芸能界に君臨する「吉本興業」の創業者・吉本泰三(吉本吉次郎/吉本吉兵衛)の立志伝です。
吉本泰三(吉本吉次郎/吉本吉兵衛)は、明治19年(1886年)4月5日に、大阪市東区内本町橋詰町193番地で老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」を営む4代目・吉本吉兵衛の次男として生まれた。生母は吉本ミネである。
実家の荒物問屋「箸吉」は、父・吉本吉兵衛で4代目という老舗で、一般の箸よりも3割ほど長い「お箸」を主力商品とし、「お箸」を高級料亭などに納めていた。
なお、「お箸」を主力商品としていたことから「箸吉」という名前だが、店舗が橋詰町に在ったことから「橋吉」と書く資料もある。
また、吉本家の店なので「箸吉」を「はしよし」と読む資料もあるが、この「吉」は吉本家の当主が襲名する「吉兵衛(きちべい)」から来ているため、「はしきち」と読むのが正しい。
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吉本泰三という名前は、後に名乗る通名で、生まれた時は「吉本吉次郎」という名前だった。
また、吉本泰三が生まれる前年の明治18年(1885年)1月3日に兄(長男)・吉本吉三郎が3歳で夭折しており、吉本泰三は次男だが、跡取り息子として育った。
そのようななか、明治26年(1893ん年)6月3日に母・吉本ミネが死去し、それから約4年後に父・吉本吉兵衛が「吉本ユキ(出口ユキ)」を後妻に迎えた。
吉本泰三の生涯は、この後妻・吉本ユキ(出口ユキ)の登場によって狂い始める。
後妻・吉本ユキ(出口ユキ)には、出口光三郎という連れ子が居いた。
連れ子・出口光三郎は、聡明で家業の「箸吉」をよく手伝ったため、父・吉本吉兵衛は連れ子・出口光三郎を可愛がった。
さらに、後妻・吉本ユキ(出口ユキ)は性格が悪かったようで、吉本泰三を虐めたのである。
すると、吉本泰三は、父親への不信感や、後妻・吉本ユキ(出口ユキ)のイジメから、次第に家業に身が入らなくなっていっていき、芸人遊びに走るようになったのである。
ところで、父・吉本吉兵衛は、商売上手で、日露戦争の特需を切っ掛けに、貿易も手がけており、荒物問屋「箸吉」は大いに繁盛していた。
吉本泰三は荒物問屋「箸吉」の財力を背景に、芸人遊びがエスカレートしており、酒が飲めないのに、芸人を率いて連日連夜のドンチャン騒ぎで、芸人の間では、ちょっとした有名人であった。
吉本泰三は、酒は飲めないが、酔った振りをするのが得意だったという。
父・吉本吉兵衛は、吉本泰三に立ち直ってもらおうと思い、連れ子・出口光三郎を遠縁にあたる出来呉服店へと養子に出したが、吉本泰三の芸人遊びは治らなかった。
そこで、父・吉本吉兵衛は、結婚して身を固めれば、家業に邁進するのではないかと考え、才女として評判の林せい(吉本せい)に目を付け、吉本家に縁談を持ち込んで、見合いが行われた。
林せい(吉本せい)の父・林豊次郎は、林せい(吉本せい)の才能に惚れ込んでおり、婿養子を取って林家の米屋を継がせようと思っていたので、縁談を事を断った。
しかし、妻の「林ちよ」が縁談に賛成したので、林豊次郎は渋々、三女・林せい(吉本せい)を吉本家に嫁に出す事になった。
縁談は両家の親同士の話し合いでまとまったが、幸い、吉本泰三は太い女性が好みだったので、林せい(吉本せい)の事を気に入っていたようである。
こうして、明治40年(1907年)、吉本泰三は22歳の時に、19歳の吉本せい(林せい)と結婚したのである。
ところが、父・吉本吉兵衛の思いとは裏腹に、吉本泰三は結婚しても仕事を放り出して、芸人遊びにのめり込んでいた。
さらに、悪い事に、日露戦争後の不況のあおりを受け、荒物問屋「箸吉」は経営が傾き始めていた。
