NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者・吉本せいの生涯を描く立志伝「吉本せいの生涯」の第8話「吉本興行部(吉本興業)の設立」です。
第8話より前については目次「「わろてんか」の実話「吉本せいの生涯」」から選んでください。
世間の人々は、寄席の経営は吉本泰三(吉本吉兵衛)の道楽で、直ぐ失敗するだろ噂されていたが、入場料5銭という低価格戦略がヒット。吉本せい(林せい)の「ゴロゴロ冷やし飴」の考案もあり、夏場の不入りを乗り越えて、間も無く開業資金として借りた500円も返済することが出来た。
そして、寄席「文芸館」を開業した翌年の大正2年、吉本泰三は大阪の繁華街ミナミへの進出を見据えて、ミナミの顔役・栗岡百官(栗岡篤次郎)の斡旋で、南区笠屋町に移り住み、南区笠屋町の自宅兼事務所で「吉本興行部(後の吉本興業)」を設立した。
現在の吉本興業は「事業を興す」「事業を振興させる」という意味の「興業」を使用しているが、創業時の「吉本興行部」は「お金を取って催し物を見せる」という意味の「興行」を使用している。
なお、吉本泰三は、「吉本興行部(吉本興業)」を設立する一方で、「反対派」の岡田正太郎と共同で「芦辺商会(芦辺合名社)」を設立して、「芦辺商会」を名乗っており、正式に「吉本興行部」を名乗るのは4年後の大正6年ごろからである。
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吉本泰三は、寄席の経営を開始してからも、吉本せい(林せい)に「文芸館」の経営を任せて芸人遊びを続けていたが、それは単に遊んでいたわけでは無く、次に買収する寄席の情報を収集するためでもあった。
吉本泰三は1000円貯めたら、1万円を借金するという手法で、次々に寄席を買収していき、大正3年(1914年)に松島の「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を手に入れ、寄席のチェーン展開を開始する。
もちろん、吉本泰三は、寄席の買収についても、妻の吉本せい(林せい)に命じただけで、直接は交渉に関与していない。
こうした交渉事は吉本せい(林せい)の才覚によって成功したと伝わっているが、女1人で次々に寄席の買収を成功できたとは思えず、ミナミの顔役・栗岡百官(栗岡篤次郎)が交渉人として加わっていたと考えるのが自然だろう。
栗岡百官(栗岡篤次郎)は、交渉やトラブルを取り纏めることを生業としており、吉本興業が落語家の初代・桂春団治(皮田藤吉)と専属契約を結んだときにも暗躍したとされる人物である。
大正3年(1914年)、吉本泰三は、吉本せい(林せい)を連れて大阪の名所「通天閣」に登った。
通天閣は、第5回内国勧業博覧会の跡地が払い下げられ、遊園地「ルナパーク」などと共に建設されて、明治45年(1912年)7月3日に営業を開始した。
吉本泰三は、通天閣の開業よりも3ヶ月前の明治45年4月1日に「文芸館」の営業を開始しているので、通天閣と吉本興業は同級生のようなものである。
さて、通天閣は、約75メートルという東洋一の高さを誇り、大阪の名所となっていた。当時は、高層ビルなど無いので、大阪中を一望できたようである。
通天閣の北には大阪城があり、通天閣と大阪城の間には「ミナミ(南地)」と呼ばれる繁華街が広がっている。そして、ミナミにある法善寺裏が演芸のメッカになっていた。
吉本泰三は通天閣の展望台から天下を眺め、「大阪中の寄席を吉本の寄席にして、通天閣の天辺から眺めたい」と言い、大阪の演芸界を制覇して、通天閣をも吉本の物とする夢を妻・吉本せい(林せい)に語った。
そして、吉本泰三は、大阪統一の足がかりとして、大阪の繁華街「ミナミ(南地)」へと進出のチャンスを虎視眈々と狙うのだが、その足場が為として、吉本の寄席を「花月亭」と名付けるのであった。
「吉本興業の花月の命名と由来」へ続く。
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