NHKの朝ドラ「わろてんか」に安来節「乙女組」が登場するので、吉本興業と島根県の安来節の実話を紹介します。
安来節の起源は、諸説あるのだが、幕末には安来節の原型のような歌が誕生しており、安芸の鍼医・大塚順仙がよく歌っており、大塚順仙が安来節の元祖だとされる。
その後、鳥取県・境港の芸子「さん子」が、安来節の原型に独自の改良を加えて「さん子節」が誕生し、「さん子節」が島根県の安来町に伝わって安来節となったと言われている。
この安来節は明治時代に大阪にも伝わっていたのだが、この頃の安来節は花街の間で流行していた崩れた安来節だった。大阪・通天閣のお膝元であるルナパークで上演されて人気を呼んでいた安来節も、崩れた安来節だったのだろう。
大阪で崩れた安来節を聞いた島根県人がこれを嘆き、正調・安来節を聴いた画家・横山大観の推奨もあって、明治44年に島根県で正調安来節保存協会が発足した。
これにともない、正調・安来節の第一人者である「渡部お糸」を中心に「遠藤お直」「吉儀お品」「大野浅野」らが集まり、「渡部お糸」の一座が発足したのである。
そして、「渡部お糸」による正調・安来節は、大正2年に島根県で開催された「日本勧業博覧会」を切っ掛けに、全国的に広まったと言われる。
その後、「渡部お糸」の一座は、大正5年ごろに兵庫県・神戸の聚楽館で開催された第1回全国俚謡大会に出場して優勝し、東京へも進出を果たした。レコードの販売もあり、安来節は全国的に広まっていく。
吉本興業(吉本興行部)と安来節の関係が始まるのは、大正7年か大正8年のことで、吉本興業の吉本せいが島根県を訪れ、「森山興業」の森山清太郎から安来節の一座を買い付け、「渡部お糸」の一座が大阪へ来て吉本の寄席に上がった。これは巡業ではなく、長期間の常打ちだったようだ。
「渡部お糸」の一座は、大阪でも人気を得た要で、吉本興業は大正10年に「渡部お糸」の一座を使って東京で安来節興行を行い、念願の東京進出を果たしている。
このように、安来節は吉本興業の東京進出に大きく関与するのだが、こうした経緯が紹介されることは無く、一般的に吉本興業と安来節の関係は、大正11年に吉本興業の林正之助が島根県を訪れて安来節を買い付けるところから紹介される。
林正之助は、吉本せいの命令を受けて、島根県を訪れ、手見せ(オーディション)を開催して、新人を発掘して吉本興業の寄席に上げた。
真偽は不明なのだが、女性の太ももや赤い半襦袢がチラチラするように安来節の衣装を改良したのが、吉本興業の林正之助や吉本せいだったという話を聞いたことがある。
戦後の昭和20年代後半に舞台役者・浅川光代が太ももをチラチラさせる手法で大人気となり、「チラリズム」という言葉が誕生したのだが、林正之助は大正時代にチラリズムを実行していたというのだ。
大正時代は、若い田舎娘の太ももや赤い半襦袢がチラチラとするだけで、男性は興奮して鼻血を出すような時代だったので、安来節はエロ目的で大人気となった。
また、「渡部お糸」の一座に居た「遠藤お直」も吉本興業に所属し、安来節は昭和の初めまで流行。演芸の中心にあった落語の人気が低迷して「大正の落語不況」を迎えており、寄席の経営は苦しくなっていたので、安来節は落語不況に苦しむ吉本興業の救世主となった。
そうした一方で、安来節が全国的な人気になっていたので、引き抜き合戦が起きた。
安来節が儲かると分かってくると、他の興行師が島根県に乗り込んで、契約金をつり上げる。すると、親は吉本興業の寄席に出ていた娘を呼び戻して、契約金の高い興行師の方に娘を行かせるという具合で、島根県では安来節成金が大勢生まれた。
また、安来節で「エロは儲かる」と学んだ吉本興業の林正之助は、安来節でも相当に儲かったので、外人の裸踊りなら大儲け出来ると考え、アメリカのレビュー団「マーカス・ショー」の招聘を決断。昭和9年(1934年)3月に東京・有楽町の日本劇場で「マーカス・ショー」を開催して、吉本興業の社格を上げる程の大成功した。
NHKの朝ドラ「わろてんか」の実話は「「わろてんか」のモデル・吉本せいの立志伝」をご覧ください。
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