取材をせずに、資料だけで書いていたが、寸分違わずに書けていた。

ただ、小説内のサンタ・マリア僧院にはステンドグラスの描写があるのだが、実際のサンタ・マリア僧院にはステンドグラスが使われていなかったので、第2版で加筆訂正した。

なお、山崎豊子は、パリ留学を利用し、昭和36年に、毎日新聞大阪本社学芸部の同僚記者・杉本亀久雄とパリで結婚式を挙げている。

女系家族

小説「女系家族」は、長男が居ても、長男に商売の才能が無ければ、優秀な男を婿に取り、娘に家業を継がせるという「女系相続」の風習をテーマにした小説である。

小説「女系家族」は、相続法が関連しているため、山崎豊子は弁護士から遺産相続の講義を受け、「女系家族」を書き上げた。

白い巨塔

山崎豊子は、入院中の病院に様子をヒントを得て、昭和38年(1963年)に、医大の闇をテーマとした「白い巨塔」の連載を開始した。

「白い巨塔」は、大阪の浪速大学医学部を舞台としていたことから、大阪大学医学部がモデルとされ、連載を開始して早々に、大阪大学医学部から反発があった。

このため、以降は大阪大学では取材をすることが出来なくなり、ちょっとした事でも他県の大学や東京の大学で取材をしなければならなくなった。

さらに、連載の後半で「白い巨塔」の誤診裁判が社会問題となり、誤診で苦しむ読者らが誤診を支持し、医師会や医師は誤診を批判した。

当時、医療界は聖域であり、「誤診」という言葉すらタブーで、誤診裁判に対する反響は大きく、その結末に注目が集まった。

山崎豊子は、心境的には医師・財前五郎を敗訴させて、誤診の責任を取らせたかったが、小説といえども、現実の法律を無視した判決を出すことは出来ないため、誤診を認めず、医師・財前五郎が勝訴するという結末にした。

この結末は、山崎豊子が医師会からの圧力に屈したのではなく、現実の法律に則った結末であり、医療訴訟の難しさを表したものだという。

「白い巨塔」の連載が終了すると、怒りの手紙が数多く寄せられ、山崎豊子は1通の手紙に心をうたれたが、既に「白い巨塔」は人間ドラマとして完結していた。

このため、山崎豊子は「小説的生命を全うしようとすれば、既に完結してしまっている小説の続編は書くべきではなく、作家としての社会的責任を考えれば、小説の成果の危険をおかしてでも書くべきである」と苦悩した。

しかし、山崎豊子は、最終的に社会的な責任を取ることを決断し、続編の連載を開始した。

前編の誤診裁判は、医師・財前五郎が第1審で勝訴していたので、1審の勝訴を覆すことに苦労したが、医師や弁護士の協力を得て、続編を書き上げた。

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仮装集団

山崎豊子は、昭和35年(1960年)頃、「労音(勤労者音楽協議会)」の音楽会に誘われ、音楽会に通っていた。

「労音」の音楽会は、通常は1200円は出さなければ聞けない音楽を、300円という安い値段で聞くことが出来た。

しかし、「労音」の音楽会は、オペラなどで強引な解釈をしており、音楽を聴かせるという名目で、政治的な目的を持った団体を組織しようとしているのであれば、大衆への欺瞞だと思った。

やがて、山崎豊子は「特定のイデオロギーを持つ一つの音楽集団を、イデオロギーを持たない人間が牛耳ったら、そこにどのようなドラマが生まれるだろうか」と創作的興味を持つようになり、昭和41年に小説「仮装集団」の連載を開始した。

小説「仮装集団」は、労働者側の「労音」をモデルにした分けではなく、小説を書くイメージ作りのための取材だったが、「労音」から取材を拒否された。

一方、経営者側の「音協(音楽文化協会)」は、快く取材に応じてくれていたが、「仮装集団」の連載が始まると、協力を拒否。財界からも「仮装集団」に非難の声が上がった。

さらに、「仮装集団」の連載中に、東京労音の新交響楽団で指揮をしていた芥川也寸志が、音楽が政治的に利用されていることに不満を持ち、東京労音から独立して「新交響楽団」を設立するという事件が起きた。