それでも、吉本泰三は、旦那芸とした覚えた剣舞に病みつきになっており、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という怪しげな一座の太夫元(興行主)となって、地方巡業に出て、自らも幕の合間に舞台に立って趣味の剣舞を披露するという有様で、地方巡業に出る度に借金を膨らませた。
このため、荒物問屋「箸吉」は、不景気の影響もあり、2度の差し押さえを食らい、父・吉本吉兵衛は「箸吉が4代目で潰れてしまう」と嘆いた。
このようななか、明治43年(1910年)4月8日に入籍し、妻「吉本せい」と正式に結婚した。これは、妻「吉本せい」が妊娠したからだろうと思われる。
その一方で、荒物問屋「箸吉」は大阪市電鉄の計画に引っかかり、明治43年に立ち退きを命じられた。
この年(昭和43年)、玉造の風呂屋で成功した「風呂政」こと岡田政太郎が、三流の寄席「梯子亭(はしごてい)」を手入れ、「富貴亭」と改称して寄席の経営を開始した。
さらに、岡田政太郎は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で、二流・三流の芸人をかき集め、浪速の落語に反対する「浪速落語反対派(岡田興行部)」という芸能プロダクションを立ち上げて大当たりさせた。
この「富貴亭」は、荒物問屋「箸吉」の近くで、それに触発された吉本泰三は寄席の経営を始めたいと思うようになったという。
このままでは老舗の「箸吉」が潰れてしまうと思った父・吉本吉兵衛は、吉本泰三に何とか立ち直ってもらおうと思い、「吉左衛門」を名乗って隠居し、吉本泰三に5代目「吉本吉兵衛」を襲名させた。
こうして、吉本泰三は明治44年(1911年)に5代目「吉本吉兵衛」を襲名して吉本家の当主となったが、芸人道楽にのめり込んでおり、経営が傾いていた荒物問屋「箸吉」をたたき売って、寄席の経営を始めようと考えていた。
しかし、妻「吉本せい」は、あくまでも、荒物問屋「箸吉」の「ごりょんさん」として嫁に入っており、店の再建を主張して夫婦喧嘩を繰り広げた。
結局、立ち退きを命じられた荒物問屋「箸吉」は東区大手前に移転したが、妻「吉本せい」だけではどうすることもできず、吉本泰三が旅巡業に出ている間に荒物問屋「箸吉」は廃業した。
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妻「吉本せい」は、後妻・吉本ユキ(出口ユキ)から壮絶なイジメを受けていた事もあり、吉本家を出て実家の林家に戻り、旅巡業に出ている吉本泰三の帰りを待った。
しかし、結婚に反対だった父・林豊次郎が吉本泰三に激怒していたこともあり、実家・林家にも長居せず、妻「吉本せい」は吉本泰三が戻ると、丸帯を売って26円を作り、天満宮(天満天神)表にある長屋に引っ越した。
そして、妻「吉本せい」が針仕事で生活費を稼いでいる間も、吉本泰三は芸人遊びにうつつを抜かしていた。
そのようななか、吉本泰三の取り巻きの1人・渡辺力蔵(後の漫談家・花月亭九里丸)が、天満宮(天満天神)の寄席「第二文芸館」を売り出しに出ているのを知り、吉本泰三に報告した。
天満宮(天満天神)の裏に寄席が8軒並んでおり、この8軒を「天満8軒」と言い、「天満8軒」の一番端に、何をやっても客が入らないという三流の寄席「第二文芸館」があった。
この「第二文芸館」は「互楽派」が出演する寄席だったのだが、何をやっても客が入らず、「互楽派」も半年で崩壊する有様で、「第二文芸館」も売りに出ていたのだ。
これを知った吉本泰三は、岡田政太郎に相談しだのだろう。詳しい経緯は不明ながら、「第二文芸館」を購入する約束をしてきたのである。
帰宅した吉本泰三が「第二文芸館」を購入する事を教えると、妻「吉本せい」は「ほな、そこ、ウチがやるって言うてしもたって。私に事後承諾せえいうことですがな」と呆れた。
「第二文芸館」の土地は天満天神の物なので買えず、購入するのは営業権だけで、経営権300円、家賃25円である。
