朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第25話「坂野惇子が阪急百貨店に激怒し、清水雅に呼び出される」です。
これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。
創業間もない坂野惇子のファミリアは、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、設立から1年後の昭和26年(1951年)4月16日に、阪急百貨店のショーケース2台で直営店「阪急ファミリアグループ」をオープンした。
阪急ファミリアグループは、宣伝をせずにオープンしたが、ファミリアの販売員・野田美智子の優秀な接客も手伝い、オープン初日からよく売れたので、オープンから1週間もするとショーケースが寂しくなった。
「こんなガラガラのケースのままじゃ、迷惑です」
阪急百貨店の担当者は、ガラガラになった阪急ファミリアグループのショーケースを見て、ファミリアの坂野惇子に、早急に商品を補填するように命じた。
しかし、ファミリアの坂野惇子は、阪急百貨店の担当者の「1ヶ月売上20万円」という予想に基づいて生産計画を立てていたので、阪急百貨店の担当者が自分の予想が外れたというミスを棚に上げ、商品を補填するように言ってきたことに腹を立てた。
そこで、坂野惇子は「ファミリアは、そちらの言われた通りに作っています。早く売れて怒られるのは心外です。それなら、1台、お返ししましょう」と答えた。
当時は、百貨店のショーケース1台にプレミアが付いており、問屋が百貨店のショーケースを奪い合う時代に、ファミリアの坂野惇子はショーケースを返すと言いだしたのだ。
ファミリアは、好条件の買い取り契約を破棄して不利な委託販売を選んだり、問屋ながら誰もが欲しがるショーケースを返すと言ったり、阪急百貨店には変わった事ばかりだったので、この騒動は阪急百貨店の社長・清水雅の耳にも入った。
それを聞いた社長・清水雅は、「問屋がショーケースを奪い合っているのに、なかなか強腰で面白いことを言う人たちだ。是非、会ってみよう」と言い、ファミリアの坂野惇子を呼ぶように命じた。
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翌日、ファミリアの坂野惇子は、阪急百貨店の社長・清水雅から呼び出しを受けた。
阪急百貨店の社長・清水雅は、創業したばかりのファミリアを認め、ファミリアを見いだしてくれた恩人で、坂野惇子は社長・清水雅に感謝いていたが、まだ会った事はなかった。
坂野惇子は、せっかくチャンスを与えてくれたのに、ショーケース1台を返すなどと言ったため、叱られるのだろうと思い、緊張しながら、社長室へ入る。
ところが、阪急百貨店の社長・清水雅は、財界では「阪急のシーさん」「阪急のガーさん」と呼ばれる有名な愛嬌者で、大勢の人から愛される人物であった。
社長・清水雅は叱るどころか、「私はどんな方がファミリアをやっているのか知らなかったのですが、聞けば、貴女のお兄さん(佐々木隆一)や山下三郎君(田村枝津子の姉の夫)とはよく知った仲なんですよ」と言って、坂野惇子の緊張を和らげてくれた。
そして、社長・清水雅は「あなた方のやり方は、きっと成功しますよ。このさい、ケースを減らしたいなどと言わず、2台から5台へ増やすくらいの事を考えて、積極的に作って売る工夫をしてくれませんか。あなた方のグループは今に阪急百貨店の名物にもなりますよ」と言って応援してくれた。
暖かい言葉に感動した坂野惇子は、ファミリアに戻って、阪急百貨店の社長・清水雅の言葉をみんなに伝えた。
すると、田村枝津子(田村江つ子)も田村光子も村井ミヨ子も阪急百貨店の社長・清水雅に感謝し、社長・清水雅の期待に応える為に頑張る事を誓った。
ところで、ファミリアが優秀なのは商品だけではなかった。ファミリアには良家のお嬢さんがたくさん働いていたので、ファミリアの販売員は言葉が丁寧で礼儀正しく接客も優れていた。
このため、阪急ファミリアグループの販売員は直ぐに評判となり、阪急ファミリアグループの販売員・野田美智子や山本豊子は阪急百貨店の模範販売員に選ばれた。
また、ファミリアの社員は商品を丁寧に扱うので、阪急百貨店で模範とされ、ファミリアは阪急百貨店に大きな影響を与える存在となっていった。
こうして、坂野惇子が創業したファミリアは順調に成長していくのだが、そう良いことばかりではなく、役員異動にや不正会計により、混乱期を迎えるのであった。
坂野惇子の立志伝-第26話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
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