山崎豊子は「仮装集団」で、音楽と政治の結びつきを問題定義しようとしていたが、それが現実の世界で起きてしまったので、非常に書きにくい作品だったという。

「花宴」の盗作事件

山崎豊子は、昭和42年に「婦人公論」で、小説「花宴」の連載を開始した。「花のれん」「花紋」に続く花シリーズの第3弾である。

しかし、最終回を目前に迫った昭和43年に、朝日新聞の読者の指摘により、小説「花宴」にレマルクの「凱旋門」の盗作があることが判明した。

山崎豊子は、朝日新聞からの指摘を受け、「凱旋門」の翻訳者・山西英一に許してもらい、朝日新聞にも事情を説明したが、朝日新聞は夕刊で山崎豊子の盗作を報じた。

山崎豊子は、朝日新聞の取材に対して、「制作の過程で、秘書が資料集めしたときに起った手違い」と釈明し、盗作を秘書のミスにしていた。

しかし、秘書・野上孝子は、山崎豊子が「花宴」と平行して執筆していた「白い巨塔(続編)」を担当しており、「花宴」にはタッチしていなかったので、夕刊を読んで山崎豊子に激怒した。

その後、山崎豊子の「花宴」は、芹沢光治良の「巴里夫人」や中河与一の「天の夕顔」からも盗用していたことが判明し、山崎豊子は、日本文藝家協会から事情聴取を受けた。

日本文藝家協会の事情聴取のメンバーには恩人の井上靖も居たが、山崎豊子が日本文藝家協会から退会する形となった。

日本文藝家協会は、「山崎氏が今後筆を断つことが望ましい」「文壇的生命は一応終わったと考えられる」との談話を発表し、山崎豊子を断罪したが、その後、山崎豊子は日本文藝家協会に復帰している。

さて、山崎豊子は、「婦人公論」で盗用事件を謝罪し、「花宴」の連載は完結したものの、書籍化は中止され、「婦人公論読者賞」も返上した。

「花宴」と平行して執筆していた「白い巨塔(続編)」は、読者からの応援の声も多く、連載は継続された。

そして、今回の盗作事件で何か感じる物があったのか、山崎豊子は「白い巨塔(続編)」の結末を書き換えた。

華麗なる一族

山崎豊子は、三重県の伊勢観光ホテルで、華やかな一族を目撃していた。

その一族は、神戸財界の企業オーナー一族らしく、主人は、ときどき、夫人と熟年の美女を連れていた。

その熟年の美女は、主人の愛人らしく、主人は愛人を自宅に同棲させているという噂だった。いわゆる「妻妾同居」である。

山崎豊子は、「白い巨塔」の続編を終えると、「週刊新潮」での連載が決まっていたので、題材に困っていた。

そこで、鉄鋼関係のオーナーの背徳的な「妻妾同居」を描こうとしたが、銀行の方が、そのような生活が許されないとして、銀行へと切り替え、当時の金融再編を背景に、小が大を食うというストーリーを考えたという。

同時の銀行は、資本主義の中枢であり、新聞も書くことが出来ない金融界の聖域で、「怖い存在」だった。

山崎豊子は、融資を得る必要が無いので、書く事は出来るが、出版社は銀行と付き合いがある。

そこで、山崎豊子は、「華麗なる一族」の連載を開始する5ヶ月前に、三菱銀行の頭取・田実渉に会って、小説のテーマを話し、銀行業界で問題になり、掲載誌の「週刊新潮」に迷惑がかからないか尋ねた。

すると、頭取・田実渉は「小説という形で書かれた限り、小説として読むでしょう」「書く限りは金融、銀行についてよく勉強して書かれることです」と言い、三菱銀行を見学させてくれ、三菱銀行と第一銀行の合併が破談になった経緯を話してくれた。

山崎豊子は、三菱銀行の行員に、下位銀行が上位銀行を飲み込む合併の設定を教えて欲しいと頼むが、「それはあり得ません」と言われてしまう。

しかし、山崎豊子は、小が大を飲み込まなければ小説にならないと言い、「空想でいいですから、例えばどういうことなら成り立ちますか、選りすぐりのエリートの方々なら、答案は直ぐに書けるでしょう」と無理難題を突きつけた。

