横山エンタツの立志伝

「喋くり漫才」を確立した漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」のボケ担当・横山エンタツの生涯を描く立志伝です。

横山エンタツの生涯

横山エンタツ(本名は石田正見)は、明治29年(1896年)4月22日に兵庫県三田市に医師の子として生まれた。三田市には横山という地名があり、ここが生地だと言う説がある。

石見家は、祖父は藩医、父は医師という医者の家系で、代々、兵庫県三田市広野に住んでいたようである。

父親は、明治36年に大阪市東区に引っ越して開業したが、日露戦争の勃発により、従軍した。帰還後は仕事の都合で姫路・神戸・尼崎と引っ越しを繰り返し、最終的に尼崎病院の院長に就任した。

横山エンタツが兵庫県三田市に居たのは小学1年生までで、父親の仕事の都合で各地を転々とし、小学校を8つも転校しており、最終的には父親が尼崎病院に落ち着いたので、兵庫県の伊丹中学校に進学した。

そして、横山エンタツは、明治時代の冒険家・中村直吉の「無銭旅行」を読んで影響を受け、伊丹中学校時代に度々、両親に無断で旅行に出るようになった。

このとき、賭博の現場を警察に押えられて逮捕された事があり、父親の名前を出すのを恐れて「横山」と名乗った。この「横山」が芸名の由来となっている。「横山」は、兵庫県三田市横山という地名から来ているという説もある。

このころ、横山エンタツも医者になりたかったらしいが、継母と折り合いが悪く、伊丹中学校を2年で中退して家出した。

エンタツの次男・花紀京も「(父は)継母と仲良くいっていれば、上の学校へ進み、医者になりたかったようです」と話しており、継母との関係が良ければ、芸人にはなっていなかった可能性が大きい。

吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)も継母・吉本ユキとの関係が上手くいかなかったことから、家業を放り出して芸人遊びに走っており、事情が似ている。

さて、横山エンタツは、その後、職を転々としたとも言われるが、関西大学の夜間に通って野球部に在籍していたとも伝わっており、詳しい事は分からない。

横山エンタツは、自分のことを話すのを嫌っていたので、詳細については分からないことが多い。

スポンサードリンク

朝鮮半島へ逃避行

さて、父親がうるさいので、横山エンタツは19歳の時に京城(ソウル)に居る叔父を頼って朝鮮半島へと渡ったが、叔父は事業に失敗しており、面倒を見られないので帰れてと言われ、旅費を渡された。

横山エンタツは、この金で満州の大連へと向かい、新派連鎖劇の一座に入り、各地を巡業していたが、座長が裁判所に拘留されたため、一座は解散してしまう。

残ったメンバーは、満州で人気があった子役・小中村千代兵衛を中心に旗揚げしたが、思わしくなく、横山エンタツは一座を抜けて、鉄嶺へ行き、活動写真巡業隊で声色師をやったが、上手くいかなかったようで、その後、帰国した。

花菱アチャコとの出会い

帰国して徴兵検査を受けた横山エンタツは、父親の勧めにより、貿易商に勤務した。

しかし、再び放浪癖が出て、時田一瓢一座に入り、芸名「横山瓢(よこやま・ひさご)」を名乗って活動し、この時に万歳(漫才の前身)を覚えた。

その後、横山エンタツは堀越一蝶一座に入って、芸名「横山太郎」を名乗り、役者半分、万歳半分で活動する。

そのようななか、喜劇俳優・漫才師として旅一座を転々としていた花菱アチャコ(本名は藤木徳郎)が堀越一蝶一座に入ってきた。これが、花菱アチャコとの出会いである。

さて、堀越一蝶一座が大正8年(1919年)に明石の三白亭に出演していたとき、役者に急用が出来て、開幕時間を延期しなければならなくなった。

横山エンタツと花菱アチャコは、一緒に漫才などやったことが無かったが、その場で話し合い、開幕までの時間かせぎとして、舞台に上がり、即興で「喋くり漫才」を披露した。

しかし、このころ、漫才は「万歳」「萬歳」と表記されていた時代で、歌や踊りの間に「喋り」が入るというスタイルが一般的あり、「万歳」「萬歳」のメーンは歌や踊りで、間に入る「喋り」は添え物に過ぎなかった。

