NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる「吉本興業」の創業者・吉本せい(林せい)の立志伝です。
吉本せい(林せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で、林豊次郎の3女として生まれた。母親は「林ちよ」である。
なお、「せい」を漢字にした「吉本勢(林勢)」という表記は間違い。実弟・林正之助の妻の名前が「林勢」であり、「吉本勢(林勢)」というのは当て字だと思われる。
さて、吉本せい(林せい)の実家・林家は兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系である。
明治維新を迎えて帰商し、父・林豊次郎は、兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいた。
太物屋というのは、綿や麻の着物を扱う着物屋である。これに対し、絹の着物を扱う着物屋を「呉服屋」と呼んだ。
その後、父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)が生まれた後、明治時代の中頃に大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀商・金融業を営むようになった。
さて、吉本せい(林せい)は明治33年に尋常小学校を卒業すると、火事や家業を手伝った。成績が優秀だったので、進学を希望していたのだが、船場の商家は「女子に学問は必要ない」という考え方があったのに加え、父・林豊次郎の強い意向によって進学を諦めたのである。
吉本せい(林せい)は、弟・林正之助の面倒を見たり、家業から家事全般まで見事にこなしたので、父・林豊次郎は吉本せい(林せい)に惚れ込んで、ずっと家に置きたかったが、母「林ちよ」に反対され、船場の古い風習にならい、15歳ごろに奉公へ出る事になった。
このころ、奉公先は親戚の紹介などで決めるのだが、吉本せい(林せい)は自分で奉公先を見つけてきて、両親に事後承諾させ、奉公に出た。
吉本せい(林せい)の奉公先は、北浜の相場師として有名な島徳蔵や、今橋の鴻池家という大阪でも有数の商家で、ここに上女中として奉公した。
しかし、大阪の商家は始末屋(ドケチ)なので、大阪で有数の商家ということは、大阪で有数なブラック企業ということである。
奉公先の主は、女中の食費を減らすため、蔵から漬け物の樽を出してきて、雨が当たるところに置き、食事中に悪臭が漂うようにした。
臭いにたまりかねた吉本せい(林せい)は、女中仲間に、毎日1銭ずつ出し合ってショウガを購入し、刻んでかければ、臭みも消えるだろうと提案したのだが、これが奉公先の家老の耳に入り、叱責された。
また、吉本せい(林せい)は優秀だったので、先輩の女中からも虐められた。
その後、奉公が明けると、実家・林家に戻り、家業を手伝った。吉本せい(林せい)は、ここでも商才を発揮して売上げを伸ばし、父・林豊次郎を驚かせた。
父・林豊次郎は吉本せい(林せい)の商才に惚れ込み、「林の米屋が全国にいくら在ってもいい」と言い、婿養子を取って暖簾分けしてやろうと考えていたが、老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」から縁談が舞い込んだ。
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大阪市東区内本町橋詰町のに、4代続く老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」があった。
荒物屋とは日用品を販売する店で、「箸吉」は「お箸」を主力商品として、「お箸」を料亭などに治めていたほか、日露戦争の好景気の波に乗り、貿易も手がけて大儲けしていた。
林家も料亭に米を卸していたので、米と箸という関係から、「箸吉」とも顔見知りであった。
この荒物問屋「箸吉」には吉本吉次郎(後の吉本泰三)という跡取り息子が居り、吉本家の方は吉本せい(林せい)の才覚を聞きつけ、林家に縁談を持ち込んだのである。
父・林豊次郎は婿養子を取ろうと考えていたので、この縁談を断ろうとしたが、母「林ちよ」の反対に遭い、両家の親同士で縁談がまとまり、父・林豊次郎は不本意ながら、吉本せい(林せい)を嫁に出す事になった。
こうして、19歳の吉本せい(林せい)は、明治40年(1907年)に22歳の吉本吉次郎(吉本泰三)と結婚した。
吉本せい(林せい)は、吉本家に嫁いだが、吉本家には問題があった。
夫となった吉本吉次郎(吉本泰三)は、継母・吉本ユキ(出口ユキ)のイジメと父・吉本吉兵衛への不信感から、家業を放り出して芸人道楽に走っていたのである。
吉本家としては、吉本吉次郎(吉本泰三)を立ち直らせるために吉本せい(林せい)を嫁に迎え入れたのだが、吉本吉次郎(吉本泰三)は結婚しても、芸人遊びを止めなかった。
それどころか、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は、旦那芸として覚えた剣舞に熱を上げ、終いには「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という一座の太夫元(興行主)となって旅巡業に出るようになった。
しかも、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)自身も幕の合間に舞台に上がり、趣味の剣舞を披露するという有様で、旅巡業の度に借金を膨らませた。
そうした一方で、吉本せい(林せい)は、姑の吉本ユキ(出口ユキ)から、船場名物「嫁いびり」を受け続けながらも、荒物屋「箸吉」を支えようと頑張った。
そして、吉本せい(林せい)は「嫁いびり」に耐え続け、明治43年(1910年)4月8日に婚姻届けを提出して入籍する。これは、吉本せい(林せい)が第1子を妊娠したからだろう。
そのようななか、荒物屋「箸吉」が大阪市電鉄の計画にひっかかり、明治44年(1911年)4月に立ち退きを命じられた。
父・吉本吉兵衛は「4代目で箸吉が潰れてしまう」と悩み続けた結果、どうにかして吉本吉次郎(吉本泰三)に商売に励んでもらおうと思い、明治44年に吉本吉次郎(吉本泰三)に家督を譲って隠居した。
こうして、吉本吉次郎(吉本泰三)は5代目「吉兵衛」を襲名し、隠居した父・吉本吉兵衛は「吉本吉左衛門」を名乗った。
しかし、「役者と乞食は3日やったらやめられぬ」と言われるように、吉本吉兵衛(吉本泰三)は、荒物屋「箸吉」などどうなっても良いと思うほど、芸人遊びにのめり込んでいた。
さらに、継母・吉本ユキ(出口ユキ)のイジメと父・吉本吉兵衛への不信感から、吉本吉兵衛(吉本泰三)は「箸吉」を売り払って寄席の経営を始めようと考えていた。
しかも、悪い事に、老舗の荒物屋「箸吉」は日露戦争後の不況で景気が悪化しており、2度の差し押さえを食らうと有様だった。
しかし、吉本せい(林せい)はあくまでも荒物屋「箸吉」の「ごりょんさん」として嫁に入っており、荒物屋「箸吉」の立て直しを主張して、連日連夜の夫婦げんかを繰り広げた。
その後、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が旅巡業に出ている間に、吉本家が荒物屋「箸吉」を大阪市東区大手前に移転した後、最終的に荒物屋「箸吉」は廃業した。
吉本せい(林せい)は、姑・吉本ユキ(出口ユキ)が居るので、吉本家を出て、実家の林家に戻り、吉本吉兵衛(吉本泰三)の帰りを待った。
吉本せい(林せい)は実家の林家に戻ってたが、父・林豊次郎は元々、嫁に出す事に反対だったので、「あんな道楽者とは別れてしまえ」と激怒していた。
このため、吉本せい(林せい)は、実家に居づらかったのか、実家・林家には長居はせず、丸帯を売って26円を作り、天満宮(天満天神)表にある長屋に引っ越した。部屋は2間だけで、敷金10円・家賃3円だった。
吉本せい(林せい)が引っ越し費用を作り、そのうえ、手に血をにじませながら縫い物をして食い扶持を稼いでいたが、それでも夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は芸人遊びを続けていた。
そのようななか、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が突如して、経営不振に陥っていた三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入する約束をしてきたと言いだした。
「天満ハン」として親しまれる天満宮(天満天神)の裏に寄席が8軒並んでおり、この8軒を「天満8軒」と呼んだ。
問題の「第二文芸館」は天満8軒の一番端にあり、「互楽派」という一派の寄席だったがのだが、何をやっても客が入らず、「互楽派」は結成からわずか半年で消滅してしまい、「第二文芸館」も売りに出ていたのだ。
夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は、芸人遊びを通じて知り合っていた「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎にそそのかされて、「第二文芸館」を買う事を決めたのだろう。
それを聞いた吉本せい(林せい)は「ほな、そこ、ウチがやるって言うてしもたって。私に事後承諾せえいうことですがな」と呆れた。
「第二文芸館」の土地は天満宮(天満天神)の物なので買えず、購入するのは営業権だけで、権利金300円・家賃25円だった。
夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は吉本せい(林せい)の顔を見る度に「金が要る」「金が要る」と騒いでいたが、吉本せい(林せい)は知らん顔をしていた。
しかし、終いには夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が荒物屋「箸吉」を売り払って金を作ると言い出す始末だったので、吉本せい(林せい)がお金の算段に乗り出すことになった。
吉本家については、「お金があったかて、お父はん(泰三の父)が出しますかいな。放蕩息子やって毛嫌いしてたさかい。だいいち、うちの大将(吉本泰三)かて、箸吉(はしきち)にはビダ一文借れへん。あの、けったくその悪い後妻(吉本ユキ)が何ぬかすやわからへん。くそおやじ(泰三の父)も、あの後妻に塩梅巻かれてんのやさかい」という事で、お金を借りる事は出来ない。