そこで、三菱銀行の行員3人が知恵を絞り、「小が大を食う」という設定が出来上がった。

さらに、山崎豊子は、住友金属の社長・日向方斎を取材し、住友金属の経理部が小説に登場する鉄鋼会社「阪神特殊鋼」のバランスシートを作成してくれた。

そして、山崎豊子は、戦後最大級の大型倒産となった「山陽特殊鋼」を取材して、小説「華麗なる一族」の連載を開始した。

山崎豊子はモデルの存在を否定しているが、「華麗なる一族」のモデルは神戸の岡崎財閥だと噂された。

モデルとされた岡崎銀行の頭取・岡崎忠は、背徳的な家族関係が描かれている事に激怒し、山崎豊子を名誉毀損で訴えるために弁護士に依頼して準備万端に整えていた。

しかし、知り合いの作家や新聞社の社長に相談すると、「最期に『フィクションです』と書いたら、フィクションになる。誰も貴方がモデルとは思いませんよ」と言われ、尊敬している人からのアドバイスもあり、岡崎忠は訴訟を思いとどまった。

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不毛地帯

山崎豊子は、「華麗なる一族」の連載を終えて、次のテーマを考えているとき、「サンデー毎日」の編集長から、大本営作戦参謀だった商社マン瀬島龍三を紹介された。

そして、山崎豊子は、瀬島龍三や商社を取材。シベリアを取材して「白い大地」というタイトルを考えたが、イランの石油精製地を見学して「赤い大地」というタイトルが浮かんだ。

しかし、「白い大地」も「赤い大地」もタイトルとしてはシックリこないので、悩んだあげく、昭和48年に「不毛地帯」というタイトルで連載を開始した。

ところが、連載途中で盗作疑惑が浮上。今井源治(いまい・げんじ)の著書「シベリヤの歌-兵士の捕虜記」と酷似している部分が複数箇所あるというのだ。

しかし、山崎豊子は、シベリア抑留について、10数人を取材し、書籍も20数冊を調べていたので、山崎豊子は参考資料の1つとして、今井源治と話し合いを開始する。

そのようななか、今井源治の知人が朝日新聞に山崎豊子の盗用を告発。山崎豊子は、複数を取材した結果、体験に共通点が多く、歴史的な公知の事実であるとして、盗用を否定したが、朝日新聞は昭和48年(1973年)11月に山崎豊子の盗用を報じた。

大勢のマスコミが詰めかけ、連載どころでは無くなったので、山崎豊子は「不毛地帯」の連載を休止し、謝罪広告の掲載を求め、朝日新聞を提訴した。

(注釈:盗用された今井源治との裁判ではなく、盗用を報じた朝日新聞を相手取った裁判である。)

山崎豊子は半年間の休止を経て「不毛地帯」の連載を再開した。

一方、朝日新聞との裁判の方は、裁判長から2度の和解勧告があったが、山崎豊子は「作家の命を賭けて提訴したのです。一審だけは勝たせて下さい」と和解を拒んだ。

しかし、山崎豊子は、恩人である「週刊新潮」の編集長・齋藤十一から、「裁判に勝っても、作品で負ければ、作家的生命は終わりだ」と言われ、和解勧告を受け入れた。

こうして、盗用の汚名を着せられた山崎豊子だったが、昭和53年(1978年)に次期主力戦闘機を巡る汚職事件「ダグラス・グラマン事件」が発生。「不毛地帯」では次期主力戦闘機を巡る商戦を描いており、先見の明としてもてはやされたのだった。

教育者の夢を叶える

昭和53年(1978年」)9月、「不毛地帯」の単行本4巻が発売された直後に、ハワイ州立大学から客員教授に招かれた。

山崎豊子は、小説中心の生活で、夫婦生活が上手くいっていなかったこともあり、客員教授を引き受け、これを機に仕事をセーブして、家庭を立て直すことにした。

山崎豊子は日本文化の講義を頼まれたので、「上方文化」の講義することにして、自分の著書「暖簾」「花のれん」「ぼんち」をテキストにして、大阪・船場の風習や妾制度などを講義した。

そして、山崎豊子がハワイで客員教授をしている間に、ドラマ「白い巨塔」で主人公を演じていた俳優・田宮二郎が猟銃を使って自殺した。

それを知った山崎豊子は、「華麗なる一族」に登場した万俵鉄平と同じ死に方だと驚いた。

二つの祖国

山崎豊子は、ハワイ州立大学の客員教授を引き受けたことを機に、仕事をセーブすると言っていたが、ハワイ出発前に「週刊新潮」から次作を依頼されており、ハワイ州立大学で教鞭をとる一方で、日系2世の取材を開始していた。