横山エンタツと花菱アチャコは、「万歳」の主役である歌や踊りが苦手なので、「万歳」から歌や踊りを排除し、添え物の「喋り」だけで構成した「喋くり万歳」をやったのだが、客が「万歳」に求めるのは主役の歌や踊りだった。

このため、客席から「万歳をやれ」という罵倒とミカンの皮が飛んできて、世界初の「喋くり漫才」は散々な結果に終わった。花菱アチャコとコンビを組んだのも、この一度だけだった。

その後、堀越一蝶一座が解散すると、横山エンタツは、花菱アチャコと別れて神戸に行き、東西交流の波に乗って東京へと進出し、中村種春と万歳コンビを組んで活動した。

一方、花菱アチャコは大阪に戻って大志を抱き、自らの一座を立ち上げて九州へと巡業に出たが、巡業に失敗し、大阪の「大八会」に入って「万歳」をやった。

さて、東京時代の横山エンタツは、「喋くり漫才」を封印し、ありとあらゆる万歳のスタイルを試し、全てのスタイルの「万歳」をマスターした。

また、これまでは「横山太郎」を名乗っていたが、東京時代に「横山エンタツ」を名乗るようになる。

「エンタツ」の由来は、横山エンタツが黒くて背が高かったことから、当時住んでいた東京浅草蔵前にあった高等工業学校(東京工業大学)煙突に似ていると言われ、「エンタツ(大阪弁で煙突の意味)」と呼ばれていたためである。

万歳の始祖・玉子屋円辰からとったという説もあるが、本人は玉子屋円辰説を否定している。

関東大震災で負傷する

横山エンタツは、千葉県・埼玉県を巡業している時に、横浜市の朝日座に出演することになり、喜劇団や安来節と合流して横浜市の朝日座に出演した。

そして、大正12年(1923年)8月31日の小屋が終わった後、後援会の人に誘われ、午前4時になって福富町の港屋旅館に戻ってきた。

横山エンタツは、翌日の大正12年(1923年)9月1日の午前11時に起きて、正午前に洗面所で顔を洗っていたときに1度目の揺れが来たので、慌てて建物を飛び出そうとした。

しかし、玄関にたどり着いたところで、同じ旅団の安来節の秀香が「兄さん」と呼んだので、引き返して助けに向かおうとしたとき、2度目の揺れが来て、裏手にあった煙突が倒れてきた。

横山エンタツは街路へ叩きつけられており、上から梁が落ちてきて気を失ったが、戸板に載せられて病院まで運ばれ、なんとか一命を取り留めた。

その後、数年間の動向は分からない。花菱アチャコは、横山エンタツは関東大震災で負傷して大阪へ逃げ帰ったと話しているので、大阪で活動を続けたのかも知れない。

スポンサードリンク

アメリカ巡業

横山エンタツは、関東大震災で負傷した後、動向は不明ながら、昭和4年8月にハワイに住むマネージャーの誘いを受け、アメリカ巡業を決行することになる。

横山エンタツは、万歳や浪花節など総勢9人の一座「瓢々会」を率いて、昭和4年8月31日に横浜港から天洋丸に乗ってハワイへと向かったが、3ヶ月に亘るアメリカ巡業は失敗に終わった。

このとき、横山エンタツは「チャップリン」「ローレル&ハーディ」「ハロルドロイド」などの映画を観て衝撃を受け、お笑いが広く民衆に認められ、「芸術」として評価されていることに驚いた。

横山エンタツは、大阪でも東京でも成功せず、アメリカ巡業も失敗したうえ、日本のお笑いが下品で低俗なことを再認識させられたため、アメリカ巡業から帰ってくると、芸能界を引退して事業を起こした。

事業に失敗

横山エンタツは、アメリカで流行していたパーマネントを見て日本でも流行すると考え、有り金を叩いてパーマネントの機械を買って帰り、職人に頼んで機会を作り、実用新案登録までしたが、髪を冷やす道具を買って来なかったので、失敗に終わった。