明治時代は、芸人が「川原乞食」と呼ばれて差別されており、芸人遊びは甲斐性として認められていたが、寄席の経営をして芸能界に足を踏み入れることは忌み嫌われていた。
このため、吉本家は、老舗の荒物問屋「箸吉」を営んでいたプライドから、「川原乞食に成り下がることはない」と激怒しており、相当に関係が悪化していた。
吉本家の怒りは凄まじく、吉本吉兵衛(吉本泰三)を勘当同然に扱ったので、吉本吉兵衛(吉本泰三)は寄席の開業にあわせて、父から襲名した「吉本吉兵衛」を返上し、通称として「吉本泰三」を名乗るようになった。
ただし、戸籍までは改名しておらず、本名「吉本吉兵衛」、通称「吉本泰三」という形である。
このため、吉本せい(林せい)は、福島の金貸し「鬼熊」から少し借りて、残りは実家の父・林豊次郎に頼み込んで借りてお金を用意した。
すると、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は「せい、おおきに。やっぱ嫁ハンや。後はワシに任せとけ」と胸を叩いたのであった。
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明治時代の一流の芸といえば落語であり、落語以外の諸芸は「色物」と呼ばれ、二流・三流の扱いを受けていた。
明治時代の演芸の中心は落語で、大阪の落語界は「桂派」と「三友派」がしのぎを削り、明治時代の中期に黄金期を築いていたが、明治時代の後半ごろから、落語に陰りが見え始めていた。
このようななか、三流の寄席「富貴」の席亭・岡田政太郎が、浪速の落語に反対し、二流・三流のゴミ芸人をかき集め、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針の芸能プロダクション「浪速落語反対派(岡田興行部)」を発足していた。
岡田政太郎は、芸の技術を競い合う演芸の世界に、「安くて面白い」というビジネスの概念を取り入れた革命児で、急速に勢力を拡大していた。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、芸人遊びを通じて、「反対派」の興行主・岡田政太郎と知り合っており、寄席「第二文芸館」の権利を購入すると、岡田政太郎の「反対派」と提携し、明治45年(1912年)4月1日に「第二」を外して「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。
一般的な寄席は入場料15銭だったが、ボロボロの寄席だった「文芸館」は入場料5銭という格安路線で勝負した。
ただし、他の寄席は入場料15銭に下足代が含まれているのに対し、「文芸館」は入場料5銭の他に下足代2円を取ったので、実質的な入場料は7銭だった。これも、入場料を安いと思わせる作戦だった。
さらに、吉本せい(林せい)は、満席になると、面白い芸人の間に、つまらない芸人を出演させて、客に飽きさせて帰らせ、席に空きが出来ると、新たな客を呼び込み、定員200人の「文芸館」に、祝日や祭日には700人を入れた。
また、吉本せい(林せい)は、わざと喉の渇くような食べ物を売り、飲み物で売上げを稼ぎいだり、客の食べ残したミカンの皮を陳皮の原料として薬問屋に売却したりして、様々な工夫で利益を上げた。
一方、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、お茶子の前掛けに、「菱形の中に吉を入れたデザイン」を考案した。
これは、お茶子が前掛けを付けると、菱形が女性の股間に来るようにデザインされており、菱形で女性の象徴をイメージしたという洒落である。
さて、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)と吉本せい(林せい)は、こうした創意工夫によって利益を上げていき、寄席「文芸館」の経営を開始した翌年の大正2年(1913年)1月に大阪府大阪市南区笠屋町で「吉本興行部」を設立した。
ただし、吉本泰三は「反対派」の岡田政太郎と共同で「芦辺合名社」を設立し、「芦辺商会」を名乗っており、正式に「吉本興行部」を名乗るのは4年後の大正6年からである。
なお、現在の吉本興業は「事業を興す」という意味の「興業」を使っているが、吉本興行部は「催し物を開いて入場料を取る」という意味の「興行」を使っている。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、寄席の仕事や芸人の世話を吉本せい(林せい)に任せて芸人遊びを続けていたが、それは仕事であり、連日連夜に渡り、岡田政太郎と次に買収する寄席について話し合っていた。
その結果、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、寄席の経営開始から2年後の大正3年(1914年)に、松島の「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収して、寄席のチェーン展開を始めた。
そのようななか、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は吉本せい(林せい)を連れて、通天閣に上り、「いつか、大阪中を吉本の寄席にして通天閣から眺めたい」と夢を語った。
通天閣の北方には、大阪演芸会の中心となる「法善寺」がった。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、通天閣から法善寺を眺め、法善寺の「蓬莱館(金沢亭)」に定めたのであった。
そこで、大正3年(1914年)、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は天下統一の足場固めとして、吉本興行部の寄席を「花月亭」と決めた。
そして、天満の「文芸館」を「天満花月」、福島の「龍虎館」を「福島花月」と言うふうに、寄席の名前を「○○花月」で統一した。
なお、「花月」と命名したのは、趣味で占いをしていた落語家の桂太郎だとされている(ただし、異説もある)。
縁起を担ぐ吉本せい(林せい)が落語家・桂太郎に占ってもらったところ、「花と咲くか月と陰るか、すべてを賭けて」という易が出たため、「花も月も使おう」ということで「花月」という名前を考えたのだという。
こうして、足場を固めた夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大阪でも有数の繁華街「ミナミ」の法善寺へと侵攻するのであった。
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大阪を代表する繁華街「ミナミ」に、法善寺がある。この法善寺の裏手に、「桂派」の拠点「金沢亭」があり、「金沢亭」の直ぐ西側に「三友派」の拠点「紅梅邸」があった。
西の「紅梅邸」、東の「金沢亭」と呼ばれ、「桂派」と「三友派」が落語を競い合い、明治時代の中期に落語の黄金期を築き、法善寺が演芸の聖地となっていた。
しかし、明治時代の末期に入ると落語人気は低迷し始めた。特に、本格落語を守った「桂派」は衰退が激しく、大正元年(1912年)に「寿々女会」「大正派」に分裂して消滅し、「金沢亭」も「蓬莱館」と名を変えていた。
対する「三友派」も、盟主的な存在だった席亭・原田ムメが大正3年(1914年)2月27日に死去しており、求心力を欠いていたが、三友派には初代・桂春団治などの人気落語家が残っており、依然として勢力を誇っていた。
そこで、ミナミへの進出を狙う夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、落ち目となっている法善寺の「蓬莱館(金沢席)」に照準を定め、吉本せい(林せい)に「蓬莱館(金沢席)」の買収を命じたのである。
「蓬莱館(金沢席)」の席亭は金沢利助という金貸しで、売値は1万5000円でビタ1文負けられないと言ったが、吉本せい(林せい)は1万2000円に値引きさせ、大正4年(1915年)に「蓬莱館(金沢席)」を買収したのである。
こうして、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、法善寺の「蓬莱館(金沢席)」を手に入れると、「南地花月」と改名し、念願のミナミ(法善寺)の一等地に進出したのであった。
この「南地花月」は「法善寺花月」とも呼ばれ、吉本を代表する寄席となる。吉本興行部は、「南地花月」を拠点に、「紅梅邸」の「三友派」への戦いを挑むのだった。
吉本せい(林せい)の10歳下の弟・林正之助は、北野中学校の受験に失敗し、長姉「林きく(白井きく)」夫婦が経営する兵庫県明石の太物屋に奉公に出ていたが、奉公が開けて実家・林家に戻った。
大正6年(1917年)、吉本せい(林せい)は、長姉「林きく(白井きく)」から弟・林正之助が商売上手だと聞いていたので、林正之助を吉本興行部(吉本興業)に招こうと考え、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に相談した。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は乗り気では無かったが、吉本せい(林せい)が頼み込むと、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は「正之助君ならワシの腹の内をバラす事はないやろう」と思い、林正之助を「席亭見習」として吉本興行部(吉本興業)に入れた。
やがて、実弟・林正之助は「総監督」となり、吉本せい(林せい)の為に馬車馬の如く働いた。
ただし、「総監督」とは言っても名ばかりの雑用係で、自転車で寄席を廻って、寄席の準備をしたり、集金をしたりしていた。
公務員の給料が70円だった時代に、200円も給料をくれたが、林正之助は人の2倍も3倍も働かされたうえ、ヤクザとのトラブル処理までさせられた。
吉本興行部(吉本興業)は、急激に勢力を拡大していたため、何かにつけてヤクザに目を付けられ、言い寄られていた。
ただ、このころのヤクザは、弱きを助ける「任侠」だったので、女子供や老人には無茶なことを言わなかった。
このため、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、ヤクザが来ると、ヤクザの対応を吉本せい(林せい)に任せて、裏から逃げ出して遊びに言った。
こうして、ヤクザの対応は吉本せい(林せい)がしていたのだが、それでも解決しないような問題がると、弟・林正之助に「ちょっと、行ってきてくれるか」と頼んだ。