しかし、買う約束をしてきたと言っても、当然のことながら、吉本泰三にも妻「吉本せい」にも、そんな大金は無い。
実家の吉本家には、それくらいの金はあるだろうが、金を借りに行けば、憎たらしい後妻・吉本ユキ(出口ユキ)に何を言われるか分からないので、借りに行く気にはなれない。
吉本泰三は「金が要る。金が要る」と騒いでいたが、妻「吉本せい」は知らん顔をしていた。
しかし、結局、吉本泰三はお金を用意できなかったので、妻「吉本せい」は福島の高利貸し「鬼熊」から100円を借りて、残り200円は実家の父・林豊次郎に頼み込んで借りてきた。
すると、本泰三は「せい、おおきに。やっぱ嫁ハンや」と大喜びし、「後はワシに任せとけ」と胸を叩いたのであった。
さて、玉造の風呂屋で成功した「風呂政」こと岡田政太郎は、「富貴亭」の席亭となって寄席を経営する一方で、二流・三流の芸人をかき集め、浪速の落語に反対する「浪速落語反対派(岡田興行部)」という芸能プロダクションを立ち上げて大当たりさせた。
岡田政太郎は、芸の技術を競う逢う演芸界に、「安くて面白い」というビジネス的な概念を持ち込んだ演芸界の風雲児である。
吉本泰三は、芸人遊びを通じて、以前から岡田政太郎と知り合っており、「第二文芸館」の購入したのも、岡田政太郎の助言があったと考えられる。
吉本泰三は「第二文芸館」を購入すると、岡田政太郎の「浪速落語反対派」と提携して、「浪速落語反対派」から芸人を派遣してもらい、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。これが吉本興業の創業である。
一般的な寄席は入場料15円が相場だったが、「文芸館」は入場料5円という格安路線で営業を開始した(注釈:明治45年は「そば」1杯が3銭で食べられた)。
ただし、他の寄席は入場料に下足代2銭が含まれていたが、「文芸館」の場合は下足代2銭を別に取ったので、実質的な入場料は7円だった。これも入場料を安く見せる工夫だった。
ところで、明治時代は、芸人が「川原乞食」と呼ばれて差別されており、芸人遊びは甲斐性として認められていたが、寄席の経営をして芸能界に足を踏み入れることは忌み嫌われていた。
このため、吉本家は、老舗の荒物問屋「箸吉」を営んでいたプライドから、「川原乞食に成り下がることはない」と激怒しており、吉本泰三を勘当、同然に扱ったという。
このため、吉本泰三は寄席の経営を開始する時に、吉本家から襲名した5代目「吉本吉兵衛」の使用を止め、通称「吉本泰三」を名乗るようになった。
吉本泰三は気分を変えるためだと言ったが、もう引き返せないという決意の表れであり、実家・吉本家への決別の意思表示なのは明らかだった。
ただし、戸籍までは変更しておらず、本名「吉本吉兵衛」、通称「吉本泰三」という形である。
妻「吉本せい」は、休日には定員200人の「文芸館」に一晩で700人を入れたり、客の捨てていったミカンの皮を薬問屋に持って行き、咳止め用の陳皮の原料として売ったりして、様々な工夫で売上げを伸ばしていった。
吉本泰三は寄席の経営を妻「吉本せい」に任せて遊びに行っていたので、具体的なエピソードは少ないが、お茶子の前掛けをデザインしている。
吉本泰三は、菱形に「吉」の字を入れたデザインを考え、お茶子が前掛けをすると、菱形がお茶子の股間にくるように配置した。
これは、菱形が女性の象徴を表すという卑猥な洒落だが、吉本興行部の宣伝目的だった。また、吉本泰三はビルの上からビラをまいたり、火事があったら、炊き出しを行ったりして、吉本興業の宣伝に力を入れた。
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お茶子の前かけの宣伝が功を奏したのかは不明だが、寄席の経営は成功し、創業の翌年の大正2年(1913年)1月に、大阪府大阪市南区笠屋町で「吉本興行部」を設立した。「吉本興行部」が後の吉本興業である。