ただ、パーマネントの機械ではなく、女性用のヘアピンを作って失敗したという話も残っており、この辺の詳しい事情は分からない。

また、横山エンタツは、アメリカで見た「買い物袋」を見て「これはあたる」と思い、大量生産してデパートに持ち込んだが、デパートから「日本には風呂敷がある」と言われて売れず、こちらも失敗に終わり、玉造の裏長屋で逼塞していた。

エンタツ・アチャコの結成

一流の芸と呼ばれ、演芸の中心にあった落語は、大正時代に入ると衰退を初め、演芸界は落語不況に見舞われていた。

吉本興行部(吉本興業)の経営を任された林正之助は、三流の寄席で流行していた「万歳」に目を付け、「万歳」を発掘し、育てていた。

林正之助は大八会に所属してる花菱アチャコを見て惚れ込み、大正15年(1926年)に花菱アチャコと千歳家今男を引き抜いた。

この万歳コンビ「花菱アチャコ・千歳家今男」は、昭和5年(1930年)3月に開催された「座長漫才人気投票」で、2位を大きく引き離して、1位に輝いた。

ところが、ある舞台の後で花菱アチャコと千歳家今男が口論になったとき、林正之助は千歳家今男が悪いと言って千歳家今男を殴り飛ばし、金を与えて吉本興行部(吉本興業)から追い出したので、コンビは解散してしまう。

その後、花菱アチャコは何人かの相方と組んだのだが、余り長続きはしなかった。

このようななか、事業に失敗して玉造で逼塞していた横山エンタツは、花菱アチャコしか友達が居なかったので、花菱アチャコの元に遊びに来ていた。

それが林正之助の耳に入ったのかも知れない。

林正之助は昔、神戸の新開地にある神戸劇場で、「横山エンタツ・菅原家千代丸」の万歳を見て衝撃を受けていた。横山エンタツの万歳はバラエティー豊かで、林正之助は1時間もビックリしていたのだという。

そこで、林正之助は、横山エンタツが帰ってきている事を知ると、相方を探している花菱アチャコと横山エンタツを組ませれば、面白くなるのではないかと考え、横山エンタツをスカウトすることにした。

林正之助は、吉本興行部(吉本興業)の支配人・滝野寿吉を2度も横山エンタツの自宅に行かせたが、横山エンタツは首を縦に振らなかった。

そこで、林正之助は、あたかも暴風雨みたいな雨の日を選び、ボロボロの雨合羽に長靴という格好で、玉造にある横山家を訪れた。

このとき、林正之助はナイフで長靴を切り裂いて指が出るようにしており、「エンタツはん、見てみなはれ。吉本はこないに長靴を買う金もないほど困ってまんねん。吉本の責任者がこんなヨレヨレの合羽しか着られまへんのや。あんたがうちへ来てくれはったら、この合羽がきっとゴムになりま。長靴が騎兵隊みたいに革になりまんがな」と説得した。

さらに、林正之助は「俺が来る以上は自信を持っているんだ。君を日本一の万歳にしてやる。僕は大きなホラを吹くわけじゃない。だから、ひとつ、俺の言うてきたことに同意して、僕に体を任せ」と説得した。

すると、ついに横山エンタツも折れて、「花菱アチャコとコンビを組むこと」という条件を出し、昭和5年5月に「エンタツ・アチャコ」が結成された。

スポンサードリンク

喋くり漫才のエンタツ・アチャコが始動

これまでの万歳師は紋付袴が一般的だったが、「エンタツ・アチャコ」は洋服を取り入れた。

さらに、横山エンタツは、チャップリンのような髭をたくわえ、ハロルドロイドのような眼鏡をかけた。

そして、「エンタツ・アチャコ」は「キミ」と「ボク」という標準語的な言葉を取り入れ、万歳の主役である歌や踊りを排除し、添え物だった「喋り」だけで構成した「喋くり万歳」を「2人漫談」と称して、昭和5年5月に玉造の三光館でデビューした。

しかし、客が万歳に期待しているのは歌や踊りであり、客から「万歳をやれ」と言われ、みかんの皮が飛んでくる有様で、「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」は全く受けなかった。