林正之助は何も教えられずに、言われた場所に行ってみると、ヤクザの親分が火鉢の前に、どっしりと腰を据えており、林正之助は命がけでヤクザと談判に及ぶのだった。
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大正8年(1919年)2月、吉本せい(林せい)は39度の高熱を出して倒れてしまう。
吉本せい(林せい)は、医師から治療の方法が無いと言われ、日本赤十字病院から入院を拒否されるが、なんとか頼み込んで入院させてもらい、8ヶ月後に退院した。その後、半年間、兵庫県の明石で療養して復帰した。
このとき、吉本せい(林せい)は、医師から、もう子供は作れないと言われていた。
大正5年(1916年)12月1日に待望の長男・吉本泰之助が生まれていたが、長男・吉本泰之助は大正7(1918年)年7月5日に死去しており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)には跡取りが居なかった。
このため、子供が産めなくなると言われた吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)を作るように勧めた。
しかし、単なる誤診だったのか、その後も吉本せい(林せい)はポコポコと子供を産んで、計8人の子供を産んだ。
(注釈:ただし、本人は10人の子供を産んだと話しているので、死産などもあったのかも知れない)
吉本せい(林せい)は、三友派の実力者・三升家紋右衛門を月給500円で引き抜いて、三友派の切り崩しにかかった。
サラリーマンの月給が40円、1000円で家が建ったので、月給500円と言えば相当な金額だが、これが良き宣伝となり、三友派の実力者である桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などが吉本興行部(吉本興業)と専属契約を結んだ。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は若干の芸人を抱えていたが、あくまでも、吉本興行部は寄席の経営が中心であり、提携する「反対派(岡田興行部)」から芸人を派遣してもらい、反対派の芸人を吉本の寄席にあげていた。
こうした状況に異を唱えたのが、弟・林正之助である。弟・林正之助は、芸人に不必要な経費がかかっているので、反対派(岡田興行部)を飲み込んで、芸人を吉本興行部の直属にしようというのである。
しかし、そのようなことは林正之助に言われなくても、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、反対派(岡田興行部)からの出向組の青山督や滝野寿吉と言った切れ者を味方に付け、虎視眈々と反対派(岡田興行部)を飲み込むチャンスをうかがっていた。
このため、吉本せい(林せい)は、弟・林正之助に「大将(吉本泰三)は、そんなこと百も承知や。けど、今は口が腐っても、それを言うてはなりまへん。アンタがそんな事に口出しすることはおまへん。時が来たら大将が処理します」と釘を刺した。
このようななか、大正9年(1920年)12月に反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎が死去した。
すると、吉本泰三は、岡田政太郎の懐刀である青山督、切れ者と評判の滝野寿吉、吉本せい(林せい)、林正之助を集めて、連日連夜、対応を協議した。
このとき、林正之助が再び、反対派(岡田興行部)を飲み込んで「吉本派」の発足を主張した。
この意見を受けた吉本泰三は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に「反対派(岡田興行部)」を継がせてから、岡田政雄に1万円の手形を渡し、「反対派(岡田興行部)」の権利を売却させ、反対派(岡田興行部)の太夫元(興行主)となった。
しかし、吉本興行部(吉本興業)はドケチだったので、芸人の待遇が急激に悪化したため、多くの芸人が吉本興行部に「10ヶ条の要求」を突きつけてストライキを起こした末、亡き岡田政太郎の次男・岡田政雄と長男・岡田栄太郎を擁立して「岡田反対派」を発足したのである。
怒った吉本泰三は、渡した1万円の手形を不渡りにして、タダで「反対派(岡田興行部)」の権利を継承し、「吉本派」を発足した。
こうして「反対派」は「吉本派」と「岡田反対派」に分裂したが、「岡田反対派」は3ヶ月で消滅し、「吉本派」に吸収された。
「吉本派」は「花月派」と改称した後、正11年(1922年)に「吉本花月連」となった。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は「反対派(岡田興行部)」を飲み込んで、大勢力へと発展し、「紅梅邸」で抵抗を続ける「三友派」に勝負を挑むのだった。
法善寺の「紅梅邸」で吉本興行部(吉本興業)に抵抗を続ける「三友派」には、初代・桂春団治(皮田藤吉)という大看板が居た。
初代・桂春団治は、「芸のためなら女房も泣かす」という歌のモデルとなった落語家で、落語よりも話題作りを重視し、数々のスキャンダルを起こして世間を賑わし、スキャンダルの度に人気を上げた。
この初代・桂春団治は、支援者だった薬問屋「岩井松商店」の「岩井志う」という金持ちの未亡人(後家さん)を射止め、妻子を捨て「岩井志う」と再婚した。
この騒動は「後家殺し」として大いに世間を賑わせ、初代・桂春団治は、低迷する落語界にあっても絶大なる人気を誇っていたのである。
さて、初代・桂春団治は「三友派」の大看板だったのだが、三友派の寄席「紅梅邸」に出演する一方で、大正7年(1918年)に「浪速派」を立ち上げて太夫元(興行主)となった。
ところが、初代・桂春団治は一族郎党を率いて遊んでばかりで、寄席をスッポカスため、客は寄りつかなくなり、借金を膨らませる一方だった。
その結果、初代・桂春団治は、大正10年(1921年)に「浪速派」を解散して、大阪はインフルエンザが流行しているという口実で、大阪を逃げ出し、中国地方・九州地方へ旅巡業に出たのである。
これを待ちかねていたのが、吉本せい(林せい)だった。
以前から初代・桂春団治を狙っていた吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治の借金2万円を肩代わりすることで、月給700円で初代・桂春団治と専属契約を結び、念願の大看板を手に入れたのである。
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吉本興行部(吉本興業)が経営する「南地花月」の直ぐ西側に三友派の拠点「紅梅亭」があり、三友派は「紅梅亭」で吉本興行部(吉本興業)に抵抗を続けていた。
しかし、吉本の「南地花月」に初代・桂春団治の看板があがるようになると、「紅梅亭」の客は東の「南地花月」へと流れた。
さらに、吉本興行部(吉本興業)は月給制を採用した。大看板の初代・桂春団治などを除けば、それほど良い給料ではなかったが、不安定な芸人の妻が安定を喜んだ。
このため、三友派の芸人も安定を求めて、吉本興行部(吉本興業)へと移籍するようになる。
さて、吉本興行と三友派の引き抜き合戦のせいで、芸人は何もしていないのに、芸人の給料が高騰しており、芸人は怠けるようになっていた。
このため、大阪の顔役・酒井猪太郎が、こうした状況を良く思わず、吉本興行部(吉本興業)と三友派を仲介したので、「紅梅邸」で抵抗を続けていた三友派は条件付きで大正11年(1922年)8月に吉本興行部の軍門に降った。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は三友派を傘下に収めながらも、「花月連・三友派大合同連」という形で、三友派の名前は残した。
こうして、吉本せい(林せい)は「桂派」「三友派」「反対派」を読み込んで、上方の演芸界を制覇し、大正11年(1922年)に大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を経営して、吉本王国を築いたのである。
大正時代に入ると、現芸界の中心にあった落語が衰退の一途をたどっており、寄席には「落語不況」が訪れていたため、落語に変わる演目を発掘しなければならなかった。
そこで、吉本せい(林せい)は、全国的に流行していた島根県の民謡「安来節」に目を付け、
大正7年に島根県を訪れ、森山清太郎の「森山興業」から安来節を買い付けた。
こうして、安来節の第一人者「渡部お糸」の一座が大阪に来て、安来節を興行した。
このとき、「渡部お糸」の夫・実重源雄は痔が悪化していたので、「渡部お糸」と一緒に大阪に来て、京都の知り合いの病院で痔の手術を受けた。
その後、安来節は実弟・林正之助に任せたのか、実弟・林正之助が島根県を訪れ、「手見せ(オーディション)」を開いて、安来節の新人を発掘し、大阪へと送った。
また、吉本せい(林せい)は、ただの安来節では面白くないと思い、高い音域で歌い始めて独特のこぶしを利かせる「お直節」で有名な「遠藤お直」に目を付け、「遠藤お直」と専属契約を結んだ。
この頃の男性は、若い女子の半襦袢がチラチラとするだけで興奮したので、安来節はエロ目的で人気を集めて、昭和初期まで人気を博し、島根県では大勢の安来節成金が誕生した。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、東京・神田川の「川竹亭」を買収して「神田花月」と改名しており、「神田花月」を足がかりに東京進出を狙っていた。
そのようななか、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、東京の寄席は壊滅的な被害を受けた。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は直ぐに毛布や慰問品を買い付けると、弟・林正之助に支配人の青山督と滝野寿吉を付けて東京へ派遣し、東京の芸人を見舞わせると、東京の芸人は吉本興行部(吉本興業)に感謝した。
東京の落語家はプライドが高く、大阪の寄席には出てくれなかったのだが、地震嫌いの大御所・3代目「柳家小さん」が大阪に来てくれた。
すると、3代目「柳家小さん」の後に続いて、続々と東京の芸人が吉本を頼って大阪に来て、吉本興行部の寄席に上がった。
野茂珍しさもあって、東京の芸人の上がる寄席は何時も満員だったので、東京の芸人はこれに感謝し、東京にも吉本興行部(吉本興業)の名前が広まった。
吉本せい(林せい)が大正12年(1923年)10月26日に次男・吉本穎右(吉本泰典)を出産する。