そして、山崎豊子は任期を終えて帰国すると、本格的に取材を開始し、昭和55年(1980年)に「二つの祖国」の連載を開始した。

連載前に恩人の編集者・齋藤十一から、「祖国」は保守的だとして、タイトルの変更を求められたが、山崎豊子は「タイトルだけは譲れない」として「二つの祖国」で押し通して連載を開始した。

しかし、今度はNHKがタイトルを変更したいと要請してきた。

連載中にNHKで「二つの祖国」の大河ドラマ化が決まったのだが、日系アメリカ人の戦時賠償問題がデリケートな時期だったことから、アメリカの日系議員がNHKに猛烈な抗議を行ったのだ。

このため、NHKは内容は変更しないが、タイトルを「山河燃ゆ」に変更して大河ドラマを制作したいというのだ。

山崎豊子は小説の時はタイトルを譲らなかったが、大河ドラマでは大人の事情により、タイトルの変更を認めた。

なお、山崎豊子は、最期まで書き続けることが、兄弟への看病だと思って頑張っていたが、「二つの祖国」の連載中に、兄が「白い巨塔」の主人公・財前五郎と同じ噴門癌で死去。その半年後に弟も死去した。

大地の子

山崎豊子は、検事・伊藤栄樹と弁護士・伊坂重昭をモデルに小説を書こうと思い、取材を開始したが、モデルが検事や弁護士では書きにくいことに気付いた。

そのようななか、山崎豊子は、中国・北京の中国社会科学院から研究員に招かれた。海賊版の小説「華麗なる一族」と映画「華麗なる一族」のヒットにより、中国にも山崎豊子の名前は知れ渡っていたのである。

そこで、山崎豊子は、これ幸いと、研究員を引き受けて取材を中止し、昭和59年6月に中国へと渡った。

1ヶ月ほどすると、中国の出版社の幹部が尋ねてきて、中国の革命家・孫文と結婚した宋慶齢を書かないかと打診されたが、山崎豊子は「私には、とても中国人は書けない」と断った。

すると、幹部は、「先生は『二つの祖国』でアメリカ人を書いているのに、どうして中国人はかけないのですか」と言った。

その言葉を聞いて山崎豊子は、中国には残留孤児問題があることに気づき、残留孤児を小説のテーマに決め、中国社会科学院での義務を終えると、中国で残留孤児の取材を開始した。

山崎豊子は、中国のトップである中国共産党の総書記・胡耀邦との会談が実現し、総書記・胡耀邦から取材を許可された。

こうして、山崎豊子は、外国人では取材できないような場所も取材することができ、3年にわたる取材を終えて、小説「大地の子」の連載を開始したのだった。

さて、連載中の平成元年4月に恩人の胡耀邦が死去した。中国政府は外国人の弔問を受け入れないという方針だったが、山崎豊子は拘束されることを覚悟で中国へと渡り、胡耀邦の自宅を訪れて霊前に花を手向けた。

小説「大地の子」は「文藝春秋読者賞」と「菊池寛賞」を受賞。山崎豊子は始めて自ら映画化に動き、中国での映画化の話が持ち上がった。

しかし、中国では、外国人が書いた中国文化革命の本は認められず、担当者が音信不通となり、中国語の翻訳本も禁止となった。

その後、NHKの放送70周年記念番組として「大地の子」のドラマ化が決定。日中の共同制作で平成7年に映像化された。

ところが、ドラマ化が切っ掛けに、小説「大地の子」には、遠藤誉の「チャーズ・出口なき大地」と酷似した部分があるとして、山崎豊子に盗用疑惑が浮上した。

そして、「チャーズ・出口なき大地」の著者・遠藤誉が山崎豊子を訴えたのである。

しかし、この裁判は、「チャーズ・出口なき大地」は歴史的な事実として書かれた物であるとして、遠藤誉は敗訴した。

沈まぬ太陽

平成3年(1991年)、「大地の子」の連載が終わると、次は「週刊新潮」で連載する順番だったが、山崎豊子は、もう67歳になっていた。

夫・杉本亀久雄が糖尿病を悪化させて入退院を繰り返していたこともあり、山崎豊子は満身創痍だった。

このため、山崎豊子は「大地の子」の連載を終えると、「駄作を書いて終わりたくない」と言い、引退を決意して、恩人である「週刊新潮」の編集長・齋藤十一に挨拶に行った。

しかし、齋藤十一は「芸能人に引退はあるだろうが、芸術家にはない。書きながら棺に入るのが、あなたの宿命だ」「時に、私の死期は近い。生前に香典原稿を戴きたい」と言った。