南地花月への進出

「エンタツ・アチャコ」がデビューした昭和5年は、正解恐慌の影響で日本も昭和不況に見舞われており、吉本興行部(吉本興業)の林正之助は、万歳の普及をめざして、入場料10銭で万歳が観られる「10銭万歳」を考案した。

キツネうどんが10銭、風呂代が5銭という時代であり、入場料10銭は破格の安さである。

入場料10銭では客が入っても赤字になるため、吉本興行の主宰者・吉本せい(林せい)は反対した。

しかし、林正之助は「10銭万歳」を断行し、万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」がデビューする直前の昭和5年5月に、千日前の南陽館(集寄亭)で「10銭万歳」を始めた。

この「10銭万歳」がヒットし、万歳はサラリーマンやインテリ層に広まっていった。

こうした若い人たちは、古い仕来りや形式にとらわれないので、「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」は、若い人たちの間で「インテリ万歳」として広まっていった。

そして、「エンタツ・アチャコ」は瞬く間に人気を得て、法善寺裏にある一流の寄席「南地花月」へと進出したのである。

しかし、一流と呼ばれた落語家らは、三流の万歳と同じ寄席に上がることを嫌っており、万歳の台頭は落語家との対立を招く結果となった。

皇軍慰問団とエンタツ・アチャコの台頭

大正時代の映画は「無声映画」だったが、昭和6年6月に松竹が国産初のトーキ映画(発声映画)となる「マダムと女房」を製作した。

こうした映画界の動きは、寄席を経営する吉本興行部(吉本興業)には驚異だった。

このようななか、昭和6年9月18日に満州事変が勃発する。

これに目を付けた吉本興行部(吉本興業)の林正之助は、朝日新聞に戦地慰問団の派遣を持ちかけ、朝日新聞の協賛で昭和6年12月に皇軍慰問団を派遣した。

メンバーは、万歳のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸である。これに、吉本興行部の支配人・滝野寿吉が同行した。

この慰問団は実費だけで利益は無く、5人だけという小さな慰問団だったが、朝日新聞が連日のように皇軍慰問団の様子を報じてくれたので、三流扱いされていた「万歳」の格が上がり、「エンタツ・アチャコ」の人気もうなぎ登りだった。

スポンサードリンク

秋田實(秋田実)との出会い

大阪朝日新聞・文芸部の白石凡は、「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」を観て衝撃を受け、「エンタツ・アチャコ」に良い万歳作家が付けば、面白くなると考えた。

そこで、白石凡は、「エンタツ・アチャコ」に、雑誌などでAB対話型の雑文(ユーモアコント)を書いていた秋田實(秋田実)を紹介した。

これは、昭和6年の秋のことなので、満州事変が勃発した直後で、皇軍慰問隊として中国の戦地を訪問する前の話である。

太鼓持ちの花菱アチャコは「ご高名はかねがね伺っています」と如才なく挨拶したが、インテリの横山エンタツは年下の秋田實(秋田実)を「先生」と呼んだので、秋田實(秋田実)は先生と呼ばれるような悪い事はした覚えは無いと驚いた。

後日、横山エンタツは秋田實(秋田実)の自宅を訪れ、長時間に亘って「万歳」について語り合った。

この頃の「万歳」は下品で低俗だったので、横山エンタツは万歳を嫌っており、芸人も「下品で無教養」としうて芸人とも付き合わなかった。

一方、秋田實(秋田実)は下品で低俗な「万歳」が好きだったが、「万歳」は家族と一緒に観られるようなものではなかったので、「万歳」の好きな母親と一緒に寄席を観て笑えるようになれば良いと考えていた。

このため、横山エンタツと秋田實(秋田実)は意気投合し、「万歳」から下品で低俗な要素を排除した「無邪気な笑い」を目指す事になったのである。

こうして秋田實(秋田実)が基本的な台本を書き、横山エンタツと話し合って、横山エンタツが台本を膨らませるという形で「喋くり万歳」を作っていた。

このころ、秋田實(秋田実)は台本に自分の名前を出しておらず、「エンタツ・アチャコ」の台本は横山エンタツが手がけた事になっているが、秋田實(秋田実)の手が加わっている。