長男・吉本泰之助が既に2歳で夭折しているので、次男・吉本泰典(吉本穎右)が跡取り息子である。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、上方の演芸界を征服し、待望の跡取りも誕生したので、ようやく我が世の春が来たと喜んでいた。
ところが、その矢先の大正13年(1924年)2月13日、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が死去してしまう。死因は脳溢血とも心臓麻痺とも言われる。享年39だった。
なお、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、妾(愛人)の家で死去したと伝わる。林正之助は、この噂を否定も肯定もせず、ただ夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾が居た事だけを認めている。
さて、大正時代は黒の喪服が定着していたが、船場の商家では、夫に先立たれると、「一生、二夫にまみえず」という意味で白い喪服を着る仕来りがあり、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の葬儀で白い喪服を着て、世間を驚かせた。
吉本せい(林せい)は気丈に振る舞っていたが、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死にはショックを受けており、「これからは、アンタが頼りやで」と言い、弟・林正之助に吉本興行部(吉本興業)の経営を任せた。
そして、吉本せい(林せい)は、生まれたばかりの次男・吉本泰典(吉本穎右)に家督を相続させ、自身は親権を行使するという形を取った。
また、吉本せい(林せい)は、この頃から警察のOBを積極的に雇い入れるようになり、ヤクザと警察の両方と付き合い、どちらとも付かず離れずの距離を保った。
夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は上方演芸界を制覇して吉本王国を築いたが、約30万円という莫大な借金を残しており、この借金が落語不況に苦しむ吉本興行部(吉本興業)の経営を圧迫していた。
このため、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死を悲しんでいる暇は無く、死んだ吉本泰三(吉本吉兵衛)の追善興行という名目で「東西合同名人会」を企画し、東京の神田花月を拠点にして本格的に東京進出を開始した。
さて、島根県の安来節が落語不況の救世主となっていたが、安来節は落語に変わる演目とまではいえず、落語に変わって演芸の中心となる演目を捜さなければならなかった。
そこで、吉本興業の経営を任された弟・林正之助が目を付けたのが、三流の寄席で流行していた「万歳(まんざい)」だった。
現在の「漫才」は、元々は「萬歳」と表記し、正月を祝う芸だったが、明治時代の後半に江州音頭の玉子屋円辰が「萬歳」から祝い事という要素を排除した「万歳」を確立して、演芸としての「万歳」が始まった。
初期の万歳は卑猥だったので、神戸では万歳が禁止されたのだが、明治45年(1912年)に大阪の万歳師・砂川捨丸が万歳から卑猥という部分を排除した「洗練された万歳」を確立し、神戸で万歳が解禁された。
砂川捨丸が神戸の新開地で行った「洗練された万歳」による興行を大当たりをさせたので、方々から万歳師が集まり、神戸の新開地が万歳のメッカとなっていた。
既に吉本興行部(吉本興業)にも数組の万歳師が所属しており、万歳に着目した弟・林正之助は、試験的に寄席に起用した。
そして、大正15年(1926年)には「大八会」という小さな団体に属していた万歳師・花菱アチャコに惚れ込んで、花菱アチャコを引き抜いた。
吉本興行部(吉本興業)は、「三友派」を傘下に収めて上方の演芸界を制覇し、吉本王国を築いたが、「三友派」は同盟という形で残り、「花月連・三友派大合同連」となっていた。
しかし、三友派の拠点だった「紅梅邸」の席亭・原田政吉が、昭和2年(1927年)に「紅梅邸」を吉本興行部(吉本興業)に売却し、三友派は消滅して吉本興行部(吉本興業)に吸収された。
それでも、落語家を大事にする吉本せい(林せい)は、「三友派」の名前を残そうと考えたのだが、落語嫌いの弟・林正之助は綺麗さっぱりと「三友派」の名前を消し、吉本単独の「吉本花月連」とした。
林正之助は法善寺の「紅梅邸」を残したが、既に法善寺には「南地花月」があり、近くに吉本の寄席が2つあっても、客を食い合いするだけなので、昭和10年(1935年)に由緒ある「紅梅邸」を料亭「花月」へと変えてしまった。
万歳に自信を持った弟・林正之助は、松竹の道頓堀の弁天座(定員1500人)を借りて、昭和2年(1927年)の夏に「諸芸名人大会」を開催し、昭和2年(1927年)12月にも「全国漫才座長大会」を開催した。
吉本興業は「演芸」で、松竹は「演劇」だったため、特に取り決めは無かったが、お互いに対立することもなく、共存していた。
ところが、弟・林正之助の開催した万歳イベントが大当たりしたので、弁天座を貸していた松竹の創業者・白井松次郎は、万歳が儲かることに驚き、吉本興業の万歳師を引き抜き始めたのである。
吉本興業は大阪の演芸界を制覇したが、あくまでも演芸界である。演芸界よりも演劇界の方が規模が大きく、演芸界・映画界の松竹と比べれば、子供と大人であり、天下の松竹が本気で万歳に出を出したら、吉本興業などひとたまりもない。
そこで、弟・林正之助は、松竹の乗り込み、松竹の創業者・白井松次郎を「刑務所にぶち込まれても吉本を守ります」「白井さんの命と引き替えになりますが、それでもよろしければどうぞ」と談判した。
こうして、弟・林正之助は、松竹の創業者・白井松次郎から「今後、吉本さんの手持ち(芸人)には一切、手を付けない」という念書を取り、松竹に手を引かせて吉本興行部(吉本興業)の危機を救ったのであった。
昭和4年(1929年)にアメリカの株価大暴落に端を発し、世界恐慌に発展した。昭和5年には日本にも不況の波が及んだ。世に言う「昭和恐慌」である。
弟・林正之助はこうした不況を受けて、入場料10銭で万歳を見せる「10銭万歳」を思いついた。ラムネが1本6銭で、10銭は狐うどん1杯くらいの値段である。
しかし、入場料10銭では寄席が満員になっても、赤字で採算は取れないため、吉本せい(林せい)は反対した。
それでも、弟・林正之助は吉本せい(林せい)の反対を押し切って、昭和5年(1930年)5月11日から、千日前の南陽館で「10銭万歳」を始めた。
この「10銭万歳」が大当たりしたので、他の会社がマネして「10銭ライス」「10銭寿司」など10銭の商品が次々と生まれ、「テン銭」ブームが起った。
林正之助は、昭和初期に「100円均一(ヒャッキン)」と同じシステムを流行らせたのである。
弟・林正之助の努力によって万歳は勢力を広めていき、吉本興行部(吉本興業)に所属する万歳コンビは60組になろうとしていた。
このようななか、林正之助は、昭和5年(1930年)3月に千日前の寄席「三友倶楽部」で、「万歳舌戦大会」を開催し、芸人の人気投票を行った。
この人気投票で、万歳コンビ「花菱アチャコ・千歳家今男」が3947票を取得して優勝する。2位を1000票も引き離しすという快挙だった。
すると、弟・林正之助は、自分が惚れてスカウトした花菱アチャコが優勝したので、これ以降、異常に花菱アチャコを可愛がるようになる。
吉本せい(林せい)が「他の芸人に示しが付かない」と注意したが、弟・林正之助は人目もはばからず、花菱アチャコを猫可愛がりした。
そのようななか、弟・林正之助は、横山エンタツを吉本興行部(吉本興業)にスカウトした。
横山エンタツは、東京時代に万歳の全てのスタイルをやり尽くしたという万歳の天才だが、アメリカ興行に失敗したため、芸能界に失望して引退し、ヘアピン(パーマの機械)やハトロン紙の製造に手を出したものの、運気に恵まれず、玉造の方で落ちぶれていた。
この横山エンタツが吉本興行部(吉本興業)に入る条件として出したのが、花菱アチャコとコンビを組むことだった。
横山エンタツは過去に「堀越一蝶の喜劇一座」に在籍していたとき、同じ一座に在籍していた劇団員の花菱アチャコと出会っていたのである。
しかも、開幕時間までの繋ぎとして、横山エンタツと花菱アチャコは1度だけ、即興でコンビを組み、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり万歳」を披露していたのである。
しかし、当時の万歳は「歌や踊り」がメーンで、「喋り」というのは歌や踊りの間をつなぐ添え物であり、客が万歳に求めるのは歌や踊りだった。
このため、横山エンタツと花菱アチャコの「喋くり万歳」は受け入れられず、客席から罵倒とミカンの皮が飛んでくるという有様だった。
それでも、横山エンタツは今一度、芸能界で勝負するのであれば、花菱アチャコと「喋くり万歳」に賭けてみたいと考えたのである。
弟・林正之助は、横山エンタツの条件を受け入れ、花菱アチャコとコンビを組ませ、昭和5年(1930年)5月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生した。
万歳の天才・横山エンタツによって徹底的に「喋くり万歳」の特訓がされた。時には鉄拳が飛んだという厳しい特訓だった。
さらに、横山エンタツは、和服を止めて洋服を着用し、「キミ」と「ボク」という標準語を取り入れた。さらに、新聞を熟読し、時事問題をネタに取り入れた。
こうして、「エンタツ・アチャコ」は、万歳からメーンの歌や踊りを排除した「喋くり万歳」を「二人漫談」とし称してデビューした。
しかし、客が万歳に求めるのは歌や踊りであり、客席からは「万歳をやれ」という罵声が飛ぶ有様で、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」は受け入れられなかった。
ところが、弟・林正之助が始めた「10銭万歳」の影響でサリーマンやインテリ層から労働者まで万歳が普及していくと、時事ネタを多用していた「エンタツ・アチャコ」はサラリーマンやインテリ層を中心に「インテリ万歳」として人気になり、結成から半年後には一流の寄席「南地花月」へと進出しした。
このころ、落語家は客が呼べないのに未だに一流気取りで口うるさく、台頭してきた万歳師と対立し、「落語家VS万歳師」という対立が起きた。
大正14年(1925年)6月1日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)がラジオ放送を開始しており、昭和に入るとラジオが普及し始めていた。
