NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本せい(林せい)の生涯を実話で描く「吉本せいの生涯」の第3話「吉本せいが吉本泰三と結婚した理由」です。
父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)の商才に惚れ込み、跡取り息子が居るにもかかわらず、吉本せい(林せい)に婿養子を取って林の米屋を継がせることに決めていた。
ところが、大阪市東区内本町橋詰町で4代続く老舗の荒物屋「箸吉」を経営する吉本家が、林家に吉本せい(林せい)との縁談を申し込んできたのである。
荒物問屋「箸吉」は、普通よりも3割ほど長い箸を主力商品として、高級料亭などに箸を卸しており、吉本家の当主は代々「吉兵衛」を襲名していたので、「箸吉」というが、店舗が橋詰にあったので「橋吉」と書く人も居る。
この時の当主である4代目・吉本吉兵衛は商才のある人で、日露戦争特需の勢いに乗って貿易も始めており、商売は繁盛していた。
さて、この4代続く老舗の荒物問屋「箸吉」が、商売的には格下の林家に縁談を申し込んだのは、少し事情があった。
ことの発端は、妻に先立たれた4代目・吉本吉兵衛が、吉本ユキ(出口ユキ)を後妻にとったことにある。
この後妻・吉本ユキ(出口ユキ)には、出口光三郎という子供が居た。
そして、連れ子の出口光三郎は、優秀で吉本家の荒物問屋「箸吉」をよく手伝ったので、4代目・吉本吉兵衛は連れ子の出口光三郎を可愛がるようになった。
すると、「箸吉」の跡取り息子である吉本吉次郎(吉本泰三)は、父親は連れ子の出口光三郎に「箸吉」を継がせるつもりではないか、と不信感を抱いた。
さらに、後妻・吉本ユキ(出口ユキ)は、口うるさい人だったようで、吉本吉次郎(吉本泰三)は色々と小言を言われるようになり、段々と家に居づらくなったのである。
その結果、吉本吉次郎(吉本泰三)は仕事を放り出して、芸人遊びに走ったのだ。
これに困った父・吉本吉兵衛は、連れ子の出口光三郎を親戚の家に養子に出し、「箸吉」の跡取りは吉本吉次郎(吉本泰三)であることを示したが、吉本吉次郎(吉本泰三)は芸人遊びを止めてくれなかった。
そこで、父・吉本吉兵衛は、結婚して身を固めれば、芸人遊びを止めて仕事に精を出してくれるだろうと考え、商才豊かだという吉本せい(林せい)の噂を聞きつけ、林家に縁談を持ち込んだのである。
林家と吉本家の間に商売上の取引は無かったようだが、「箸吉」は高級料亭に箸を卸しており、林家の米穀店も高級料亭に米を販売していたので、箸と米という関係で、全く知らぬ仲では無いだろう。
しかし、林家の当主・林豊次郎は、三女・吉本せい(林せい)の商才に惚れ込んでおり、跡取り息子の長男が居るにもかかわらず、三女・吉本せい(林せい)に婿養子を取って林の米屋を継がせようと考えていた。
このため、林豊次郎は吉本家からの縁談を断ろうとしたのだが、妻「林ちよ」の反対に遭い、吉本家と林家のお見合いが行われた。
ただし、林豊次郎は頑固な性格だったので、妻「林ちよ」の説得にも、なかなか応じず、縁談が持ち込まれてから、見合いが行われるまで相当な時間がかかっている。
ところで、明治時代は太った女性が人気があった。西郷隆盛も太った女性が好きな「デブ専」として有名で、歌舞伎の演目「西郷と豚姫」になっている。
幸い、吉本吉次郎(吉本泰三)も太った女性が好きだったので、吉本せい(林せい)のことを気に入り、両親同士の話し合いによって縁談が成立した。
吉本せい(林せい)の方は吉本吉次郎(吉本泰三)をどう思っていたか分からない。明治の女性に反対する権利はないので、両親が決めた結婚相手と結婚したのである。
こうして、吉本せい(林せい)は、明治40年(1907年)に吉本吉次郎(吉本泰三)と結婚したのである。吉本せい(林せい)が19歳、吉本吉次郎(吉本泰三)が22歳のことだった。
ただし、この時は吉本せい(林せい)は見習い奉公という形で「箸吉」に入っており、正式な結婚(入籍)は3年後の明治43年(1910年)4月8日のことである。
「吉本せいの生涯-嫁いびりと荒物問屋「箸吉」の倒産」へ続く。
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