万歳から漫才へ

吉本興業の林正之助が、参謀として東京に居た橋本鐵彦(橋本鉄彦)を連れてきて、吉本興業に入れた。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、昭和8年(1933年)1月に「文藝部」「宣伝部」「映画部」を設置し、3部門の統括する責任者になった。

この橋本鐵彦(橋本鉄彦)が、「エンタツ・アチャコ」の万歳を観て、もやは万歳ではないと考え、宣伝部から発行する「吉本演芸通信」で、「万歳」から「漫才」へと表記を変更する事を発表した。

昭和に入ると、弁士が「漫談」となり、ポンチ絵が「漫画」となっており、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、この「漫」の字を取って「漫才」としたのである。

しかし、これは吉本興業が勝手に表記を変えると言っただけで、万歳師やメディアから相当な批判があり、「漫才」は直ぐには定着しなかった。

エンタツ・アチャコの早慶戦

吉本興業は東西交流を行っており、昭和8年(1933年)の秋に東京の落語家・柳家金語楼が早慶戦・第3回戦のチケットを2枚くれたので、横山エンタツと花菱アチャコは昭和8年10月22日にネット裏で六大学野球の「早慶戦」を観戦した。

この日、第8回に慶應義塾大学の3塁側コーチ水原茂が、審判の判定に不服に思って審判に抗議したことから、9回表に、3塁側の早稲田大学応援団が、3塁側に居たコーチ水原茂にリンゴの芯を投げつけた。

すると、水原茂がリンゴの芯を3塁側に投げ返したので、早稲田大学応援団が激怒し、試合後に慶應義塾大学の応援団に流れ込んで暴動を起こした。これが「水原リンゴ事件」である

「水原リンゴ事件」を観た横山エンタツと花菱アチャコは、帰宅すると観てきた野球の「早慶戦」をネタにして万歳「早慶戦」を作った、ということになっている。

しかし、「水原リンゴ事件」よりも前に「エンタツ・アチャコ」が野球ネタ「早慶戦」をやっていたという目撃情報が複数あり、「早慶戦」には漫才作家・秋田實(秋田実)の手も加わっている。

このため、「エンタツ・アチャコ」は以前から野球ネタ「早慶戦」をやっており、その後、「水原リンゴ事件」が起きたので、「水原リンゴ事件」に便乗したというが真相のようだ。

実際、「水原リンゴ事件」が新聞で大きく報道されると、「エンタツ・アチャコ」は報道に便乗する形で、野球ネタ「早慶戦」でトップスターへと駆け上った。

スポンサードリンク

エンタツ・アチャコのラジオ出演

ラジオが普及してくると、演芸界は「ラジオで落語が聞けるようになれば、寄席には誰も来なくなる」と考え、ラジオを恐れた。

吉本興業の社長・吉本せい(林せい)はラジオに強い危機感を覚え、所属芸人に指定以外の場所への出演を禁止(ラジオ出演禁止)を厳命し、所属芸人に公正証書を差し入れさせた。

こうした対応に怒ったJOBK(NHK大阪)の文芸部長・奥屋熊郎が一計を案じ、吉本興業のトップスターで落語家の初代・桂春団治(皮田藤吉)をそそのかして、吉本興業に無断で、昭和5年(1930年)12月17日の放送に出演させた。

吉本興業の林正之助はこれに激怒して、初代・桂春団治に差し押さえを執行した。これが世に言う「桂春団治のラジオ無断出演事件」である。

また、吉本興業は、JOBK(NHK大阪)に対しても厳しい態度を取ったので、JOBK(NHK大阪)も吉本興業のギャラ搾取の実態などを暴露し、吉本興業とJOBK(NHK大阪)は関係が悪化した。

しかし、上方の演芸界は吉本興業が独占していたので、JOBK(NHK大阪)も吉本興業抜きでは演芸番組が構成できない。

そのようななか、JOBK(NHK大阪)の文芸部長・奥屋熊郎が、「エンタツ・アチャコ」の「早慶戦」に目を付け、吉本興業にラジオ出演を打診してきた。

吉本興業側は、林正之助の参謀・橋本鐵彦(橋本鉄彦)が「今後の経営を考えるのなら、ラジオの力を認めないわけには行かない」と言って林正之助を説得すると、林正之助がラジオ解禁を認めた。

