吉本興業の創業者・吉本吉次郎(吉本泰三)の継母・吉本ユキ(出口ユキ)の立志伝です。
吉本ユキ(出口ユキ)の生年月日や家系など詳しい事は不明で、明治29年(1896年)頃に吉本吉次郎(吉本泰三)の父・吉本吉兵衛と結婚し、後妻として吉本家に入った。ただし、吉本ユキ(出口ユキ)が正式に籍を入れたのはもう少し後である。
明治29年(1896年)は吉本吉次郎(吉本泰三)が11歳であり、11歳という多感な時期に、後妻と連れがやって来たのだ。
吉本ユキ(出口ユキ)も再婚であり、吉本吉次郎(吉本泰三)と同じ年くらいの出口光三郎という連れ子が居た。出口光三郎は後に慶應義塾大学を出ているとので、かなり優秀だったようである。
この出口光三郎が吉本家の荒物問屋「箸吉」を良く手伝ったので、父・吉本吉兵衛は出口光三郎を溺愛するようになった。
このため、荒物問屋「箸吉」の跡取り息子である吉本吉次郎(吉本泰三)は、「父は連れ子の出口光三郎に箸吉を継がせるつもりではないか」と強い不信感をもつようになり、仕事がおろそかになっていった。
すると、吉本ユキ(出口ユキ)の小言も多くなり、吉本吉次郎(吉本泰三)は仕事を放り出して芸人道楽(芸人遊び)に走るようになったのである。
これではいけないということで、父・吉本吉兵衛は、連れ子の出口光三郎を呉服店を経営する親戚へ養子に出した。
しかし、吉本吉次郎(吉本泰三)は一向に芸人遊びを辞めようとしないので、父・吉本吉兵衛は結婚して身を固めれば、仕事に打ち込んでくれると考え、明治40年(1907年)に米穀店・金融業を営む林家の三女・林せい(吉本せい)を嫁に迎えたのである。
こうして、林せい(吉本せい)が荒物問屋「箸吉」に入ると、吉本ユキ(出口ユキ)は林せい(吉本せい)にイジメを開始する。大阪船場名物の「嫁いびり」である。
林せい(吉本せい)が結婚三日目の里帰りから戻ってくると、吉本ユキ(出口ユキ)は大きなタライに山盛りなった厚子(分厚い生地の衣類)を林せい(吉本せい)1人に洗わせたのである。
厚子を洗うのは力も要り、林せい(吉本せい)が洗い終わったころには、手の皮がむけて水が血に染まっていたという。
また、吉本家10人所帯の食事は林せい(吉本せい)が担当しており、吉本ユキ(出口ユキ)が林せい(吉本せい)にコンニャク3銭分を購入するように命じたことがある。
林せい(吉本せい)は、1丁5里のコンニャクを6丁買い求め、ダシじゃこを入れて煮しめにして食事に出した。
すると、吉本ユキ(出口ユキ)は「このコンニャクの炊き方は何や。正月の煮染めやないで。コンニャクを惣菜に買うたんは『おつけ』にするためやで。『おつけ』やったら汁でお腹が一杯になるさかい、ご飯の足しになりますのや。こないな所帯持ちの悪い嫁に来られたんでは、ワテら乞食をせんならん」と嫌味を言った。
吉本ユキ(出口ユキ)は小言の多い人だったようで、こうした「嫁いびり」が頻繁にあったようが、「嫁いびり」はそう長くは続かなかった。
跡取り息子の吉本吉次郎(吉本泰三)は、林せい(吉本せい)と結婚しても芸人道楽を辞める事は無く、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という怪しげな一座の太夫元(興行主)になって地方巡業に出ては借金を増やしていた。
荒物問屋「箸吉」の方も日露戦争後の不況の影響で不当たりを食らって経営が悪化していた。
そのようななか、荒物問屋「箸吉」は、大阪市電鉄の計画に引っかかり、明治43年(1910年)に立ち退きを命じられ、大手前へと移転することになった。
父・吉本吉兵衛は最後の望みを託して、吉本吉次郎(吉本泰三)に吉本家の当主が名乗る「吉兵衛」を襲名させ、家督を譲って隠居したが、やはり無駄だったので、吉本ユキ(出口ユキ)を連れて黒門町へと待避した。
最終的に、経営悪化している荒物問屋「箸吉」を林せい(吉本せい)だけで支える事はできず、吉本吉次郎(吉本泰三)が1年間の旅巡業に出ている間に荒物問屋「箸吉」は廃業した。
そして、林せい(吉本せい)は吉本家から離れて実家の林家に戻り、吉本吉次郎(吉本泰三)の帰りを待った。
その後、吉本吉次郎(吉本泰三)が天満天神(天満宮)裏にある三流の寄席「第二文芸館」を買って寄席の経営を開始した。
明治時代は芸人が差別される身分だったので、父・吉本吉兵衛は怒って吉本吉次郎(吉本泰三)夫婦を勘当同然の扱いをしており、以降は吉本ユキ(出口ユキ)の詳しい動向は分からない。
なお、吉本ユキ(出口ユキ)に関連する人物の立志伝につては、「吉本せいの関係者の立志伝」をご覧ください。
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