吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の長男・吉本泰之助の立志伝です。
吉本泰之助は、大正5年(1916年)12月1日に吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)の長男として生まれた。母は吉本せい(林せい)である。
吉本家は大阪で5代続いた老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」を営んでいたが、日露戦争後の不況で貸し倒れが増えて家業が傾いていた。
それでも、芸人遊びが大好きな父・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、母・吉本せい(林せい)に借金取りの対応を任せて裏口から逃げ出し、旦那芸として覚えた剣舞にのめり込んで「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という芝居の興行主となって旅巡業に出て、旅巡業の度に借金を膨らませた。
そして、家業の荒物問屋「箸吉」は、父・吉本泰三(吉本吉兵衛)が旅巡業に出ている間に、大阪市電鉄の計画に引っかかって立ち退きを命じられ、そのまま廃業に至った。
父・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、旅巡業から戻ると無職になっていたが、それでも芸人遊びが止められず、天満宮(天満天神)裏門の寄席小屋「第二文芸館」の経営権を買い取り、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」(後に「天満花月」と改称)を創業した。
そして、父・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で二流・三流の芸人を集めた「反対派(岡田興行部)」と提携し、格安路線で業績を上げていった。
さらに、翌年の大正2年(1913年)1月には、吉本興行部を設立し、大正3年(1914年)には松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」などを買収して、寄席のチェーン展開を開始した。
このようななか、大正5年(1916年)12月1日、父・吉本泰三(吉本吉兵衛)に待望の長男・吉本泰之助が生まれた。
父・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、寄席の経営を始めるときに実家・吉本家から絶縁同然の扱いを受けたといい、代々、吉本家の当主が襲名する「吉本吉兵衛」を返上して、通称として「吉本泰三」を名乗っており、長男・吉本泰之助にも本名ではなく、通称から「泰」の字を取っている。
母・吉本せい(林せい)は8人の子供を産んでいるのだが、いずれも夭折いており、長男・吉本泰之助も大正7(1918年)年7月5日に、わずか2歳で死去した。
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