このため、社員は「御大(林正之助)は東京から連れて来た奴(橋本鉄彦)の言うことやったら聞くんやな」と嫌味を言った。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年(1934年)6月10日にJOBK(NHK大阪)が中継放送する法善寺の「南地花月」に出演し、十八番の野球ネタ「早慶戦」をやった。

このとき、JOBK(NHK大阪)は「漫才」という表記を認めなかったので、「エンタツ・アチャコ」は「2人漫談」として出演している。

エンタツ・アチャコが解散

ラジオ出演で全国へとその名を広めた「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年(1934年)8月21日に東京・新橋演舞場で開催された「第2回・特選漫才大会」に出場して、10日間連続で満員大入りという大成功を収めた。

そして、「エンタツ・アチャコ」は大阪へ凱旋すると、昭和9年9月10日にJOBK(NHK大阪)が中継放送する法善寺の「南地花月」に出演し、この出番が終わると、相方の花菱アチャコが担ぎ込まれるようにして入院した。

実は、花菱アチャコは、東京の新橋演舞場で開催された「第2回・特選漫才大会」に出場していたときに中耳炎になっていた。

当時は、良い薬が無く、中耳炎で人が死ぬ時代だったので、花菱アチャコは直ぐにでも入院したかったのだが、東京進出は「エンタツ・アチャコ」にとって運命を左右する仕事だったので、病気を押して漫才をしていたのだ。

さて、花菱アチャコが入院すると、林正之助が動いた。

元々、林正之助は、花菱アチャコのボケに惚れ込んで吉本興業にスカウトしたのだが、「エンタツ・アチャコ」では、花菱アチャコはツッコミをしていた。

そこで、林正之助は、横山エンタツと花菱アチャコを2手に分ければ、儲けが2倍になると考え、横山エンタツに、「エンタツ・アチャコ」のギャラは花菱アチャコと折半してることを教えた。

すると、漫才を主導していた横山エンタツは、ギャラの折半を不服に思い、自分の方が取り分が多くなる相手と組むため、吉本興業の社長・吉本せい(林せい)に「エンタツ・アチャコ」を解散して他の相方と組むことを申し出た。

横山エンタツは、吉本興業に入る条件として「花菱アチャコとコンビを組むこと」という条件を出していたので、林正之助に解散を言い出せず、吉本せい(林せい)に直訴したのである。

事情の知らない吉本せい(林せい)は、「花菱アチャコが退院するまで給料を出す」と言って引き留めたが、横山エンタツは「仕事をしていないのに給料は貰えない」と固辞し、「エンタツ・アチャコ」を解散して、自分の方がギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケと漫才コンビを組んだのである。

一方、花菱アチャコは、1ヶ月後に退院すると、知らない間に「エンタツ・アチャコ」が解散をしており、解散の理由も知らされないまま、失望しながらも、元相方・千歳家今男とコンビを再結成した。

映画で「エンタツ・アチャコ」が復活

「エンタツ・アチャコ」は、わずか4年4ヶ月で解散してしまったが、解散後に「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が大きくなった。

そこで、吉本興業の林正之助は、寄席では別々のコンビニを組ませたまま、映画やラジオ限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させた。

そして、吉本興業はPCL(東宝)と組んで、昭和11年に「エンタツ・アチャコ」が主演する映画「あきれた連中」を制作した。「エンタツ・アチャコ」の映画は大当たりして、続編も作られた。

ただ、横山エンタツは、映画のギャラは1万円はくれるだろうと思っていたが、いつまでたっても映画のギャラは1本100円だった。

このころ、吉本興業が大阪の演芸界を独占しており、芸人のギャラは低く抑えられていたため、不満を募らせる芸人も居た。

わらわし隊とミスワカナ

昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発すると、吉本興業の林正之助は、朝日新聞に皇軍慰問団の派遣を打診し、昭和13年(1938年)1月に皇軍慰問団「第1回・わらわし隊」を派遣した。