ただし、吉本泰三は、「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎と共同で「芦辺合名社(芦辺合名会社)」を設立し、「芦辺商会」を名乗っており、正式に「吉本興行部」を名乗るのは4年後の大正6年(1917年)ごろである。
さて、吉本泰三は寄席の経営を開始して以降も、芸人道楽に走っており、寄席の経営が成功したのは妻「吉本せい」のおかげだとされている。
しかし、吉本泰三が芸人道楽を続けていたのは仕事であり、連日連夜にわたり、盟友の岡田政太郎と買収する寄席について話し合っていたのだ。
こうして、吉本泰三は、大正3年(1914年)に松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収し、二流・三流の寄席ながらも複数の寄席を経営て、寄席のチェーン展開を始めた。
妻「吉本せい」の功績を引き立たせるため、吉本泰三は道楽者の若旦那という風に描かれる事が多いが、実話の吉本泰三は相当にしたたかで野心家だった。
大正3年(1914年)、吉本泰三は、妻「吉本せい」を連れて通天閣に登ると、通天閣から天下を眺め、「いつか、大阪中を寄席を吉本の物にして、通天閣から眺めたい」と語った。
既に吉本泰三は、上方演芸界を制覇して、大阪のシンボル・通天閣を買収する事を夢見たのである。
吉本泰三は、岡田政太郎と同盟を組んで「芦辺合名社(芦辺商会)」を設立し、「岡田・吉本反対派連合」という形で勢力を伸ばしてきたが、いつか、岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込もうと考えていた。
吉本泰三は、その足場固めとして、大正3年(1914年)に吉本興行部の寄席を「花月亭」と決め、天満の「文芸館」を「天満花月」へと改名し、寄席を「○○花月」という形で統一した。
また、吉本泰三が野心家だったので、コツコツと貯金をして、この頃には1万円という大金を貯めており、妻「吉本せい」に、この1万円を元手にして法善寺の一流寄席「蓬莱館(元・金沢亭)」の買収する事を命じるのであった。
一流の芸と言われた落語は、「桂派」と「三友派」に分裂し、桂派は法善寺の「金沢亭(後の蓬莱館)」を拠点とし、対する三友派は法善寺の「紅梅邸」を拠点とした。
こうして、「桂派」と「三友派」が、しのぎを削り、明治時代の中期に落語の黄金期を築いていた。
しかし、明治末期になると、落語は衰退を始め、「桂派」は大正元年(1912年)に「寿々女会」「大正派」に分裂して消滅し、桂派の拠点だった「金沢亭」も「蓬莱館」へと名前を変えていた。
一方、「三友派」も盟主的な存在だった席亭・原田ムメが大正3年(1914年)2月27日に死去しており、求心力を欠いていたが、三友派には初代・桂春団治などの人気落語家が残っており、依然として勢力を誇っていた。
そこで、吉本泰三は、妻「吉本せい」に落ち目の「蓬莱館(金沢亭)」の買収を命じたのである。
蓬莱館(金沢亭)の席亭は金沢利助という高利貸しで、別に金に困っているわけでもないため、売値は1万5000円でビタ1文負けられないと言った。
しかし、妻「吉本せい」は1万2000円に値引きさせることに成功して、大正4年(1915年)に「蓬莱館(金沢席)」の買収したのである。
すると、吉本泰三は「蓬莱館(金沢席)」を「南地花月」と改名した。「南地花月」は法善寺にあるため「法善寺花月」と呼ばれる事もある。
こうして、吉本泰三は、寄席の経営を開始してから、わずか3年で一流の寄席「南地花月」を手に入れ、「吉本・岡田反対派連合」は「南地花月」を拠点にして、直ぐ西にある三友派の「紅梅邸」に勝負を挑むのだった。