吉本せい(林せい)は、ラジオで演芸を聴くようになれば、誰も寄席に来なくなると、強い危機感を抱き、吉本の専属芸人から「吉本興行部の指定以外の場所においては、断じて出演しない。万一、違背した時は借金を即座に返済する」という公正証書を取った。
しかも、芸人は吉本興行部(吉本興業)から多額の借金をしていたので、吉本興行部が許可したラジオ番組に出演しても、「借金の返済」という名目で出演料を中抜きされ、ほとんどお金は貰えなった。
大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、こうした吉本興行部(吉本興業)の厳しい対応に激怒し、吉本興行部と対立した。
このようななか、昭和5年(1930年)12月17日に初代・桂春団治(皮田藤吉)が吉本興行部に無断でラジオ出演し、落語「祝い酒」を語ったのである。
当日、動きを察知した弟・林正之助は、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)を取り囲んで、初代・桂春団治の放送を阻止しようとした。
しかし、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は吉本の妨害を予想しており、仕事で京都に来ていた初代・桂春団治を引き留め、京都の放送局から放送していたのである。
さて、初代・桂春団治がラジオに無断出演すると、落語家が激怒して、「勝手な事を許すな」と吉本興行部(吉本興業)に抗議し、吉本興行部は初代・桂春団治の追放を決定した。
落語家を大事にする吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治を呼んで釈明させようとしたが、初代・桂春団治が出社しなかった。
このため、吉本興行部(吉本興業)は、初代・桂春団治に差し押さえを執行して、吉本興行部から追放することを決定した。
ところが、相手が悪かった。
他の芸人なら差し押さえを恐れるところだが、相手は数々のスキャンダルを起こして人気を上げて来たスキャンダル王の初代・桂春団治はである。
初代・桂春団治は、差し押さえを面白がって、返せる借金も返さずに、わざと差し押さえを受けて楽しんでいた事もあるので、差し押さえくらいは屁でもない。
吉本興行部から差し押さえを受けた初代・桂春団治は、差し押さえの札を1枚はがし、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか?」と言い、自分の口に差し押さえの札を貼り、新聞記者に写真をとらせるという有様だった。
これには林正之助も、「流石は一流の芸人や」と感心した。林正之助が芸人に感心させられたのは、生涯で、初代・桂春団治と横山やすしだけだった。
さて、初代・桂春団治の差し押さえが新聞で報道されると、たちまち話題となり、大勢の人が初代・桂春団治を見るために寄席に詰め、初代・桂春団治を寄席にあげなければ、暴動が起きそうな勢いだった。
吉本興行部(吉本興業)は初代・桂春団治の追放を決定していたので、困り果てたのだが、落語家・林家染丸が追放を主張していた落語家連中を説得し、落語家の総意として初代・桂春団治の恩赦を嘆願したので、吉本興行部は落語家・林家染丸の嘆願を渡りに船と喜んで、初代・桂春団治を許した。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は、さらに初代・桂春団治に金を貸して、金で吉本興行部に縛りつけるようになった。
また、吉本興行部(吉本興業)は、ラジオ事件を切っ掛けに、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)にも厳しい対応をとったので、大阪放送局は吉本興行部のギャラ搾取の実情を暴露するなどして対抗したので、両社の関係は悪化した。
初代・桂春団治(皮田藤吉)のラジオ事件と時を同じくして、東京でも柳家金語楼のラジオ事件が発生する。
東京の演芸界もラジオに対して危機感を持っており、芸人のラジオ出演を禁止していた。
ところが、東京でも、「爆笑王」と呼ばれた異質の落語家・柳家金語楼が、昭和5年(1930年)にラジオ出演禁止の取り決めを破ってラジオに出演したのである。
このため、落語家・柳家金語楼は東京の寄席から追放されてしまった。
そして、追放された落語家・柳家金語楼に、手をさしのべたのが、吉本興行部(吉本興業)だった。
吉本興行部(吉本興業)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)には差し押さえという厳しい態度を取るが、虎視眈々と東京進出を目論んでいたこともあり、東京の落語家・柳家金語楼には温かい手をさしのべたのだ。
こうして、落語家・柳家金語楼は、吉本興行部(吉本興業)の支援により、6代目・春風亭柳橋と共に「日本芸術教会(落語芸術協会)」を設立し、吉本興行部(吉本興業)に属した。
なお、後に、落語家・柳家金語楼が花菱アチャコに、六大学野球の「早慶戦」のチケットをプレゼントしたことが切っ掛けで、「エンタツ・アチャコ」の十八番「早慶戦」が誕生する。
昭和6年(1931年)9月に満州事変が勃発すると、吉本興業の林正之助は朝日新聞と手を組み、昭和6年12月に満州駐留軍の慰問団「皇軍慰問隊」を派遣した。
メンバーは、万歳のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸である。これに、吉本興行部の支配人・滝野寿吉が同行した。
戦地慰問団「皇軍慰問隊」は小規模だったが、朝日新聞がこれを大々的に報じてくれたので、三流として扱われていた万歳の格が上がり、万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」の売名に貢献した。
なお、この戦地慰問団「皇軍慰問隊」が、後に爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」へと繋がる。
昭和7年(1932年)3月1日、吉本興行部は「吉本興業合名会社」に改組し、吉本せい(林せい)が主宰者に就任し、弟・林正之助が総支配人に就任した。
資本金は6万円で、吉本せい(林せい)が4万円を出資し、弟・林正之助が2万円を出資した。
弟・林正之助は「10銭万歳」の成功で発言力を強めており、これを機に吉本せい(林せい)は第一線を退き、弟・林正之助に吉本興業の経営を任せた。
しかし、あくまでも、吉本興業の後継者は、吉本せい(林せい)の次男・吉本穎右(吉本泰典)であり、弟・林正之助もそれを確約している。
また、吉本せい(林せい)は、昭和3年(1928年)に弟・林弘高を吉本興業に招き入れており、吉本興業合名会社の設立を機に、弟・林弘高に東京の業務を任せ、東京支配人に就任させた。
なお、吉本せい(林せい)は落語家の担当で、万歳(漫才)には関わっていないため、吉本興業合名会社の設立以降のエピソードは弟・林正之助がメーンとなる。
吉本興業は、演芸のメッカ東京・浅草への進出を狙っていたが、浅草の演芸界から強い反発を受け、浅草進出は難航していた。
しかし、浅草の顔役・大久保源之丞が、協力を得て、吉本興業は昭和7年(1932年)7月に東京・浅草の「昭和座」へ進出する事が出来た。
そして、吉本興業は、昭和7年(1932年)7月に松竹から「新声劇」を借りて、東京・浅草の「昭和座」に出演させた。
舞台初日の前日に、林正之助が昭和座へ様子を見に行ったとき、「新声劇」の舞台監督をしていた橋本鐡彦(橋本鉄彦)に土足を注意された。
すると、橋本鐡彦(橋本鉄彦)はなかなか気骨のある奴だを思い、橋本鐡彦(橋本鉄彦)を大阪の吉本興業に呼び寄せた。
大阪に到着した橋本鉄彦(橋本鐡彦)が吉本せい(林せい)に挨拶に行くと、吉本せい(林せい)は「私は林(正之助)の前を歩いてきたが、これからは林の後ろを歩きたい。これからは貴方が林の相談相手になって言う事は言ってください」と頼んだ。
こうして、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は昭和10年10月に吉本興業に入社すると、昭和8年(1933年)1月に「文藝部」「宣伝部」「映画部」の三部門を設立し、三部門を統括する責任者となった。
そして、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は昭和8年(1933年)1月に「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」を観て、これはもはや「万歳」では無いと思い、文藝部が発行する「吉本演芸通信」で、「万歳」の表記を「漫才」に変更する事を発表した。
当時、流行していた「漫談」から「漫」の字を取り、「漫才」と名付けたのである。
これは、「万歳」を発掘した林正之助にも相談しておらず、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の独断であり、林正之助にも事後承諾させる形だった。
「万歳」という表記には歴史があるので、万歳師は猛抗議したが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は「万歳」が低俗で下品な芸に成り下がっており、既に「祝い事」という意味は無く、万歳師が乞食同然の扱いを受けている事に理由に万歳師を説得した。
しかし、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)など一部のメディアは「万歳」という表記を拒否した。
さらに、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は「エンタツ・アチャコ」のネタを活字にして「週刊朝日」に掲載しところ、好評だったので、漫才作家の必要性を痛感し、秋田實(秋田実)・長沖一らを吉本興業に招き入れ、吉本の頭脳陣を組織した。
吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、京都の松竹を創業した「白井松次郎」、宝塚歌劇団や東宝を有する阪急グループ総帥の「小林一三」にならび、三大興行師の1人になっていた。
演劇界・映画界の「松竹」「東宝」と比べると、演芸界の吉本興業は象と蟻ほどの差があるが、吉本せい(林せい)は莫大な富を築いていた。