「横山エンタツ・杉浦エノスケ」も「第1回・わらわし隊」の中支那慰問班に加わり、戦地を慰問した。

この「わらわし隊」に参加していた女性上位漫才の「ミスワカナ・玉松一郎」が泣ける漫才で一気に台頭し、全盛期の「エンタツ・アチャコ」を越える人気を得て、吉本興業のトップに躍り出た。

新興キネマ演芸部の引き抜き事件

昭和14年(1939年)に映画法が制定された影響で、映画の情勢時間が短縮されたり、外国映画の輸入が制限されたため、映画館では映画の代わりとして、アトラクションや演芸が重要となった。

このようななか、吉本興業の林正之助が、阪急グループ総帥・小林一三に招かれ、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役に就任し、吉本興業と東宝が関係を強めた。

東宝と敵対していた松竹は、吉本興業と東宝の関係強化に危機感を覚え、自前の演芸部門を持つため、松竹系の新興キネマに演芸部を作り、吉本興業から芸人を引き抜きにかかった。

新興キネマ側の工作員となったのが伴淳三郎で、伴淳三郎が吉本興業の横山エンタツ・花菱アチャコ・ミスワカナなど、次々と接触した。

そこで、横山エンタツは、ミスワカナが新興キネマに行けば、自分が吉本興業のトップに返り咲けると考え、自分と横山エンタツも新興キネマに移籍すると言い、ミスワカナを新興キネマへ移籍させた。

こうして吉本興業の「ミスワカナ・玉松一郎」「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミスワカバ」「香島ラッキー・御園セブン」「あきれたほういず(川田義雄だけ吉本に残留)」が新興キネマへと移籍し、横山エンタはライバルを追い出すことに成功したのであった。

なお、ドケチの花菱アチャコは、新興キネマから大金を受け取って舞い上がり、新興キネマへの移籍を決めていたが、林正之助と吉本せい(林せい)に察知され、新興キネマへの移籍を断念させられた。

こうして、新興キネマが大阪の演芸界に進出したことにより、吉本興業の独占が崩れたため、吉本興業の芸人の給料は上がった。

新興キネマ演芸部の引き抜き事件は、京都府警・大阪府警の仲介により、手打ちとなった。その後は興行での勝負となり、吉本興業が勝利したが、戦争によって全てを失うことになる。

日本のチャップリンを目指す

この間に横山エンタツは、杉浦エノスケとの漫才コンビを解散しており、日本のチャップリンを目指して、昭和17年に「エンタツ劇団」を旗揚げした。

すると、元相方・花菱アチャコも対抗して「アチャコ劇団」を旗揚げしたので、吉本興業は「エンタツ劇団」と「アチャコ劇団」を競わせた。

初めは良い勝負をしていたが、喜劇俳優としては花菱アチャコの方が1枚も2枚も上で、直ぐに体勢は決し、「エンタツ劇団」は「アチャコ劇団」に勝てなかった。ただ、それも戦争によって無に帰した。

横山エンタツの戦後

戦争で全ての寄席を失った吉本興業の林正之助は、芸人の借金を退職金代わりに帳消しにし、全芸人を解雇して演芸を捨てた。

しかし、花菱アチャコだけは、頑として首を縦に振らず、吉本興業に残った。花菱アチャコは吉本興業の芸人が自分1人なら、来た仕事を全て独占できると考えたのである。

一方、横山エンタツは「エンタツ劇団」を率いて地方へと巡業に出た。地方は比較的に食糧事情が良く、演芸需要が旺盛だったので、地方巡業は稼げたようだ。

さて、戦後も「エンタツ・アチャコ」を復活させようという声が起きたが、これは実現せず、横山エンタツは昭和25年(1950年)にNHK大阪のバラエティー番組「気まぐれショーボード」を開始して人気を集めた。

一方、花菱アチャコにもラジオ出演の話があったが、花菱アチャコは先に横山エンタツがラジオ出演して人気を博していたので、横山エンタツの二番煎じになることを恐れ、頑なにラジオ出演を拒んでいた。