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吉本泰三は、盟友・岡田政太郎から右腕の青山督を派遣してもらっており、盟友・岡田政太郎の協力を得て、寄席の経営を成功させていた。
しかし、吉本興行部の寄席が増えた事で、芸人に対する影響力が強くなり、「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎との立場が逆転し、吉本泰三が芸人に対する実権を握るようになっていた。
吉本泰三は表面上は岡田政太郎と友好関係を築いていたが、水面下では虎視眈々と「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込むために準備を進めていた。
その一環として、大正6年(1917年)ごろから、吉本泰三は岡田政太郎と共同で設立した「芦辺合名社(芦辺商会)」を名乗るのを止め、正式に「吉本興行部」を名乗るようになった。
このようななか、妻「吉本せい」は10歳年下の実弟・林正之助を吉本興行部(吉本興業)に入れる事を思いついた。
弟・林正之助は北野中学校の受験に失敗し、兵庫県明石の白井家に嫁いだ長姉「林きく(白井きく)」が営む太物店に奉公に出ていた。
妻「吉本せい」は長姉「林きく(白井きく)」から弟・林正之助が商売上手だと聞いていたので、ちょうど奉公が開けて実家・林家に戻っていた弟・林正之助を吉本興行部に招き入れることにしたのである。
吉本泰三は林正之助を吉本興行部に入れる事に乗り気では無かったが、妻「吉本せい」に押し切られ、「正之助君ならワシの腹の内をバラす事はないやろう」と思い、林正之助を「席亭見習」として吉本興行部に入れた。
こうして、林正之助は大正6年(1917年)に吉本興行部(吉本興業)に「席亭見習」(アルバイト)として入り、直ぐに「総監督」になった。ただし、「総監督」と言ってもただの雑用である。
明治・大正・昭和という時代は、芸能界とヤクザは切っても切れない関係にあり、吉本興行部(吉本興業)は急激に勢力を拡大していたことから、何かにつけて、ヤクザから言い寄られていた。
ただ、戦前のヤクザは、弱きを助ける「任侠」だったので、女や老人には無茶なことを言わなかった。
そこで、吉本泰三はヤクザが来ると、ヤクザの対応は妻「吉本せい」に任せて、裏口から逃げ出して遊びに行った。
このため、ヤクザの対応は妻「吉本せい」がしていたのだが、妻「吉本せい」で話が付かないときは、林正之助に「ちょっと行ってきてくれるか」と頼んだ。
林正之助は何も知らずに、言われた場所に行ってみると、相手はヤクザの親分だったという事もあった。
吉本泰三は、盟友の岡田政太郎と協力して、落語の「三友派」を切り崩しにかかる一方で、岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込むチャンスをうかがっていた。
そのようななか、大正8年(1919年)、吉本泰三は北新地の一流寄席「永楽館」の買収に成功する。「永楽館」は三友派を代表する寄席の1つだが、ついに吉本興行部の軍門に降ったのだ。
こうして、吉本興行部は「永楽館」を「花月倶楽部」と改名し、北新地の「花月倶楽部」、南地の「南地花月」という大阪でも有数の寄席を2つも手に入れた。
一方、盟友・岡田政太郎も、京都へと進出し、新京極の「富貴席」「笑福亭」西陣の「富貴席」を手に入れて勢力を拡大した。
さらに、吉本泰三は三友派の実力者・三升家紋右衛門を月給500円で引き抜いた。月給500円は高額だが、これが良い宣伝となり、三友派の実力者である桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などが吉本興行部(吉本興業)へと移籍した。
こうして、「吉本・岡田反対派連合」は、三友派を切り崩していったが、三友派の拠点「紅梅邸」には、絶大なる人気を誇る初代・桂春団治が居り、依然として人気を誇っていた。