経営の第一線を退いた吉本せい(林せい)は、熱心に寄付をしており、昭和3年に紺綬褒章を受章し、昭和9年(1934年)2月11日には、多額の寄付を下として、大阪府から表彰された。
これを持ってマスコミは、吉本せい(林せい)を「女今太閤」「女小林一三」などと賞賛した。
東京支配人の弟・林弘高が、アメリカのボードビルショー「マーカス・ショー」を招聘し、昭和9年(1934年)3月に東京・有楽町の日本劇場で「マーカス・ショー」を開催した。
元々、「マーカス・ショー」は、東京の日本劇場(日劇)と「マーカス・ショー」の間で話しが進んでいたのだが、日本劇場(日劇)が前金1万円を出さなかったので、巡り巡って弟・林弘高の所に話しが舞い込んだのである。
吉本せい(林せい)は反対したが、林正之助は「安来節でも儲かったので、裸踊りなら相当な儲けになる」と考え、吉本せい(林せい)を説得して、東京の林弘高にゴーサインを出した。
裸の女性が登場するというので、右翼や左翼や当局から横槍が入ったが、右翼団体「大化会」の会長・岩田富美夫の協力を得て、「マーカス・ショー」の通過査証(ビザ)の取得に成功し、昭和9年(1934年)3月に日本劇場で「マーカス・ショー」を開催する事が出来た。
「マーカス・ショー」の招聘には1万円という費用がかかったが、裸の女性が銀粉(銀泥)を塗った「ブロンズ・ビーナス」が人気を博して大成功し、吉本興業は10万円という莫大な利益を得た。
この「マーカス・ショー」の成功は、吉本興業の格を1段も2段も上げ、これを機に「ショー」という言葉が定着していく。
こうして得た莫大な利益を元手に、昭和10年(1935年)11月には「浅草花月劇場」をオープンし、「吉本ショウ」も発足した。
昭和5年(1930年)に起きた初代・桂春団治のラジオ事件を切っ掛けに、吉本興業と大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の関係は悪化し、対立が続いていた。
しかし、ラジオは着々と勢力を伸ばしており、無視できない存在になりつつだった。しかも、東京ではラジオ放送の翌日に寄席の客が増えていた。
このようななか、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、「早慶戦」というネタで絶大なる人気を誇る「エンタツ・アチャコ」に目を付け、吉本興業に出演を打診した。
これを受けて、吉本興業の橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、「今後の経営を考えるのなら、ラジオの力を認めないわけには行かない」と林正之助を説得し、林正之助にラジオ解禁を認めさせた。
このため、ラジオ反対派の社員は「御大(林正之助)は東京から連れて来た奴(橋本鉄彦)の言うことやったら聞くんやな」と嫌味を言った。
さて、吉本興業は、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の要請を受け入れる形で和解に応じて主導権を握り、法善寺の「南地花月」から中継放送させたが、「漫才」という表記は大阪放送局に拒否された。
このため、「エンタツ・アチャコ」は「2人漫談」として、昭和9年(1934年)6月10日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する法善寺の「南地花月」に出演し、十八番の野球ネタ「早慶戦」をやった。
入場料は1円と高額だったが、大勢の客が詰めかけ、「エンタツ・アチャコ」は大阪で絶大なる人気を得て、不動の地位を築いた。また、ラジオの電波に乗って全国へと人気を広めていった。
吉本興業はマーカス・ショー開催の勢いに乗って昭和9年(1934年)4月に、東京・新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催した。このとき、東京で初めて「漫才」という表記が使用された。
吉本興業は、この成功を受け、昭和9年8月21日に東京・新橋演舞場で第2回・特選漫才大会を開催した。
ラジオ出演で全国へと人気を広めた「エンタツ・アチャコ」は、この第2回・特選漫才大会に出場し、東京進出を果たした。
当時の六大学野球の「早慶戦」は世間の話題を独占するほどの人気であり、野球の早慶戦を漫才でやるということで、「エンタツ・アチャコ」の漫才を観るために、大勢の客が詰めかけた。
そして、「エンタツ・アチャコ」は10日間、大入満員という快挙を成し遂げ、大阪へ凱旋したのだった。
さらに、大阪へ凱旋した「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年9月10日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する法善寺の「南地花月」に出演した。
ところが、この出演が終わると、「エンタツ・アチャコ」のツッコミ担当・花菱アチャコは、担ぎ込まれるように入院した。
実は、花菱アチャコは東京・新橋演舞場で開催した第2回・特選漫才大会の出演中に中耳炎にかかっていたのである。
当時は良い薬が無く、中耳炎は死ぬ病気なので、花菱アチャコは直ぐにでも入院したかったのだが、第2回・特選漫才大会は「エンタツ・アチャコ」の運命を左右する大事な仕事だったので、花菱アチャコは病気を押して舞台に上がっており、ほとんど耳が聞こえない状態で仕事を全うし、大阪に凱旋後、ようやく入院したのだ。
ところが、1ヶ月後に花菱アチャコが退院すると、相方の横山エンタツは杉浦エノスケとコンビを組んで漫才をやっており、知らない間に「エンタツ・アチャコ」は解散していたのである。
「エンタツ・アチャコ」の解散の理由は、林正之助と横山エンタツの思惑だった。
元々、林正之助は花菱アチャコのボケに惚れ込んで、吉本興業にスカウトしたのだが、花菱アチャコは「エンタツ・アチャコ」ではツッコミに回っていた。
そこで、林正之助は「エンタツ・アチャコ」を2手に分けようと思い、横山エンタツに、ギャラは花菱アチャコと同額だと教えた。
すると、「エンタツ・アチャコ」で漫才を主導していた横山エンタツは、ギャラを折半している事を不満に思い、ギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケとコンビを組むことにして、吉本せい(林せい)にコンビ変更を申し出た。
吉本せい(林せい)は花菱アチャコが復帰するまで給料を支給すると言って止めたが、横山エンタツは「働いていないのに給料は貰えない」と言い、「エンタツ・アチャコ」を解散して、杉浦エノスケと漫才を始めた。
こうして、絶大なる人気を誇った「エンタツ・アチャコ」は、活動期間4年4ヶ月で解散してしまったのである。
花菱アチャコは、退院すると、「エンタツ・アチャコ」が解散しており、一切解散の理由も知らないまま「エンタツ・アチャコ」の解散を余儀なくされ、元相方・千歳家今男とコンビを再結成して漫才を再開する。
漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」と誕生と、「万歳」から「漫才」へ改称したことにより、名実ともに近代「漫才」時代を迎える一方で、落語は終演を迎えていた。
衰退した落語界にあっても絶大なる人気を誇った初代・桂春団治(皮田藤吉)だったが、東京では全く通用しなかった。
さらに、初代・桂春団治はラジオ事件を起こした翌年の昭和6年(1931年)に体調が悪化して以降は、ほとんど寄席に出られなくなっていた。
それでも、吉本せい(林せい)は、「吉本興業があるのは落語家のおかげ」と感謝しており、仕事の無い落語家にも給料を払い続けた。
特に、初代・桂春団治だけは、吉本せい(林せい)が直接、手渡しで給料を渡しており、他の者には任せなかった。
しかし、初代・桂春団治も昭和9年(1934年)10月6日に死去してしまう。享57で、死因は胃癌だった。
初代・桂春団治の弟子・桂小春団治は、落語家の中では優遇されている方だったが、林正之助の落語家冷遇に不満を募らせ、昭和8年(1933年)10日に吉本興業に内容証明を送りつけて、吉本興業を出奔した。
しかし、大阪では吉本興業を避けて落語を続ける事はできず、桂小春団治は東京へと流れていった。
昭和10年(1935年)、「女今太閤」「女小林一三」と賞賛され、名声を手に入れた吉本せい(林せい)に災いが降りかかる。
京都で発生した脱税事件が大阪に飛び火し、昭和10年(1935年)11月6日に大阪府議会の議長・辻阪信次郎が、脱税汚職事件で逮捕された。
さらに、同日、辻阪信次郎に連座して、吉本興業の主宰者・吉本せい(林せい)と吉本興業の税金係主任・吉崎競も逮捕されたのだ。
辻阪信次郎は、吉本興業が企画した「マーカス・ショー」を招聘に尽力した人物で、吉本興行の顧問格とされる。
かなり親密な関係だったようで、真偽は不明ながら、吉本せい(林せい)は辻阪信次郎の愛人だったと紹介する資料もある。
さて、吉本せい(林せい)には、辻阪信次郎らに賄賂を贈る見返りとして、吉本興業の興行税・所得税の査定で温情を受けていたという容疑がかかっていた。
一連の脱税汚職事件は広域に及び、松竹の創業者・白井松次郎を始め、新興キネマの取締役・福井福三郎や南地五花街を代表する料亭「大和屋」の主人・坂口祐三郎などが逮捕され、41人が起訴されるという大事件に発展した。
逮捕された吉本せい(林せい)は、昭和10年11月19日に刑務所に収容され、11月28日に贈収賄容疑で起訴されたが、病気を理由に釈放され、大阪赤十字病院に入院した。
この事件は、大物が次々と逮捕されて世間を賑わせたが、昭和11年(1936年)1月23日に辻阪信次郎が獄中でハンカチ2枚をつなぎ合わせて首を吊ったて死去したため、終わりを迎えた。
吉本興業に対する疑惑は、事件の真相を知る辻阪信次郎の死によって有耶無耶に終わり、吉本せい(林せい)は僅かな事件が立件されただけで、吉本興業存亡の危機は過ぎ去った。
あまりにも吉本興業に都合の良い幕引きだったので、辻阪信次郎は獄中で暗殺されたという説もある。
また、松竹の創業者・白井松次郎は相当な額の脱税が明るみに出て、糾弾されたのだが、辻阪信次郎に最も近い吉本興業が無傷だったことから、松竹は吉本興業を怨み、松竹と吉本興業の遺恨の要因となる。
なお、吉本せい(林せい)は、辻阪信次郎の死後、六女・吉本邦子(辻阪邦子)と辻阪信次郎の長男・辻阪昌一を結婚させ、辻阪昌一を吉本興業に迎え入れた。辻阪昌一は吉本興業の重役に就き、林正之助の参謀として活躍した。
昭和12年(1937年)、林正之助が「ミスワカナ・玉松一郎」が吉本興行にスカウトした。ミスワカナは3度目の吉本入りである。
昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発し、昭和13年(1938年)4月には国家総動員法が公布された。
そのようななか、弟・林正之助は昭和6年に派遣した戦地慰問団「皇軍慰問隊」を行おうと思い、朝日新聞に打診した。
これが実を結び、昭和13年(1938年)に朝日新聞からの要請を受ける形で、吉本興業は爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」を結成して派遣した。
「わらわし隊」は、航空部隊「荒鷲隊(わらわしたい)」と「笑わす」をかけた名前である。
吉本に入った「ミスワカナ・玉松一郎」は、「わらわし隊」に参加して、絶大なる人気を得て、瞬く間にトップスターへと駆け上り、全盛期の「エンタツ・アチャコ」を越える漫才コンビとなった。
このようななか、吉本せい(林せい)は昭和13年(1938年)9月27日に大阪のシンボル「通天閣」を31万円で購入する。
元々、通天閣を購入して通天閣の天辺から吉本の寄席を眺めるというのは、、死んだ夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の夢であり、吉本せい(林せい)がそれを実現したのだ。
既に吉本興業は通天閣周辺の寄席「新地花月」「芦辺花月」「南陽演舞場」を手中に収めており、「吉本の地を踏まなければ、通天閣に登れない」と言われる程になっており、吉本興業が通天閣を購入した事により、まるで新世界は吉本王国のようであった。
吉本興業が通天閣を購入したニュースは大阪を駆け抜け、吉本せい(林せい)は脱税汚職事件で逮捕された汚名を返上することができた。
ところで、吉本せい(林せい)が通天閣を改修したときに「ライオン歯磨」の広告を付けて経営難を乗りきったという逸話が残っている。
しかし、吉本せい(林せい)が通天閣を購入したとき、既に「ライオン歯磨」の広告は通天閣に取り付けられており、「ライオン歯磨」広告の逸話は創作である。
人気絶頂期の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は、花菱アチャコの入院を切っ掛けに解散し、横山エンタツと花菱アチャコに別々のコンビを組んでいた。
しかし、「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が強くなってので、吉本興業は、舞台では別々のコンビを組ませたまま、映画や放送限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させることにした。
吉本興業は、当初、松竹系の「大秦発声」と提携しており、大秦発声と「エンタツ・アチャコ」の映画出演の話を進めていた。
しかし、吉本興業は一転して、東宝系の「PCL」と提携して、昭和11年(1936年)に「エンタツ・アチャコ」の主演映画「あきれた連中」を大ヒットさせ、続編も制作した。
一方、小林一三が大正3年(1914年)に創設した宝塚少女歌劇のヒットを受け、松竹が大正12年(1923年)に「大阪松竹楽劇部」を設立して以降、東宝(東京宝塚)と松竹は、ことある事に対立していた。
そして、東宝と松竹は、東京で激しい勢力争いを続けており、昭和12年に、松竹の林長二郎が東宝へと移籍したことを切っ掛けに、険悪な関係に発展した。
また、このころ、映画業界は、戦時下の影響で、映画の上映時間が1日3時間に削減されたり、外国映画の輸入が制限されたりしたため、その穴埋めとして、アトラクションが重要となっており、演芸の重要性が増してきた。
そのようななか、東宝の小林一三の要請により、吉本興業の弟・林正之助が、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役を兼任し、吉本興業と東宝は関係を深めた。
すると、演芸部門の貧弱な松竹は、これに危機感を覚え、昭和14年(1939年)3月、松竹系の新興キネマに「演芸部」を設立し、演芸界に進出するため、莫大な資金力を背景に、大金を投じて、吉本興業の芸人を引き抜いたのである。
最初に、林正之助が目を掛けていた漫才コンビ「ミスワカナ・玉松一郎」が引き抜かれ、その後、「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミス・ワカバ」「香島ラッキー・御園セブン」「あきれたほういず」が引き抜かれた。
さらに、松竹は、林正之助が溺愛していた花菱アチャコに手を伸ばしており、花菱アチャコも新興キネマから大金を受け取っていた。
花菱アチャコは、有名なドケチだったので、大金に目がくらんで新興キネマへの移籍を決意しており、いくら説得しても、説得に応じなかった。
このため、最終的に吉本せい(林せい)が花菱アチャコの父親を脅したので、父親が花菱アチャコから金を取り上げ、新興キネマに金を返させた。
このとき、花菱アチャコは、吉本興業の足下を見て、一生面倒を見てくれと言い、吉本せい(林せい)に「一生面倒を見る」という念書を書かせた。
さて、吉本興業は移籍した芸人に対して法的な手段をとった。これに対して、移籍した芸人は吉本興業のブラック企業ぶりを暴露して反論した。
さらに、吉本興業は出演映画のフィルム上映を差し止めるなどして、吉本興行と新興キネマの抗争は世間を大いに賑わせた。
しかし、日本は日中戦争に突入していたとこもりあり、大阪府警と京都府警が大衆演芸に悪影響を及ぼすとして、吉本興行と新興キネマの抗争の仲裁に乗り出した。
そして、両府警の仲介により、吉本興業は移籍を認め、新興キネマが養育費として1万円を支払うという形で調停に及び、2ヶ月にわたる抗争に終止符が打たれた。
吉本興業は上方の演芸界を独占していたので、芸人を安い給料で扱き使っていたが、新興キネマの参入によって独占体制が崩れたため、吉本興業は芸人の給料を上げざるを得なくなった。
そして、林正之助は「ミスワカナ・玉松一郎」らが抜けた穴を埋めるため、旅芸人一座に居たミヤコ蝶々をスカウトし、第二の「ミスワカナ」として売り出した。
落語の没落後、林正之助の奮闘により、大阪では漫才が台頭していたが、全国的には浪花節(浪曲)が流行していた。
この頃のヤクザは任侠であり、浪花節(浪曲)はヤクザを英雄的に描いていたので、任侠団体「山口組」の初代組長・山口春吉は好んで浪花節(浪曲)を聞いていた。
山口組2代目・山口登は、先代の影響もあったので、「山口興行部」を発足して、浪花節(浪曲)の広沢虎造が所属する東京・浅草の「浪曲家興行社」と契約し、浪曲家興行社の関西興行を一手に引き受けていた。
そこで、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は昭和9年(1934年)9月、神戸の山口組2代目・山口登を料亭に招いて、「東京で浪花節(浪曲)を買いたいので、東京の元締めを紹介して欲しい」と頼んだ。
山口組二代目・山口登は、吉本せい(林せい)の頼みを快諾して、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)を紹介し、吉本せい(林せい)は浪花節(浪曲)の広沢虎造と専属契約する事が出来た。
広沢虎造のマネージメントは、引き続き、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)が行う事になっていた。
広沢虎造は、浪花節「清水の次郎長」が人気で、吃音と「声が小さい」という欠点があったが、吉本興業が売り出して次第に人気を集めていった。
さらに、ラジオとレコードによって「声が小さい」という欠点が解消され、やがて吃音も「味」となり、広沢虎造は大看板へと駆け上がっていった。
ところで、山口県の下関を拠点とする任侠団体「籠寅組」というヤクザが居た。
「籠寅組」は、竹籠の製造から発展したヤクザで、建築や興行にも進出し、当主の保良浅之助は下関の発展に尽力して、後に衆議委員議員を務めている。
そして、籠寅組は「籠寅興行部」を設立して興行界にも進出しており、保良浅之助の次男・保良菊之助が籠寅興行部を担当していた。
この籠寅興行部は、女剣劇の初代・大江美智子を擁して東京にも事務所を構えており、精力的に活動していた。
さて、問題の発端は、昭和15年(1940年)2月ごろ、広沢虎造が九州興行の帰りに下関を訪れ、籠寅興行部に挨拶したことにある。
籠寅興行部の興行主・保良菊之助が広沢虎造に映画出演を依頼すると、広沢虎造は「いいですよ」と安請け合いした。
ところが、広沢虎造の映画出演の権利は、吉本興業が持っており、吉本興業のバックには神戸の山口組が付いていた。
籠寅興行部の興行主・保良菊之助は、それを知らずに、広沢虎造の答えを真に受け、日活と提携して映画制作の準備を進め、昭和15年5月に制作発表した。すると、世間では大ヒット間違いなしと話題なった。
これに驚いたのが当の本人・広沢虎造である。広沢虎造は適当な性格だったので、映画出演の依頼のことを忘れており、マネージャーの浪曲家興行社に報告していなかったのだ。
広沢虎造の映画に関する権利を持つ吉本興業は、東宝と提携しているので、広沢虎造を日活の映画に出さない事を表明する。
しかし、籠寅興行部としては、制作発表をしておいて、広沢虎造が映画に出ないのでは、天下に恥をさらすことになる。
籠寅興行部が東京の浪曲家興行社に広沢虎造の映画出演について問い合わせても、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)は答えをはぐらかすばかりで、ハッキリした返事が返ってこない。
そこで、籠寅興行部は、広沢虎造が映画出演をしないのは、神戸の山口組が裏で糸を引いているからだと考え、和解を持ちかけ、山口組二代目・山口登と吉本興業の林正之助を食事に招待して、2人を殺そうとした。
しかし、吉本興業の林正之助が、招待を無視したので、籠寅興行部の計画は未遂に終わった。
そこで、籠寅興行部は、浪曲家興行社を張り込み、昭和15年8月15日に山口組二代目・山口登が浪曲家興行社に尋ねてきたところを、籠寅一家の4人組が襲撃したのである。
山口組二代目・山口登はこの時に受けた傷が原因で1年後に死去。田岡一雄が山口組三代目を継承した。山口組三代目・田岡一雄は、神戸芸能社を発足し、戦後、国民的歌手・美空ひばりを庇護した。
吉本せい(林せい)が通天閣を購入してから5年後の昭和18年(1943年)1月16日夜に、通天閣の西側にあった大橋座の2階から出火した。
火は瞬く間に燃え広がり、吉本興業の「新世界花月」「芦辺花月」にも燃え移り、さらに、通天閣の展望台が炎上し、通天閣は足部分を残して焼失した。