しかし、花菱アチャコは、長沖一が脚本を書いてくれる言われたので、ラジオ出演を決意し、昭和27年にNHK大阪で「アチャコ青春手帳」を開始した。

すると、花菱アチャコは「アチャコ青春手帳」を大ヒットさせ、継いで「並を枕に」「お父さんはお人好し」などご長寿番組をヒットさせ、長きに亘り吉本興業のナンバー1に君臨した。

横山エンタツも「エンタツちょびひげ漫遊記」「エンタツの名探偵」などをヒットさせたが、花菱アチャコのようなご長寿番組は無く、花菱アチャコの活躍と比べると、見劣りしたので、晩年は「藤木(花菱アチャコの本名)は得しよった」とボヤいた。

横山エンタツの死去

戦後も舞台での「エンタツ・アチャコ」は再結成されなかったが、イベントなどでは時々、「エンタツ・アチャコ」として出演していた。

しかし、晩年、横山エンタツは柿の木を切ろうとして転落して以降、背骨の骨がずれて手足がしびれるようになり、車いす生活になってしまい、イベントでの「エンタツ・アチャコ」も昭和45年(1970年)の元旦の番組「新春放談」で最後になった。

そして、横山エンタツは、最後の方は寝たきりになっており、酒を飲んでテレビを観る日々を過ごしていた。

横山エンタツは、外で飲むのが嫌いだったようで、台所に酒樽を置いて、何時も水代わりに酒を飲んでいた。1日に1升ほど酒を飲んでいたが、酒に強いので、酔うようなことは無かった。

しかし、昭和46年(1971年)3月20日に1升5合の酒を飲み干すと、流石に酔ったようだった。

翌朝(昭和46年3月21日)、いつものように酒を飲んだが、酒を戻してしまったので、家人が「持ってきましょうか?」と尋ねると、横山エンタツは「もう要らん」と言って、そのまま死去した。死因は脳梗塞だった。

その日、花菱アチャコが毎日放送の「ヤングおー!おー!」に出演することいなっていたので、横山エンタツは「藤木(花菱アチャコ)は、どんな歌を歌うのやろうか」と気にしていたが、その番組を観ることは出来なかった。

横山エンタツの私生活

横山エンタツは、当時では珍しい、中学中退という高学歴芸人で、当時の「万歳」が卑猥で下品だったことから、芸人を「低俗で無教養」と嫌っており、芸人とは交際しなかったので、友達は花菱アチャコだけだった。

横山エンタツは、芸人だが、芸人を恥じているところがあり、家族にも職業を隠していたのだが、映画などに出るようになると、家族に漫才師だとバレてしまった。

また、風呂屋へ行くと、花菱アチャコは林正之助の足を洗い、漫談の花月亭九里丸は林正之助の背中を流したのだが、横山エンタツには、そういうことが出来なかった。

そして、家に帰ると無口で、躾けも厳しいため、横山家はとても芸人の家庭とは思えない雰囲気だった。

横山エンタツは、子供に「サリーマンになれ」と言い続けており、子供を楽屋にも入れなことが無かったのだが、子供の中で1人だけ、次男の花紀京が関西大学を中退して芸人になってしまったので、「地方巡業に売れていけば良かった」と後悔した。

また、横山エンタツは性格が内向的で、人付き合いが苦手だったらしく、漫才で意気投合した秋田實(秋田実)とも晩年は疎遠になっており、友達も居らず、寂しい晩年を過ごしたという。ただし、2号さん(妾・愛人)は居たらしい。

一方、元相方の花菱アチャコは、吉本興業のトップに君臨し続け、生涯で5億円の資産を築いたと言い、晩年は女性に囲まれ、華やかな人生を送った。

ちょび髭代

横山エンタツは、喜劇王「チャップリン」のマネをして、「ちょび髭」を生やしていたが、吉本興業時代に「ちょび髭」を剃ったことがある。

すると、吉本興業の林正之助は「ちょび髭も給料のうちや。生えそろうまで、ちょっと給料を引かせてもらう」と言い、給料から「ちょび髭代」として1割を差し引こうとした。

それに驚いた横山エンタツが「1割は『ちょび』っと、ちゃいまっせ」と嘆くと、林正之助は感心して「ちょび髭代」を5分(5%)にまけてやった。

スポンサードリンク