香典原稿とはなんとも重い要求だと思いながらも、山崎豊子は断ることが出来ず、仕方なく香典原稿を書くことにした。

香典原稿は仕方なく引き受けたのだが、少しすると、山崎豊子はやる気を取り戻しており、日本航空の労働組合長・小倉寛太郎をモデルにした小説を書くことを決めると、取材を開始した。

そのようななか、夫・杉本亀久雄が平成4年(1992年)に死去してしまうのだった。

さて、山崎豊子は、取材を進めていくうちに、テーマは日本航空の労働組合の問題だけでは収まらなくなり、取材は日本航空123便墜落事故(御巣膳山墜落事故)や事故後の会社再建にまで及んだ。

そして、それぞれのテーマで1冊の小説がかけるほどの内容だったので、山崎豊子は「大地の子」を三部作とし、平成7年(1995年)から、「週刊新潮」で連載を開始した。

連載が始まると、モデルとなった日本航空が「週刊新潮」の機内搭載を中止し、「週刊新潮」から広告を引き上げたが、「週刊新潮」の編集長・山田彦彌は連載を継続した。

内容が内容だけに名誉毀損のリスクがあるため、山崎豊子は「週刊新潮」の編集部と議論に議論を重ねており、連載中の5年間は1日も気を抜くことが出来なかったという。

山崎豊子は、最終回の原稿を書き上げ、「週刊新潮」に最終回の原稿を渡すと、そのまま倒れて入院。胆石が見つかったため、即手術となった。

一方、5年間を一緒に戦い抜いた「週刊新潮」の編集長・山田彦彌は、連載終了後に死去してしまう。

しかし、恩人・齋藤十一が山田彦彌の葬儀には出ないというので、山崎豊子は初めて恩人・山田彦彌を批判した。

その後、恩人・齋藤十一も死去してしいまい、山崎豊子は相次いで恩人を失うのだった。

運命の人

山崎豊子は、平成12年(2000年)にヨーロッパを訪れて、しばらくパリに滞在していたが、パリの様子に失望したため、予定を早めて帰国した。

「大地の子」の次作は「文藝春秋」で連載する番で、第4の権力「マスコミ」をテーマにした小説を書くことにしていたが、パリからの帰国後も良いテーマが見つからずに困っていた。

戦争嫌いだった山崎豊子は、3年前に「ひめゆり学徒隊」を取材しており、沖縄について書かなければならないと思っていたが、沖縄県出身ではない自分が独特の文化を持つ沖縄について書くことは困難だと考えていた。

そのようななか、山崎豊子は、昭和46年(1971年)に「外務省機密漏洩事件」を起こした毎日新聞政治部の元記者・西山太吉の事を思い出した。

昭和46年(1971年)、毎日新聞政治部の記者だった西山太吉は、外務省の事務官・蓮見喜久子と肉体関係を持ち、事務官・蓮見喜久子を使って沖縄返還協定に関する外務省の機密文書を持ち出して、密約の存在を記事にしたが、ネタ元を秘匿するあまり、スクープにはならなかった。

そこで、昭和47年、西山太吉は社会党の横路孝弘に機密文書を渡し、国会で沖縄返還協定の密約を追求した。

しかし、横路孝弘がネタ元を秘匿する措置をとっていなかったことから、ネタ元が明らかとなり、西山太吉らが国家公務員法違反で有罪判決を受けた。

これが「外務省機密漏洩事件」である。

さて、山崎豊子も毎日新聞に在籍していたが、山崎豊子は大阪の毎日新聞で、西山太吉は東京の毎日新聞だったので、面識は無かった。

そこで、編集部に西山太吉について調べてもらうと、西山太吉は健在だった。

早速、取材を依頼すると、西山太吉は「事実を書いてくれるのなら、妻も納得するだろう」と言い、取材に応じてくれた。

しかし、事件から30年が経過しており、西山太吉も当時の資料の大半を破棄していた。裁判の記録を読むことも難しく取材は難航するかと思われた。

ところが、幸運なことに、外務省機密漏事件の裁判で、西山太吉の弁護を担当した弁護士・大野正男が、最高裁の判決を不服に思い、後世に適正な評価が下るよう、裁判の資料を東京大学の図書館に寄贈していたのである。