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吉本興行部(吉本興業)には、若干の専属芸人が居たが、本業は寄席の経営であり、芸人は岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」から派遣してもらっていた。
しかし、吉本興行部は多くの寄席を経営することから芸人に対する影響力を強めており、既に「浪速落語反対派(岡田興行部)」の実権は吉本泰三が握っていた。
そこで、吉本泰三は表面上は盟友・岡田政太郎と友好関係を築きながらも、水面下では虎視眈々と岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込む隙を狙っていた。
一方、吉本興行部で総監督として働いていた林正之助も、「芸人に余計な経費がかかっている」と考え、安定経営していくためには「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込む必要があると考えていた。
しかし、林正之助が姉の「吉本せい」に意見すると、姉の「吉本せい」は「大将(吉本泰三)は、そんなこと百も承知や。けど、今は口が腐っても、それを言うてはなりまへん。アンタがそんな事に口出しすることはおまへん。時が来たら大将が処理します」と釘を刺した。
このようななか、大正9年(1920年)12月に「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎が急死した。
すると、吉本泰三は、岡田政太郎の懐刀である青山督、切れ者と評判の滝野寿吉、妻の「吉本せい」、林正之助を集めて、連日連夜、対応を協議した。
このとき、林正之助は「吉本派」の発足を意見した。これが吉本興行部(吉本興業)の運命を左右することになる。
吉本泰三は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に浪速落語反対派(岡田興業部)を継承してさせておき、1万円の手形を渡して浪速落語反対派(岡田興業部)の権利を売却させたのである。
しかし、吉本興行部は岡田興業部時代よりも待遇が悪かったので、一部の芸人が吉本興行部に対して「10ヶ条の要求」を突きつけてストライキに入った末、次男の岡田政雄を擁立して「岡田反対派」を発足し、京都で籠城した。
そこで、吉本泰三は、渡した1万円の手形を不渡りにして、浪速落語反対派(岡田興業部)の権利をタダで継承し、「吉本派」を発足した。
結局、「岡田反対派」は3ヶ月程度で消滅して「吉本派」に吸収された。「吉本派」は「花月派」と改称した後、大正11年(1922年)に「吉本花月連」となった。
こうして、吉本興行部(吉本興業)は、反対派の寄席を吸収して大勢力に発展し、直属の芸人も大勢抱え、寄席の経営から、太夫元(興行師)へと進出したのである。
吉本興行部は浪速落語反対派(岡田興業部)を飲み込んで大勢力に発展したたが、良い事ばかりでは無かった。
大正時代に入ってからは、落語が衰退の一途をたどっており、演芸界は落語不況が訪れていたのだ。
そこで、妻「吉本せい」は、三流の寄席で流行していた島根県の「安来節」に目を付けた。
しかし、上方に来ている「安来節」は何時も同じ顔ぶれで、ギャラも割高になっていたことから、弟の林正之助を島根県へ派遣し、新人を発掘させた。
また、妻「吉本せい」自身も、独特の節回しで有名になる「遠藤お直」を吉本興行部にスカウトした。
当時の男性は若い女性の太ももがチラチラとするだけで鼻血を出して興奮したので、島根県の「安来節」はエロ目的で人気を博し、昭和初期まで安来節ブームが続いた。
落語の「三友派」には、絶大なる人気を誇る初代・桂春団治という大看板が居り、三友派は法善寺の「紅梅邸」で、吉本興行部(吉本興業)に抵抗を続けていた。