地元の住人は通天閣を残して欲しいと懇願したが、既に日本は太平洋戦争に突入して戦時統制下にあり、警察部長・坂信弥から「戦争の役に立たない。空襲の目印になるから、どうぞ通天閣を壊してくれ」と要請されていたので、吉本せい(林せい)は通天閣は補修せず、解体式を行い、通天閣を鉄として大阪府に献納した。
こうして、通天閣は300トンの鉄くずとなり、大阪府大阪市の大阪砲兵工廠に運び込まれたが、そのまま終戦を迎えたため、手つかずのまま赤サビとなった。
吉本せい(林せい)は、「赤サビで良かった。あの鉄が軍需工場で溶かされていたら、弾や鉄砲なんか、色んな兵器に変わって、何人の人が亡くなっていたことやら」と安堵した。
松竹系の新興キネマは、演芸部を設立して演芸界に進出したが、人気芸人は「ミスワカナ・玉松一郎」だけで、後は烏合の衆だった。結局、新興キネマの演芸部は、吉本興業に潰されて消滅した。
ミスワカナは吉本興業に戻りたいと頼んだが、林正之助は「いっぺん、出て行った者が戻るのは、他の芸人に都合が悪い」と言って相手にしなかった。
そうした一方で、爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」という名称は戦況の悪化から不謹慎とされ、第5回「わらわし隊」を最後に「わらわし隊」の名前は消えたが、吉本興行の戦地慰問は続いていた。
林正之助は、自分も芸人も徴兵されると営業が出来なくなるため、「わらわし隊で国に貢献している」として、自分や芸人の徴兵免除を求めて、徴兵を逃れた。
しかし、戦況の悪化から寄席の閉鎖を余儀なくされ、もう演芸とこどろの騒ぎではなくなっていた。
それでも、空襲が終わると、林正之助はヒロポンを打って自転車で現地に駆けつけ、寄席の被害を確認して廻った。
そうした努力もむなしく、吉本興業は、昭和20年(1945年)3月13日の大阪大空襲で全てを失ってしまった。
戦後、戦争で全ての寄席や演芸場を林正之助は、退職金代わりに芸人の借金を棒引きし、全芸人との専属契約を解除して、演芸を捨てた。
こうして、400人近い芸人が吉本興業から去って行ったが、花菱アチャコはだけは、頑として首を縦に振らず、「行く所もおまへん、残しとんなはれ」と懇願したので、林正之助は芸人で唯一、花菱アチャコだけを吉本興業に残した。
しかし、これは吉本興業への忠誠心などではなく、花菱アチャコは、ドケチだったので、吉本興業の芸人が自分だけになれば、仕事が来た時に仕事を独占できると考えたからである。
花菱アチャコの思惑など知らない林正之助は喜び、千日前の大阪花月劇場と常磐座を修復して興行を打って、その売上げを花菱アチャコにやり、その後は映画館とした。
こうして、演芸を捨てた吉本興業は、GHQの外輪団体「セントラル映画社」から映画配給を受け、映画館の経営で戦後の復興を始めた。
そのようななか、京都府から米軍将校のための遊楽施設を開設して欲しいという依頼が舞い込んでいた。
京都府は最初、松竹に頼んだのだが、松竹は外国人に不慣れな事を理由に、依頼を断ったため、吉本興業に依頼が来たのである。
林正之助は、「マーカス・ショー」を誘致して大成功した経験もあり、映画とキャバレーに着目していたので、京都府の依頼を引き受け、ギャバレーの開設をGHQに申請し、これを許可された。
吉本興業はキャバレーを開設するほど大きな小屋を持って居らず、祇園の甲部歌舞練場が候補に挙がったが、甲部歌舞練場は格式が高いので、ギャバレー目的では交渉が難航すると思われた。
ところが、吉本せい(林せい)の元番頭・一田進が甲部歌舞練場の前の小料理屋の女将と知り合いなので任せて欲しいと言うので、交渉を一田進に任せると、アッサリと甲部歌舞練場を借りる事が出来た。
こうして、林正之助は昭和21年(1946年)12月28日に進駐軍専用の「キャバレー・グランド京都」をオープンした。
さらに、「キャバレー・グランド京都」の隣の彌栄館を借りて映画館「ヤサカ・グランド会館」として、洋画を上映した。
吉本興業はキャバレー「グランド京都」で大儲けして、戦後の不況を乗り切り、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立し、昭和24年(1949年)5月には大阪証券取引所に上場を果たした。
一方、弟・林弘高の東京吉本は、昭和21年(1946年)10月31日に「吉本株式会社」を設立し、大阪の吉本興業から独立した。
戦後、吉本興業に見捨てられた大阪の演芸界は、落語家によって復興を始めた。落語家の5代目・笑福亭松鶴が戦後、落語会を開いて落語の復興を開始したのである。
松竹の創業者・白井松次郎は、演芸界に2度手を出して、2度とも吉本興業に痛い目に遭ったため、1年ほど、吉本興業の動きを観察していたのだが、吉本興業は一切、落語に見向きもしなかった。
そこで、松竹の創業者・白井松次郎は、5代目・笑福亭松鶴と手を組んで寄席を開いてみたところ、大当たりしたので、落語家を寄席にあげて上方の演芸界の復興を始めた。
他方、吉本興業に見捨てられた漫才師も、秋田實を盟主に「MZ研進会」を発足して復興を開始した。この「MZ研進会」は後に「宝塚新芸座」を経て「松竹新演芸(松竹芸能)」へと発展する。
こうして、戦後の吉本興業は、演芸を見捨てて、松竹が拒否したキャバレーや映画館で復興していき、キャバレーを拒否した松竹は、吉本興業が捨てた演芸で復興していくのである。
吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、大阪大空襲で大阪の家を焼け出されて甲子園の別邸に居を移しおり、戦後は報告書を読む程度で、吉本興業の経営には一切、変わっていない。
跡取り息子の次男・吉本穎右(吉本泰典)が順調に成長しており、後は次男・吉本穎右(吉本泰典)に吉本興業を譲るだけだった。
しかし、次男・吉本穎右(吉本泰典)は戦時中に、ジャズ歌手・笠置シヅ子(亀井静子)と出会って恋に落ち、結婚の約束をしたのである。
創業者・吉本せい(林せい)は、ジャズ歌手・笠置シヅ子との結婚に猛反対したが、ジャズ歌手・笠置シヅ子が妊娠したことから、態度を軟化させ、話し合いは良い方向へと向かっていた。
そのようななか、結核に感染していた吉本穎右(吉本泰典)は療養のため、甲子園の吉本別邸へと戻り、東京に残ったジャズ歌手・笠置シヅ子は出産のために入院した。
しかし、療養の甲斐も無く吉本穎右(吉本泰典)は悪化の一途をたどった。
いよいよダメということになり、林正之助は船をチャーターして笠置シヅ子を呼び寄せ、吉本穎右(吉本泰典)にひと目逢わせてやろうとしたが、吉本穎右(吉本泰典)が身重の笠置シヅ子を気づかって断った。
こうして、吉本穎右(吉本泰典)は、笠置シヅ子に会うこと無く、昭和22年(1947年)5月19日に死去してしまう。
このため、吉本せい(林せい)は、吉本穎右(吉本泰典)の棺桶に笠置シヅ子の写真を入れてやった。
一方、笠置シヅ子は吉本穎右(吉本泰典)が死んだという知らせを受け、絶望のなか、吉本穎右(吉本泰典)の浴衣を握りしめながら、昭和22年(1947年)6月1日に女児を出産した。
吉本穎右(吉本泰典)は「男の子なら『穎造』、女の子なら『エイ子』と名付けよ」と遺言しており、笠置シヅ子は生まれた女児を「亀井エイ子」と名付けた。
吉本せい(林せい)は亀井エイ子を引き取りたいと申し出たが、笠置シヅ子は吉本せい(林せい)の申し出を断り、自分の手で育てることした。
笠置シヅ子は吉本穎右(吉本泰典)と結婚するため、芸能界を引退していたが、亀井エイ子を育てるために歌手に復帰することを決め、作曲家・服部良一に「先生、たのんまっせ」と頼んだ。
こうして、作曲家・服部良一が作曲したのが「東京ブギウギ」である。
笠置シヅ子(亀井静子)は、出産から3ヶ月後の昭和22年(1947年)9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行って、歌手に復帰した。
そして、笠置シヅ子(亀井静子)は、米兵やパンパン娘から絶大なる支持を得て、「ブギの女王」としてスターへの道を駆け上がっていくのであった。
一方、吉本せい(林せい)も結核に感染しており、次男・吉本穎右(吉本泰典)の死後は急速に衰えていき、日本赤十字病院に入院したが、昭和25年(1950年)3月14日に甲子園の吉本邸で死去した。享年61だった。
吉本穎右(吉本泰典)の死によって男系は途絶えており、吉本せい(林せい)の死後、長姉となる三女・吉本峰子(吉本恵津子)が吉本興行を相続した。
弟・林正之助が演芸を捨てて、映画館とキャバレーの経営で安定経営を続けていたが、昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発して米兵が日本から去ったため、昭和27年(1952年)1月に「グランド京都」を閉鎖して店舗を返還した。
このようななか、吉本興行の事業部長・八田竹男は、テレビの登場によって映画産業が傾き始めていたことを受け、林正之助に、映画館の梅田花月を演芸場にして演芸部門の再開を主張した。
林正之助は専属の芸人は花菱アチャコしか居ないし、まだ映画がダメになったわけではないと拒否したが、八田竹男が秘策があるというので、林正之助は演芸部門の再会を認めた。
このとき、大阪の民放テレビ局「大阪テレビ」が「朝日テレビ」と「毎日放送」に分裂することになっていた。
八田竹男の秘策というのは、後発組の「毎日放送」と手を組み、吉本興業の演芸部門を復活させるというものだった。
こうして、吉本興業は昭和34年(1959年)3月1日、毎日放送の放送初日に「うめだ花月劇場」から「吉本バラエティ」(後の吉本新喜劇)を中継放送して、演芸界に復帰を果たした。
しかし、初日は、定員600人の「うめだ花月劇場」に、客はわずか17人だったので、林正之助は「お前ら吉本を潰す気か」と激怒し、八田竹男・橋本鐡彦(橋本鉄彦)・中邨秀雄に切腹させて千日前で晒し首にしようとした。
その後、番組中に「うめだ花月劇場より中継」というテロップをいれるようになると、次第次第に客が入るようになり、翌年の1月2日には3500人の客が詰めかけた。
すると、林正之助は「それみい。演芸場にしといて良かっただろ」と言って満足していた。
その後、紆余曲折はありながらも吉本興業は、「笑福亭仁鶴」「桂三枝」「やすき・きよし」「明石家さんま」「中田カウス・ボタン」「島田紳助」「松本人志」「板尾創路」など数々の人気タレントを輩出する一流芸能プロダクションへと発展するのであった。
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