早速、山崎豊子が問い合わせると、弁護士・大野正男は「私が生きているうちには駄目だろうと思っていましたが、こんなに早く訪ねてくる人が現れるとは、嬉しい驚きです」と喜び、裁判記録の閲覧を許可してくれた。

こうして、山崎豊子は、「外務省機密漏洩事件」をモデルに小説を書くことに決めて取材を開始し、平成17年(2005年)から「運命の人」の連載を開始した。

山崎豊子は、この頃から原因不明の病気で痙痛に苦しむようになっており、「もし途中で筆を止めたら、兄弟に続いて死んでしまうのではないかという恐怖感から逃れたかった」という思いで、最期まで描き続け、「運命の人」を完結させた。

約束の海

平成12年(2000年)以降、各テレビ局が山崎豊子の小説を相次いでドラマ化した。「運命の人」も2012年にTBSでドラマ化された。

山崎豊子は国民的作家の地位を確固たるものにしたこともあり、「運命の人」を最期に筆を置いた。

そのようななか、次に連載予定だった「新潮社」の編集者が来て、これまでのエッセイや座談会をまとめて本にしたいと言った。

山崎豊子は、ありがたい申し出たと思い、3冊の本を出版し、これで義務を果たしたと思っていたが、担当者は「ところで小説の方ですが・・・」と言い、連載の話を切り出した。

山崎豊子は、痙痛に苦しんでいることを打ち明け、もう書けないと断ったが、担当者は「小品でも良いので」と食い下がった。

すると、山崎豊子は、「書くテーマが3つ残っている」と口を滑らせてしまった。

山崎豊子が書き残したテーマは「敗戦時に割腹自殺した陸軍大将の子供の半生」「神戸の名門船舶会社の社長の葬儀」「真珠湾攻撃で捕虜の第1号となった海軍少尉・酒巻和男の生涯」の3つだったが、3つとも取材を断られていた。

しかし、「新潮社」の編集者は、それでは納得せず、調べてみると、過去に酒巻和男が「新潮社」から「捕虜第一號」という本を出していた事が判明したので、連絡を取ると、酒巻和男の長男が山崎豊子ならということで、取材許可を得た。

山崎豊子は、痙痛を理由に、酒巻和男の長男に小説化を辞退したが、酒巻和男の長男は小説化を許可したので、「新潮社」の担当者は次々と資料を送ってきた。

さて、山崎豊子は、青春時代を戦争に奪われたことから、戦争には反対だったので、書かねばならないと思い、小説を書くことにした。「小品でも良い」と言われていたが、今更、自分のスタイルを変えることは出来ず、長編を書くことにした。

正式に企画立ち上がり、山崎豊子は資料を読んで驚いた。なんと、酒巻和男が昭和24年に「捕虜第一號」という手記を掲載した時の編集者が斎藤十一だったのである。

それの事実を知った山崎豊子は、恩人・斎藤十一からは逃れられない事を知り、笑うのだった。

さて、山崎豊子は、酒巻和男をモデルにして「約束の海」を書くことにしていたが、「昔、このよう人が居ました」という内容では読者が興味を持たないだろうと思った。

そこで、主人公を現代人にして、戦争と自衛隊の潜水艦事故をリンクさせ、小説を書くことにした。

もう山崎豊子が現地取材をすることは困難なので、「新潮社」の編集者が代わりに取材をした。その取材はDVD200余りにのぼった。

こうして、山崎豊子は小説「約束の海」の第1部の連載20回を書き上げた。年齢的な事を考え、連載が中断してはいけないと思い、第1部を完結させてから、平成25年(2013年)8月に「週刊新潮」で連載を開始した。

そのようななか、山崎豊子は、平成25年(2013年)9月に病院で診察を受けると、入院を勧められて入院したが、平成25年9月29日に死去した。死因は心不全で、89歳だった。

恩人・斎藤十一から「、芸能人に引退はあるだろうが、芸術家にはない。書きながら棺に入るのが、あなたの宿命だ」と言われた通りになった。

山崎豊子は連載中に死去したが、「約束の海」の第1部の連載20回が完成していたので、そのまま連載は続けられ、第1部は完結した。

「約束の海」の第2部と第3部については、山崎豊子の構想メモを元にしたあらすじが、単行本に掲載された。

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