しかし、初代・桂春団治は、興行に失敗して莫大な借金を作ったため、インフルエンザが流行しているという口実で、大阪を逃げ出して九州へと旅巡業に出た。
その後、初代・桂春団治が帰阪すると、「吉本せい」が待ち構えており、「吉本せい」は初代・桂春団治の借金2万円を肩代わりし、月給700円で専属契約を結んだ。
こうして、法善寺の「南地花月」に初代・桂春団治の看板があがるようになると、「紅梅邸」の客は「南地花月」へと流れた。
また、吉本興行部は月給制を採用したため、安定が欲しい芸人が三友派から吉本興行部へと移った。
すると、これには溜まらず、「紅梅邸」で抵抗していた三友派も、大正11年(1922年)8月に吉本興行部(吉本興業)に降った。
こうして、吉本泰三は、寄席の経営開始からわずか10年で、「桂派」「三友派」「浪速落語反対派」を飲み込み、上方の演芸界を制覇したのであった。
そして、吉本泰三は、最盛期の大正11年(1922年)に大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手中に収め、吉本王国を築いたのである。
ただし、三友派は事実上の降伏であったが、名目上は「花月連三友派合同連」という形で、三友派の名前は残った。また、「大八会」などの小さな勢力は残存している。
吉本泰三は、大正11年(1922年)に東京・神田川の「川竹亭」を買収して「神田花月」と改名しており、「神田花月」を足がかりにして東京進出を開始した。
その矢先、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、関東の寄席は壊滅的な被害を受け、吉本興行部の東京進出は後退する。
しかし、吉本泰三は毛布や物資を買い付け、林正之助に支配人の青山督と滝野寿吉を付けて東京へ派遣し、東京の芸人を見舞わせた。
すると、東京の落語家が吉本興行部(吉本興業)を頼って大阪に来て、吉本の寄席に上がってくれた。
物珍しさもあって、東京の芸人が上がる寄席は何時も満員大入りだったので、東京の落語家は吉本興行部(吉本興業)に感謝したので、吉本興行部の名前は東京にまで広まった。
さらに、大正12年(1923年)10月26日に待望の跡取りとなる次男・吉本泰典(吉本穎右)が生まれた(注釈:長男・吉本泰之助は夭折している)。
吉本泰三は、吉本王国を築き、待望の跡取り吉本泰典(吉本穎右)も生まれたことから、ようやく我が世の春が来たと喜んでいた。
ところが、その矢先の大正13年(1924年)2月13日に吉本泰三は死去してしまう。死因は脳溢血とも心臓麻痺とも言われる。享年39だった。
妻「吉本せい」は、医師から子供は産めなくなると言われたとき、吉本泰三に愛人(妾)を持つように勧めており、吉本泰三は愛人(妾)の家で死去したと伝わる。
吉本泰三の死後、妻「吉本せい」は、生まれたばかりの次男・吉本泰典(吉本穎右)に家督を相続させ、自分は親権を行使するという形で吉本興行部の運営にあたり、吉本興行部の経営は実弟・林正之助に任せた。
妻「吉本せい」は次男・吉本泰典(吉本穎右)に吉本興業を継がせるつもりだったが、次男・吉本泰典(吉本穎右)はジャス歌手・笠置シヅ子と恋愛騒動を起こした末、昭和22年(1947年)5月19日に結核で死去してしまう。
さらに、妻「吉本せい」も、次男・吉本泰典(吉本穎右)の死を切っ掛けに急激に衰退し、昭和25年(1950年)3月14日に死去してしまう。
吉本泰三の子供は男系は絶えており、吉本せい(林せい)の死後、長姉となる三女・吉本峰子(吉本恵津子)が吉本家と吉本興行の株式を相続し、林正之助に迎え入れられ、吉本興業の重役を務めた。
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